サンローランというメゾンのデザイナーの地位を引き継ぐアンソニー・ヴァカレロ。彼なりの流儀で過去を今に結びつける

BY ALEXANDER FURY, PHOTOGRAPHS BY JACKIE NICKERSON, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

画像: サンローランの新しいデザイナー、アンソニー・ヴァカレロ。ユニヴェルシテ通りのアトリエで

サンローランの新しいデザイナー、アンソニー・ヴァカレロ。ユニヴェルシテ通りのアトリエで

「サンローランの新クリエイティブ・ディレクター、アンソニー・ヴァカレロに会いに、ハウスにぜひいらしてください」というメッセージが届いた。が、“ハウス”とはどこだろう。ヴァカレロの自宅? まさかそんなはずはない。サンローランの本拠地、つまりメゾンのことだろうか。

 おそらくメゾンに違いないが、パリのメゾンは3カ所に分かれている。それぞれに違う役割と独特の雰囲気があって、まるでキリスト教の三位一体、“父、子、聖霊”のようだ。なにしろ、ここで取り上げているのは、ほかでもない“聖(Saint)ローラン”なのだ。現代女性のワードローブを創造し、女性にパンツスーツをはかせた“伝道者”イヴ・サンローランは、クチュール界の苦悩するアーティストであり、20世紀のファッションの創始者でもあった。これまでのモード界で、なかでもフランス人たちから、これほど神に近い存在として崇められたデザイナーは彼のほかにいなかった。

 サンローランのひとつめのメゾンは、パリ“リヴ・ゴーシュ”(左岸)の、瀟洒なユニヴェルシテ通りに位置する。この左岸エリアにちなんで、イヴ・サンローランは1966年に発表したプレタポルテラインを「リヴ・ゴーシュ」と名付けた。そこから目と鼻の先に、イヴ・サンローランにとってときに仲間であり、大半はライバルであったカール・ラガーフェルドのアパルトマンが並んでいる。イヴ・サンローラン自身は、そこから数ブロック離れたバビロン通りのアパルトマンに暮らしていた。

 メゾンのクリエーションの拠点は、見事な改装が施された17世紀建築の大邸宅だ。冷然と幾何学的な、いかにもル・ノートル(フランス式庭園の創始者)風の生垣を作り込んだ庭園も構えている。この大邸宅の、現代的な研ぎ澄まされたセンスときわめてフランスらしい伝統を併せ持つスタイルとインテリアは、ヴァカレロの前任であるエディ・スリマンが取り決めた。だがスリマン自身の活動拠点はロサンゼルスだった。一方ヴァカレロは、パリのこの場所で創作活動を行なっている。フランスの真のクチュールメゾンとして、アトリエは伝統に従って、タイユール(テーラード)部門とフルー(軽やかなドレス類)部門のふたつに分かれている。

 サンローランのふたつめのメゾンはベルシャス通りにある。かつて大修道院、続いて元国防庁として使われたこの建物が、メゾンの企業本部になる予定だ。多くの大手ラグジュアリー企業の業績見通しが暗いなか、サンローランは逆境を乗り越えてきた。2016年の売上高は前年比25パーセント増、年間売上高は2年立て続けに10億ドル(約1,125億円)を超えた。5 年前に比べて約3倍の増収である。サンローランの株式の過半数は複合企業ケリンググループが所有しているが、グループ傘下の数あるラグジュアリーブランドの中で、サンローランは2016年に2番めの地位を誇ることになった。

 巨額の富を有する、文字どおり建て直し中のメゾン。こんな状況のなかでヴァカレロは、2016年9月にファースト・コレクションを発表した。会場には複数のスポットライトが設けられ、約10メートル大のYSLロゴのネオンがクレーンでつり下げられていた。見る人によって、あるいはその人のシニカルさの程度によって、それはベッドメリー(※ベビーベッド用モビール)にも、餌をつけた釣り針にも、ダモクレスの剣(※王の栄光を羨んだダモクレスを天井から剣を吊るした玉座に座らせ、栄華の陰に危険が潜むことを伝えた故事)にも見えた。ちなみに、この改装工事現場がヴァカレロとの会見の場というのもありえなくはなかった。

