どんなにはかないストリート・アートでも、ここまで刹那的なものは今までなかった。明け方の光の中、作品が完成すると、数分後には通行人が立ち止まり、じっと見つめる。そして一部を持ち去ってしまう。ついには作品全体が崩れ落ちる。創作の行為も、突然降り出してはすぐやむ春の雨より短いが、破壊はさらに迅速に進む。まもなく、花びらやねじれた茎が句読点のような姿で地面に散るだけになる。何もかもが記録されるこの時代、もちろん、この作品もソーシャルメディアで生き残る――滝のようなランやエキナセアが、人の手で見事に生まれ変わった自然の美として。だが画像でさえも、やがてしおれて枯れていく不穏な予感をはらんでいる。



ダリアとアジサイのインスタレーション。

新進ゲリラ・ フローラル・アーティストのルイス・ミラーが、

2017年9月5日の夜明けにニューヨークのウェストビレッジで

本誌のために特別にアレンジ

PHOTOGRAPH BY NICHOLAS CALCOTT



 ゲリラ・フラワー・“フラッシュ”と呼ばれるアーティストたち。たとえば、メルボルンを拠点とする夫婦のアーティスト“ルーズ・リーフ”。ふたりが手がける巨大なリースは、町なかの路地で空中に浮かび、異次元への入り口のようだ。マンハッタンのフローリスト、ルイス・ミラーは、夜の闇にまぎれて、市内のあちこちにあるゴミ箱に花を飾る。腰の高さほどの金属製メッシュのゴミ箱を巨大な花瓶に見立てるのだ。彼らは、アートの場となったことなどないような場所で、瞬時に消えゆくさだめの装飾活動を展開する。都市環境の中にできるだけ長く作品を残そうとするグラフィティとは異なり、これらのインスタレーションは、自然の移ろいやすさに抗うことなく、そのまま表現するのである。



空中に浮かぶモンステラ・デリシオサのリース。
“ルーズ・リーフ”と名乗るメルボルンのチームの作品

LOOSE LEAF



 ファッションデザイナーも、自発性とサプライズに富む作品を目指してきた。アレキサンダー・ワンは先日のショーで、観光バスをマンハッタンやブルックリンのあちこちに停め、即興劇のようにコレクションを披露した。とはいえ、ファッションには、草花のような、はかなさはない。命の短い植物を用いたストリート・インスタレーションは、かつて“ハプニング”と呼ばれた表現形式に賛同しているようでもあり、反発しているようでもある。


“ハプニング”は、予測のつかないやり方でパフォーマンス・アートやインスタレーションを行なうものだった。“フルクサス”と呼ばれた1960年代の前衛芸術運動のアーティストたちは、少なくともその場に小さなアタッシェケースを残した。中にはゲーム、プラスチックのスポイトがついた瓶、カード、石の標本など、さまざまな物体が詰め込まれていた。1970年代にキャロル・グッデンとゴードン・マッタ=クラークがソーホーにオープンした“フード”というレストラン兼インスタレーションの場では、お客は食べた肉料理の骨を磨いて作ったネックレスを身につけて帰ったりもした。だが、花は、何の跡形もなく消えてしまう。


 だからこそ、植物という素材にアーティストたちは今、大きな可能性と魅力を見いだすのかもしれない。20世紀初頭に引かれた、ファインアートとデコレーションの間の境界線をぼかすことに、これほど貢献できる素材はない。当時、彫刻は“ハイアート”や“ファインアート”と称されたが、フローラル・アートは〝デコレーション〞というレッテルに甘んじなければならなかった。しかし、そんな区別は、時代にそぐわないものになった。ロンドンのレベッカ・ルイーズ・ロウの作品を見れば、それが実感できる。2015年のチェルシー・フラワー・ショーで、彼女は花畑を天井から逆さまに吊るして見せた。東京の東 信(あずま まこと)は、ドリス・ヴァン・ノッテンなどの依頼を受け、氷に閉じ込められた植物の彫刻を創作した。