建築のデザイン性を重視する日本には、見たこともないような独創的な作品や実験的な建築を高く評価してきた歴史がある。緑豊かな軽井沢の森にたたずむ、まるで別世界からやってきたようなユニークな建築作品を前・後編の2回にわたり紹介する。






 一方で軽井沢が「建築の実験場」になることで、逆に、日本が建築のデザイン性を重視して、今まで見たこともないような独創的な作品、奇妙な作品、実験的な作品を高く評価してきた歴史が忘れられてしまう懸念がある。西洋人が抱く「不思議な国、日本」というお決まりのイメージ―個性的な凝ったストリートファッションを着こなすティーンエイジャー、ロボットやモンスターの格好をしたウェイターがいるカフェ、巨大なパフェ―に日本文化の特殊性が表れているのではない。



奇妙なことを受け入れ、目新しさを恐れず、新たな世界を見せてくれるような刺激的なことを楽しむ。そういうものに対して斜に構えることなく、素直に感動する日本人。そういう精神こそ日本の特異な国民性なのだ。おそらく、日本には他国よりも見た目を重視する文化があるからではないか。



サンディエゴの建築家ケンドリック・バングス・ケロッグによって

1980年代後半に星野エリアに建てられた有機的モダニズムの

「石の教会内村鑑三記念堂」



コンクリートのアーチがドミノ倒しのように傾いて連なり、垂直なアーチはひとつもない。

中に入ると石を積み上げた壁で囲まれた荘厳な世界が広がる



日本人にとって見ることは生活の体験の一部というだけでなく、生活そのものなのだ。料理は舌で味わうだけでなく、目で楽しむものでもある。円錐型のお香は確かに香りを楽しむものだが、まずその形に目を奪われる。別の言い方をすれば、自分の中にあるものを何かの形にして表現することと自分を主張することの違いだ。


後者は米国人が価値をおく、自由に発言したり、行動したり、ふるまう権利。前者は日本人のモノの見方で、ある種の逸脱を許容する寛容さがある。つまり、日本文化のマナーやエチケットに従っている限り、誰でも好きなように自分を表現することができる。日本人にとって“社会”は“個人”を超えた存在である。だが、少なくとも外面的には、“個人”は自分自身の選択によってつくられる自分だけのものだ。