 三つめのメゾンが位置するのは、マルソー大通り5番地。ユニヴェルシテ通りのメゾンが創作の拠点で、ベルシャス通りのメゾンがビジネス面での本部なら、ここにはサンローランの魂が宿っている。世界の最も裕福で、最も洗練されたセンスの顧客たちの服をあつらえた、かつてのオートクチ
ュールハウスはここにあったのだ。建物は当時のままだが、イヴ・サンローランが2002年10月に引退して以来、そのアトリエは扉を閉じた。以来、ここはピエール・ベルジェ― イヴ・サンローラン財団の本部として使われてきた。財団はイヴ・サンローランの関心事や彼の作品とつながりのあるアートやモード展を催す慈善団体である。だがここも2016年4月に閉鎖した。この秋、大幅な改修工事を経て、これまでより少し端的な名称の「イヴ・サンローラン美術館」に生まれ変わるのだ(マラケシュにも同館がオープンする。所在地はイヴ・サンローラン通りだという)。

画像: メゾンの壁に掲げられたイヴ・サンローランの写真

メゾンの壁に掲げられたイヴ・サンローランの写真

 マルソー大通りのこの場所には、イヴ・サンローランの歴史が詰まっている。服、アクセサリー、デザイン画、サンローランに関するオブジェなど合わせて2万点以上のものがここに保管されているのだ。かつてのアトリエに配されているのは、オートクチュールの服と保存管理部のオフィス。スタッフ用のカフェテリアだった場所には、帽子に靴、そしてジュエリーが、美術館並みの厳重な管理下にて所蔵されている。デザイン画の所蔵室に鎮座するのは、高圧ガスのシリンダーだ。火災時にはこれらが爆発して部屋を蒸気で満たし、デザイン画を火から守るらしい。オープンを控えたイヴ・サ
ンローラン美術館の館長オリヴィエ・フラヴィアーノは、シーズンごとに分類され箱に保管された、これら何千枚ものデザイン画が何よりも大切だという。「なにしろイヴ・サンローラン本人の手で触れたものですからね」と彼は強調した。この建物は、いわばモード界の“ツタンカーメンの墓”なのだ。

 イヴ・サンローランにとって“歴史”、つまり“歴史と継続性”には重要な意味があった。彼は生涯で4匹のフレンチブルドッグを飼ったが、 4 匹とも名前はムジークで、一匹が世を去ると、すぐさま別のそっくりな犬を飼った。メゾンの後継デザイナーについても同じことがいえる。イヴ・サンローランがまだメゾンの舵取りをしていた頃、レディス・プレタポルテのデザインは、のちにランバンのデザイナーとして名を馳せるアルベール・エルバスに譲り、メンズは若手フランス人のエディ・スリマンに委ねた。 スリマンはいったんこのメゾンを去るが、2012年にまた舞い戻り、クリエイティブ・ディレクターとしてメンズ・レディスの全ラインを統括した。それ以外の期間はデザイナー兼ディレクターのトム・フォードや、イタリア人ステファノ・ピラーティがメゾンを取り仕切った。2016年の春、スリマンは再びこのメゾンを立ち去った。その後継者が、ベルギー生まれのまだ若きイタリア人、ヴァカレロだ。彼らのコレクションはおおよそ共通して、イヴ・サンローランの輝かしい歴史をモダンに解釈したものだった。

