彼は、少年時代にジェームズ・ボンドの映画を劇場で観たことを憶えている。どの作品かは忘れてしまったが、あまりにも興奮して、自分でボンド映画を作ることを想像し始めた。あらすじを考えるだけでなく、頭の中でワンショットずつ組み立てていった。物語を伝えるにはどんな照明やカメラのアングルや編集がふさわしいかを考え、自分なりの作品を頭の中で作りあげていった。英語の映画で、意味がわからないところはなかったかと尋ねると、彼は頭を振った。「内容はわかったよ」と彼は言う。


「あとになってやっと字幕つきで見直してみたとき、それぞれの役柄も、彼らがしていたことも理解できていたことがわかったんだ」。言葉ではなく、表情や動きだけを頼りに映画を観た経験は、視覚を通していかに物語を伝えるかというセンスを養うのに役立ったと彼は言う。パクが大学時代にヒッチコックの『めまい』(’58年)を観て影響を受け、映画監督になろうと思ったという話は有名だ。それは実話だが、それよりずっと前から、彼は監督が考えるように考えていた。映画としていかにストーリーを伝えるかを、コマごとの映像や表情のひとつひとつの形としてイメージしていたのだ。言葉を使わずに表現するのではなく、言葉を使いつつも、パクは言葉が語る以上のことを表現する方法を模索した。



『オールド・ボーイ』のワンシーン

PHOTOGRAPH BY LEE JI-YEON. COURTESY OF EGG FILMS



 だが、当時の韓国では、映画監督は職業としてなりたつ選択肢ではなかった。1980年の末に、パクが彼の妻にプロポーズをしたときは、義理の母となる人に噓をつき、建築家だった父のように教授になるつもりだと言った。その後、彼は最初の作品に取りかかったが、その作品は大失敗し、レビューを書いたのは彼自身だけだった。しかも偽名を使って。映画評論家の友人には「友達の映画は批評できない」とパクの映画のレビューを書くことを断られた。


「たぶん、ほめるところがなかったんだと思う」とパクは言う。しかしその友人は、パクが書いた映画評を自分の名前で出版することを許してくれたのだ。二作目を作るまで、パクは映画レビューや批評を書いて金を稼いだ。二作目も失敗に終わると、また同じことの繰り返しだった。「ちょっとおおげさだけど――」とパク。「でも私はこう考えるようになった。『映画業界全体がグルになって、俺をとことんバカにしようとしているんだろうか? 俺が疲れきって倒れてしまうまで、誰かが俺のことをハメようとしているんじゃないか?』ってね」。


1999年に、彼は短編映画『審判』を製作する機会を与えられた。ソウルのショッピングセンターが崩壊した事故を題材にした映画だ。このとき、彼は舞台俳優たちの助けを借りることにした。初めて台本の読み合わせを行い、ただ自分の意見を俳優たちに伝えるかわりに、彼らの意見を聞いたのだ。「俳優たちは操り人形じゃないことに気づいたんだ」と彼は言う。「たとえば脚本の対話の部分で、いいセリフが思い浮かばな
いとする。そうしたら監督として、俳優たちに正直に『これ以上いいセリフが浮かんでこないんだが、何かいい案はあるかな?』と聞けるんだ。これは小説家には味わえない種類の贅沢だよ」


 パクは彼の3作目となる劇場公開作『JSA』(’00年)を作るとき、この手法をさらに活用してみた。この映画は、北朝鮮と韓国の間の国境を警備する4人の兵士の物語だ。国境をはさんで二人ずつの兵士が禁じられた友情を育み、悲劇的な結末を迎える。パクと俳優たちは協力し合うだけでなく、実際に友人にもなった。「私たちは当時、みんな若かった」と彼は言う。「夜まで撮影して、それから夜っぴて飲んで、2~3時間だけ寝て、翌日もまた撮影したよ」。映画が公開されると、韓国で国内最高の興行収入を記録した。この映画の成功で、パクは共同作業することの価値を確信し、それ以来、この方法で仕事をしてきた。睡眠時間を増やし、飲む時間は減らすようになったが。彼は脚本を書くかなり前から、核になるチームのメンバーたちと話し合い、それを土台に映画を作っていく。脚本の下書きを書き始めるとすぐに、『JSA』以来ずっと組んできた作曲家と一緒に、どんな音楽にするかのアイデアを出し合う。打ち合わせに遠方まで出向く必要はない。その作曲家はパクの隣の家に住んでいるからだ。




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