気鋭の芸術家がある場所に招かれて制作に専念する制度を、アーティスト・イン・レジデンスという。その代表格といえば、ニューハンプシャー州の森の中にあるマクダウェル・コロニーや、メイン州のスカウヒーガン・スクールだろう。ローマのアメリカン・アカデミーに滞在する「ローマ賞奨学金制度」や、チナティ財団が運営するプログラムもある。チナティ財団は、評論家としても活躍した美術家のドナルド・ジャッドがテキサス州マーファに創設したものだ。アーティスト・イン・レジデンスになると、たいていは日常の喧騒や営みから解放されて制作に没頭することができる。滞在先が風光明媚な場所であることも多い。


 ところがかつて、アーティスト・イン・レジデンスの意味合いが今とはまったく違う時代があった。まず、プログラムに参加してもふだんの生活から切り離されることはない。参加者に期待される役割は、ほかの芸術家たちにインスピレーションを与えたり、アートの薫りなどまったくしない場所にクリエイティブな刺激を吹き込んだりすることだった。たとえば、1966年にロンドンで美術家のバーバラ・スティーブニーと夫のジョン・ラサムが立ち上げたA.P.G.(Artist Placement Group)。ラサムは当時の英国を代表するコンセプチュアル・アートの作家であり、影響力をもった人物だ。


A.P.G.は、アーティストを工業品メーカーや政府機関に送り込んで科学とビジネスを学ばせると同時に、現場に彼らのアイデアを反映させることを目的としていた。A.P.G.のプログラムに参加したアーティストたちはまた、可能な限り、この経験に着想を得た展覧会を開催するよう求められていた。ラサム自身もエジンバラのスコットランド政府へ赴き、オイルシェールから石油を抽出する際に生じる廃棄物が堆積してできた“ぼた山”について調査している。他方、A.P.G.の創設にも加わった美術家のデビッド・ホールは「TV Interruptions」という短編映画を10本製作した。


当時は製作者クレジットなしではあったものの、この作品はスコットランドのテレビ局で放映され、今日では英国における映像アートの金字塔として位置づけられている。A.P.G.が運営していたアーティスト・イン・レジデンスは、革新的で後世に語り継ぐ価値が高いと評価され、保存されていたアーカイブスは2004年にテート・ギャラリーが買い取った。なお、A.P.G.は1989年に名称をO+I(Organization and Imagination)に変更している。



イーファ・バン・リンデン・トルがESAで

アーティスト・イン・レジデンスのあいだに制作し、

2016年のアルスエレクトロニカ祭に出展した《Second Story-Into the Dark》。

彼女は宇宙の現象を読み解くために爆発物を研究している

AOIFE VAN LINDEN TOL,“SECOND STORY ー INTO THE DARK,” 

MATERIALS: BOOK, BLACK POWDER.

IMAGE AND COPYRIGHT AOIFE VAN LINDEN TOL



 ちょうど同じ頃、米国でも近代アートと科学のコラボレーションを進めようと、未来のビジョンと革新的なアイデアをもったふたりの人物が働きかけていた。ひとりは、ジョージ・ケペッシュ。1967年、マサチューセッツ工科大学(MIT)の中に最先端のビジュアルアートを研究する施設を創設した人物だ。もうひとりは美術家のロバート・ラウシェンバーグ。彼も同じ時期にE.A.T(.Experimentsin Art and Technology)を立ち上げている。この組織は、アーティストと科学者が協働するプロジェクトを新設し、それらを支援することを目的として、ラウシェンバーグとふたりの工学者(ビリー・クルーヴァー、フレッド・ウォルドハウアー)、さらに美術家のロバート・ウィットマンと共同で設立された。


E.A.T.のプロジェクトの中でもっとも注目を集めたのは、1970年の大阪万博に出展された一連のインスタレーションだ。中谷芙二子と物理学者トーマス・ミーの共同作品《霧の彫刻》もそのうちのひとつだった。大阪万博の2年後、ラウシェンバーグはNASAに招かれ、初の有人飛行として月へ向かうアポロ11号が発射される瞬間に立ち会った。このときの経験は、リトグラフの秀作として名高い《Stoned Moon》の制作につながった。



1970年の大阪万博で、「ペプシ館パビリオン」を

人工の霧で包む中谷芙二子とトーマス・ミーの《霧の彫刻》

FUJIKO NAKAYA, COURTESY OF E.A.T