 さて僕はついに、ユニヴェルシテ通りの大理石を敷き詰めたサロンでヴァカレロに会うことになった。上階の仕事場からは多くの人声や物音が聞こえてきた。タイユールのアトリエを通り抜けると、専門の技術者がトワ ルを載せたボディに慌ただしくピンを刺していた。これは、安価なキャラコで表現したボリュームを、デザイナーがチェックするための試作だ。こうすればコレクション用の布を無駄に裁断しないですむ。ひさしの下の片隅で、正式には“モデリスト(パタンナー)”と呼ばれる3人が、オイルスリック・パープル(油膜風の虹色に光る紫)と口紅のように真っ赤なカーフスキンの作品に取り組んでいた。この3人のチームだけは、レザー素材が好きなヴァカレロのために採用したそうだが、それ以外はテクニックもメソッドも、すべては昔のやり方のままだ。誰もが間近に迫る秋冬コレクション用の仕事に取り組んでいた。
 こんな光景を目にできるのは特別なことだ。だがそこにいた人々は、僕がジャーナリストだと知ると怪訝そうな視線を送ってきた。タイユール部門のプルミエール(ヘッド)であるイワンデ・アニマシャウンが、大丈夫だと言い聞かせるまで、誰もが作品を覆い隠していた。コソコソしたある程度の秘密主義ならモード界の常識なので、次のシーズンのデザインを漏らしたくない気持ちはわかる。だが彼らがこんな態度をとる理由はほかにもあるのだ。前任のクリエイティブ・ディレクター、エディ・スリマンとモード界のメディアとの関係がぎくしゃくしていたために、過去この4年間はこのメゾンに誰も入り込むことができなかった。スリマンはインタビ ューをめったに受けず、一部のジャーナリストや批評家たちをショーに招くことさえ拒んでいたのだ。 一方、ヴァカレロはメゾン創設当初の温かなムードを取り戻したいと願っている。 僕がアトリエには当時の記憶や当時のメンバーがまだ残っているかを尋ねると、彼は「その頃からここにいる人がまだ何名かいるよ」と教えてくれた。イヴ・サンローラン本人の指揮下で働いていた人ならば、14人はいるそうだ。「クリエイティブ・ディレクターが替わっても、いちばん重要なメンバーは残っているんだ」と彼は言った。

 ヴァカレロは細身でダークヘア、幅の広い二重の目をしている。顎にはひげがまばらに生え、まだ37歳だが白いものもちらついている。 ベルギーの非フラマン語圏、ブリュッセルで育った彼の英語には、強いフランス語風のアクセントがある。そんなヴァカレロは、アトリエの意見を重視するのはもちろん、それ以外の面においても徹底的に謙虚な人間だ。自らのファースト・コレクションを「ワーク・イン・プログレス(制作中)」と呼び、このテーマを強調するように、ショー会場はサンローラン本社の予定地である改修工事現場にした。ビジネスの世界で最もやりにくい仕事を与えられたとき、必要となる美徳が謙虚さなのかもしれない。

画像: 1982年のレオパード柄ドレス ©FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

1982年のレオパード柄ドレス
©FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

 サンローランといえば、クリエイティブ面でも文化面でも最も影響力があるブランドのひとつだが、スリマンが導いた成功によって、財政面でもトップブランドのひとつになった。このメゾンのデザイナーになれば、誰であれスターダムにのし上がる。ヴァカレロがいま統率しているのは、年間売り上げが2億8千3 百万ドル(約318億円)の部門だ。彼は、サンローランから受け継いだものを独自に表現しながら、ブティックを新装し、新しい広告キャンペーンを撮り下ろし、まっさらなビジュアル・アイデンティティを築き上げていかなくてはならない。

 そんな彼の頭上にダモクレスの剣のごとくぶら下がっているのは、サンローランの歴史を、今の人々が望むものにどう結びつけるかという課題だ。サンローランの歴史の一部は今も生き続けてい るので、問題は少し厄介になる。イヴ・サンローランは2008年に亡くなったが、公私ともにパートナーだったピエール・ベルジェは、ヴァカレロのデビュー・コレクションで会場の最前列に座っていた。今年86歳のベルジェは、サンローランと1958年に初めて出会って瞬く間に恋愛関係となり、1976年までともに暮らし、サンローランのクチュールメゾンが閉鎖するまで社長を務めた。モード界で40年を過ごしたベルジェの情熱と激しい気性、そして頑なな厳格さなら誰もがよく知っている。傲慢そうな鼻、くしゃっと乱れた銀色の髪、突き出た顎。顔と同じく、その性格は今なお和らぐことなく健在だ。ジャケット襟のボタンホールには、バラ飾りが載った三色の略章が留めてある。これはレジオン・ドヌール勲章グランド・オフィサー受章の印なのだ。

