‘‘ IT’S TIME, ’’ SAMMY SLABBINCK, 2015

 懐古主義は今、 あまりにもはっきりと尊敬の念から生じているので、 レプリカに限りなく近づいている。 どうやら私たちは、 模倣やパロディというより、 忠実な再現ともいうべきもの―― あえて言うならば、ドラァグクイーンのショーというよりも、トリビュート・バンドといったところ―― の流れの中に身を置いているようだ。


 カルチャーを語るとき、懐古主義そのものに目新しさはない。いつだって過去はリサイクルされてきた。時代によって変わるのは、過去を振り返るときの心のありようで、生きづらい時代になると、人は過去を懐かしむとき、明るさを見いだそうとする。世の中が不安定だった70年代では、『ハッピー・デイズ』のようなテレビドラマに代表されるように、50年代のカルチャーはごてごてしたB級の琥珀の中に入れられてしまった。この10年あまり、世界の金融経済が崩壊していくなかで、人は『マッドメン』が描く60年代の世界に引きこもるようになり、キャメルの煙草やカクテルで語られるスタイリッシュで薄ぼんやりとした空気感を切望した。昨年は、歴史上もっとも激しい論争を招いた大統領選が繰り広げられるなか、ざらざらとした質感の古い映像や80年代のサウンドが流れる『ストレンジャー・シングス未知の世界』を観ると、少しは心が安らいだ。


 この一年ほどは、尊敬の念から生まれた懐古主義が続々と出現し、その回顧表現には明らかに深い愛情が感じられ、限りなくレプリカに近いものとなっている。模倣やパロディというよりも忠実な再現と呼ぶべき流れの中に、今の私たちは身を置いているようで、あえて言うならばドラァグクイーンのショーというよりも、トリビュート・バンドといったところだ。高級デザイン誌やトップクラスのレストランのインテリアには、あちらこちらにマクラメが使われていて、音楽配信サービス「スポティファイ」のトップ画面をミスフィッツやレナード・コーエンといった往年のアーティストたちが飾り、秋に行われたコレクションのランウェイには、肩パッドやボディスーツが登場した。


これらはたぶん、今時の流行としては想定内だろう。しかし、世の中が停滞しているときに大人向けの塗り絵本が人気を集めていることは、創造力がこれまで以上に大きな危機に瀕していること―少なくとも向上心の危機― を意味するのではないかと思えてくる。


 ヴェトモンのチーフ・デザイナーで、バレンシアガのクリエイティブ・ディレクターも務めるデムナ・ヴァザリアは、マルタン・マルジェラから直接的に影響を受けたことを隠そうとしない。近年のショーで、ヴェトモン― 今を生きるアヴァンギャルドの申し子たち―は実質的にマルジェラの80年代後半と90年代初頭のデザインを再現している。


ベルリンを本拠地とするギャラリー「スプルース・メイガース」は昨年、ロサンゼルスにもスペースを開設した。オープン時に開催した企画展のひとつは、アート・ディーラーのモニカ・スプルースが80年代に手がけて短命に終わった雑誌『オードコローニュ』に対する文字どおりのお墨つきともとれる内容であり、女性アーティスト5人― ジェニー・ホルツァー、バーバラ・クルーガー、ルイーズ・ローラー、シンディ・シャーマン、ローズマリー・トロッケル―の作品がフィーチャーされていた。かつて『オードコローニュ』誌に掲載されたものが、この新しいギャラリーで大々的に再現されたかたちだ。西海岸をさらに北上したサンフランシスコでは、近代美術館内のレストラン「InSitu」が「洗練された食のシーンを彩る、ぴりっとした新しいコンセプト」と呼ぶメニューを提供し始めた。世界で活躍するシェフたちの料理の中から現在も提供されている80品を集めたもので、いわば料理界の"グレイテスト・ヒッツ"だ。過去と現在のあいだ、ものを創りだすことと選びだすことのあいだ――。


 これらの境界線がここまで細くなったことはない。世の中のどんな些細なものをとっても、今ほどシニカルだったこともないだろう。もちろん、なかには年代やマーケティング上の問題もある。対象になっている年代層が若すぎて、最初に流は行やった当時のことなど覚えていないというケースが増えているのだ。ミレニアル世代にとっては、キース・ヘリングを参考にしたりモダン・イングリッシュの曲を聴いたりしても、過去が恋しくなる懐古主義なのではなくて、発見の喜びを引き起こすものであり、それらの背景にある意味については関心がない。ファッションデザイナーのジョナサン・アンダーソン(彼は90年代のイタリア版『ヴォーグ』からはっきりとわかるかたちでインスピレーションを手繰り寄せたことがある)は、次のように語っている。


「ある時代を選び、それを切り取って、その頃の人たちがやっていたことをのぞいてみる―。このことに何か意味があるだろうか? 特に意味がないからといって、はたしてそのことが問題なのか?」


 テクノロジーのおかげで深淵な歴史の集積に誰でもアクセスできるようになった今、過去は現在の代わりとして選択しうるものになった。インスタグラムを閲覧していると、さまざまなことに打ち込む人々―フラッパーの格好をする、ヴィクトリア朝の料理に興じる、17世紀のリトアニアに暮らしたヤギ飼いの生活にならって自宅のインテリアをあつらえる―の様子がわかるが、そこではもちろん、年代や階級や人種に関して時代錯誤的な要件を突きつけられることはない(一種の理想郷なのだから、誰も天然痘で死んだりはしない)。現代の快適さを手放すことなく、ある時代の服を着てほかの時代のものを食べ、さらにまた別の時代の音楽を楽しむことができるのだ(これにもっと不気味な味つけを加えたのが、HBOで放送中の『ウェストワールド』だ)。


 川の流れのように絶え間なく現在が未来へとつながることはないのだと、「ブロック宇宙」と呼ばれる理論は説く。むしろ時間は、過去・現在・未来が等しくリアルな状態で凍結されているという。このような理論は、私たちが近頃経験している懐古主義の風潮について、異なる視点からの興味深い考察―過去の過ちはおそらく目の前でも起きていて、それらは修正可能(ないしは、映画『メッセージ』('16年)が示唆するように、未来の過ちは回避可能)―を提供してくれる。


スプルースが『オードコローニュ』で当初掲げた目標のひとつが、ロサンゼルスでこのほど開かれたショーにおいて、その主たる目的として引き継がれた。アートシーンで不当に扱われてきた女性芸術家たちの名誉を回復することだ。どの時代においても回顧され続けてきたウィリアム・フォークナーは、1951年に書き残した言葉で、その高い見識を示している。「過去は死んでなどいない。過ぎ去ってさえもいないのだ」