「アンソニー・ヴァカレロのことはよくわからない。コレクションを一度見ただけなのでね」とベルジェは強くきっぱりと言い放った。「わかったかね?」と言うと、彼は鋼のような冷たい目を向けて一瞬黙り込んだ。「私には関係のないことだから。誤解のないようにはっきり言うと、私はケリンググループ元会長と現会長のピノー親子を非常に尊重している。彼らは幸い、私に助言を求めてきたことはない。だから私も助言をするつもりはないんだ」。過去のベルジェは歯に衣を着せずにものを言った。エディ・スリマンを最初に見いだして雇ったベルジェは、今も彼と個人的に親しくしている。

 一方、トム・フォードとステファノ・ピラーティに対しては否定的だった話は有名だ。でもヴァカレロのことはもう少し寛大に見ている。「フォードやピラーティと違って、ヴァカレロはサンローランが好きなようだから」。ベルジェは厳格な声色のまま言った。「それに彼は真似をしない。イヴ・サンローランを真似できるデザイナーなんて、まさかいるとは思えないけれど」
 デビュー・コレクションにおけるヴァカレロ流の解釈は、多くの人の目に意外に映っただろう。それはひと目見てわかるような、明らかなオマージュではなかった。コレクションのベースとなったのが、イヴ・サンローランが1982年7月に発表したレオパード柄のドレスだったのだ。このドレスが作られたのは、ヴァカレロが2歳のとき、という計算になる。

画像: 1967年のレザースカート ©FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

1967年のレザースカート
©FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

 サンローランというメゾンが誕生するまでのいきさつはあまり知られていない。ファッションマニアならすかさず、サンローランは20世紀の最も偉大なデザイナーとして称賛されてきた人物だと言うだろう。イヴ・サンローランは1957年に、クリスチャン・ディオールの後継デザイナーに指名されて一躍名声を得た。その3年後、パリの実存主義者をテーマにしたショーで(彼の愛した左岸スタイルの発端である)、黒のレザージャケットを発表するが、ディオール(その保守的な顧客と経営陣※訳者注)を憤慨させてしまう。

 だがこのジャケットを含む「ビート ルック」といえば、60年代の若者の反乱やカウンターカルチャー、ひいてはパンクの到来までを予見する、ストリートに着想を得た初めてのクチュール・コレクションだった。この後まもなくディオールは、サンローランが二度先延ばしにしていた兵役に出るのを許し、こっそりと代わりの後継者を雇ってしまう。するとベルジェは契約不履行の訴訟を起こして賠償金を得る。これを資金にして1961年、ベルジェとともにイヴ・サンローランは自らのメゾンを創設し、モードの革命を巻き起こすにいたったのだ。

画像: 1968年秋冬のシフォンドレス ©FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

1968年秋冬のシフォンドレス
©FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

 こうしてイヴ・サンローランは、女性のパンタロンをスタイリッシュに仕上げ、ピーコート、サファリジャケットといったメンズ特有のアイテムを女性向けの魅力的な服に変えた(小公子風のニッカボッカーズも登場したが、その影響は後年まで残らなかった)。1968年には、重ねたシフォン地からバストが透けて見える服を、ファッションショー史上初めて発表する。1971年の「40年代ルック」で見事に蘇った肩パッドは、1980年代の流行を先見した。1966年にはモード界のヒエラルキーを覆すプレタポルテラインを展開し、オートクチュールの終焉とまではいえないにしても、その影響力の陰りを物語った。

 そして2002年、 引退前の最後のショーはポンピドゥーセンターで2000人のゲストを前に開かれ、その様子は屋外の大型モニターで何千もの観衆の前に映し出された。当時のマリアンヌ(仏版自由の女神“マリアンヌ”のモデルが時代ごとに選ばれる)だった女優レティシア・カスタと、カトリーヌ・ドヌーヴ(1967 年のドヌーヴ主演の映画『昼顔』の全衣装をサンローランが手がけた)がサンローランに歌を捧げて、舞台は幕を閉じた。ふたりの“フランスの顔”が、もうひとりの“フランスの顔”サンローランに讃辞を贈ったのだった。

画像: 1970年秋冬のシルクのシャンティレースを用いたドレス © FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

1970年秋冬のシルクのシャンティレースを用いたドレス
© FONDATION PIERRE BERGÉ – YVES SAINT LAURENT, PARIS / ALEXANDRE GUIRKINGER

 さて、こんな偉大な人物といったいどう 向き合えばいいのだろう。「正直なところ、いろいろ考えすぎないようにしていたよ」。ヴァカレロは飾らずに答えた。

「ここに来てまず僕は、ピエール・ベルジェに会ったんだ。メゾンについてはもちろん、イヴ・サンローランがどういう人物だったのか、そのエスプリをきちんと理解したくてね。僕が何よりまず話を聞きたい、会いたいと思ったのがベルジェなんだ。そのあとは資料室に行って、頭の中にあるイメージを明確にしていった。頭にイメージが浮かんだものは、すべて本物の服を見て確かめたかったんだ」

 ここ半世紀のファッションに関心をもってきた人なら誰でもできるだろうが、僕はサンローランの代表的スタイルをすべてそらで言える。ピエト・モンドリアンの絵画モチーフのドレス、スモーキング、つまりタキシード、ロシアバレエ・コレクション、1971年発表のボリュームの あるグリーンのファージャケットといった具合に。僕がこれらをひとつずつ挙げていくと、ヴァカレロもうなずいていた。

「自分の頭の中にあったイメージをすべて取り出して、一週間かけてこれらの服全部を実際に目にしたんだ。驚くほど素晴らしかったよ! それから考え始めたんだ。こうやって理解したサンローランを、僕はいったいどう表現しようかと。前任デザイナーたちと、いったいどう違いを出そうかって。僕は現実的なものより、夢を見られるものが作りたかったんだ。イヴ・サンローランは最初の頃、リアルクローズを作っていたけれど、今やリアルクローズはどこの店にも、ザラにだってあるからね。そして誰もが、彼が70年代に予見したとおりのスタイルをしている。だから僕はピーコートやトレンチコート、サファリルックといったものは採り上げなかった。資料室で見たそのままのスタイルを参考にするんじゃなく、いろいろな要素をコラージュみたいに組み合わせた服が作りたかったから」

 この話を聞けば、サンローランにおける彼のデビュー・コレクションの根底にあるものが理解できる。「それぞれの服は、サンローランの歴史的なデザイン要素を集めたものなんだ」と彼は説く。1982年のドレスのたっぷりしたギャザースリーブ、 1991年のリボン飾り、ジャンルー・シーフの写真で有名な、1971年のドレスに施されたレース装飾......すべてをミックスして、ヴァカレロは今らしいスタイルを再構築したのだ。まるでグーグルイメージで「YSL」とタイプして、出てきた要素をいくつか選び取ってデザインするみたいに。こうしてヴァカレロは、ショート丈、挑発的なムード、すらりとしたレッグライン、 80年代風の誇張したショルダー、ずり落ちたように見えるアームといったディテールが特徴のコレクションを作り上げた。ヴァカレロの服が語るのは、クチュールというよりクラブカルチャーだ。ビロードやレザーのスクープネック(深くえぐった襟ぐり)のドレスの 一部は、丈をカットしてトップスにした。その下には、あのイヴ・サンローランに「できれば自分で発明してみたかった」と言わしめた唯一のアイテム、ジーンズを組み合わせる。また、ヴァカレロはサンローランのアイコン的なミニオブジェをあちこちに加えた。シノワズリー・コレクションを彷彿させるタッセル飾りはイヤリングに、カサンドラがデザインしたYSLロゴはピアス やヒールにあしらった。

画像: サンローランのデビュー・コレクションで、ヴァカレロは過去のデザイン要素をコラージュ風に組み合わせたドレスを発表した ©SAINT LAURENT

サンローランのデビュー・コレクションで、ヴァカレロは過去のデザイン要素をコラージュ風に組み合わせたドレスを発表した
©SAINT LAURENT

「それぞれの人に、その人なりのイヴ・サンローランのイメージがあるからね」と彼は不満そうにため息をついた。「サンローランはあれだけ多くのものを創り出したんだ。しょせん無理な話なのさ」。何が無理なのだろう。期待にこたえること? イヴ・サン ローランの広大な世界を一度のコレクションで表すこと? それとも、すべての人に気に入ってもらうこと? ヴァカレロがデビュー・コレクションのテーマとして、サ ンローランの歴史を代表する名作ではなく、思いがけないスタイルを選んだ理由は、 彼のこんな発言に潜むのかもしれない。「イヴ・サンローランが生み出したスタイルをすべて見ていくと、その数がほかのどのメゾンより膨大だってわかるんだよ」。彼の声が少し弱まった。「フラワーモチーフにしようかと思っても、もうすでにイヴ・サンローランが手がけている。レースの装飾にしようかなと思っても、これも彼がとっくに採り入れているんだ」

 マルセル・プルーストはこう考える。「過去の記憶は、事実のままの姿でとどまっているとは限らない」。まさにイヴ・サンローランにあてはまる言葉だ。ついでに言えば、サンローランはプルーストに傾倒したあまり、彼が所有する城館には、プルーストの作品をテーマにした内装を施した。またルイ・ヴィトンで『失われた時を求めて』の本を入れて運べるモノグラム入りのケースを特注した。誰もが描くイメージとは違って、サンローランはつねに崇められていたわけではない。時代を先取りしすぎた1971年の「40年代ルック」は当時ひどくこき下ろされた。 “イヴ・サンデバークル(イヴの聖なる失敗)”と呼ばれ、そのショーは”悪趣味の快挙”と揶揄されたのだった。

 また、これは周知のことかもしれないが、サンローランで活躍してきた代々の後継デザイナーのうち、デビュー期から成功した人はいない。それぞれが厳しい試練を味わってきた。トム・フォード版サンローランは、一部から軽蔑的な意味で「スリック!(“素晴らしい”のほか “俗受けねらい” の意味がある)」と言われ、ピエール・ベルジェはあからさまにコメントを避け、当時生存していたイヴ・サンローランはショーを観に行こうとしなかった。

 ステファノ・ピラーティ版サンローランは、陳腐なフレンチスタイルと批判され、彼が手がけたフリルスカートはイースターパレードのひよこにたとえられた。スリマンによる初期のサンローランは、「トップショップ」や米スタイリストのブランド「レイチェル・ゾー」風だと嘲笑されることもあった。ヴァカレロは「サンローランのデザイナーは、みんなに嫌われるんだ」と笑う。「でも僕はそういうことにも興味をそそられるし、嫌じゃない。もしかしたらマゾなのかな。このメゾンに宿る情熱が気に入っているんだ。これを好きか嫌いかは、はっきり分かれるだろうけれど」

 ヴァカレロのデビュー・コレクションの批評はまちまちだった。彼はフランス人が 感嘆したように眉を上げていたと言うが、ほかの国、特にアメリカ有力紙の反応はいまひとつだった。この話を切り出すと「僕のしていることについて、いろいろな反応があるのは嫌じゃないよ」と彼は冷静なトーンで答えた。ベルジェが気に入ってくれたように見えたのが、ヴァカレロはうれしかったらしい、「ベルジェは、イヴ・サ ンローランの世界ときちんとつながったものが好きなんだよ」と彼は言った。

 サンローランとヴァカレロの間には、一見何のつながりもないように見える。彼の感性はイタリア人には「ベルギー人的すぎる」と言われ、ベルギー人からは「イタリア人的すぎる」と批判されてきたという。オリヴ ィエ・ティスケンスも通っていたベルギーの国立美術学校「ラ・カンブル」在学中に、現代デザイナーのひとりを研究することになり、ほかのベルギー人学生が、脱構築スタイルで知られたベルギー人、アン・ドゥム ルメステールや、ミニマリストのヘルムート・ラング をテーマにするなか、彼はトム・フォードを選んだらしい。その後、ローマの「フェンディ」にて、カール・ラガーフェルドのもとで働いてから、ヴァカレロは2009 年に自身のブランドを立ち上げる。アズディン・アライアやトム・フォード風のボディコンシャスなラインと、改造したようなディテールが効いた彼のセクシー なミニドレスは注目を集めた。2014年からはドナテラ・ ヴェルサーチに見いだされて、「ヴェルサス ヴェルサーチ」のデザインも担当したが、ここでも自身のブランドと共通のスタイルを提案していた。

 こんな彼の経緯を見ても、サンローランでの就任はやはり予想外の展開に思えてしまう。ヴァカレロ自身、 このケリンググループからのオファーなど予想もしていなかった。「いくつかのメゾンから声をかけられたことはあるけど、いつも答えはノーだった。自分のブランドを見放したくなかったから。たとえば、そう、今回のような話をもらうまでは」。ヴァカレロは、大理石のアルコーブにはめ込まれた姿見を見やると肩をすくめた。「ここに来たのは、僕が礼儀正しい人間だから。 もちろん最初は、“ノー、ノー、ノー!”って感じだったよ。でも深刻になるのをやめてこう考えたのさ。“自分のブランドを休止してもいいと納得ができて、興味をもって仕事に取り組めるメゾンがあるとすれば、それはサンローランしかない”って」。彼がサンローランからの正式なオファーを受けてから、世にはあらゆる噂が飛び交ったが、2016年4月の公式発表までヴァカレロは数カ月間、沈黙を守っていた。

 ユニヴェルシテ通りにあるヴァカレロのオフィスは、 以前彼が使っていた“アトリエ全体”に相当する広さがある。そこには、彼が次の3月のショーに採り入れる予定の、さまざまな要素がピンで留められている。それは布でもスケッチでもない。山のようなビジュアルが重ねられ、束ごとに“ビッグ・ブラック・スパン コール”とか“アニマル・エンブロイダリー”と名前 が付けられている。彼自身のブランドのデビュー・コ レクションで見たような、80年代風パーティドレスと ファーコートが多いようだ。なかには、1980年にサンローラン・オートクチュールで発表された、ジャン・ コクトー作の詩『バトリー(Batterie)』の一文を刺しゅうした有名なジャケットの写真もある。その横に並ぶのは、メッセージ T シャツを着た、米ミュージシャン、 デボラ・ハリーの写真だ。「これは出発地点でしかないから」。ヴァカレロはこの写真の上をコンコンとたたきながらつぶやいた。「まだどんどん変わっていくんだ」

画像: アンソニー・ヴァカレロ

アンソニー・ヴァカレロ

ヴァカレロは、メンズラインを手がけないという選択をしていた。彼自身がメンズのデザインが得意でないことを認めていて、メンズのビジネス面にもそれほ どかかわっていないようだ。サンローランのキャンペ ーン広告にはメンズモデルも登場するが、一般的に彼らには、女性モデルのアクセサリー的な役回りしかない。タッセルのイヤリングやロゴモチーフのヒールと似たような役割だ。ビジュアルはヴァカレロにとって重要な意味をもつ。コレクションは一度しか手がけていないのに、キャンペーンのビジュアルはすでに3回撮影している。

最初のキャンペーンビジュアルは、ジーンズだけをまとってポーズをとる、ほぼヌードに近 いモデルたちを撮影したコリエ・ショアの作品。二番めはイネス・ヴァン・ラムスウィールド&ヴィノード・ マタディンのデュオによる写真で、デビュー・コレクションのプレビューとして2016年10月に雑誌に掲載された。このキャンペーンで、モデルのアンジャ・ルービックはショルダーラインを誇張したレザーのミニドレスをまとっていた。三番めはコレクションのフルラインを紹介するもので、この春、雑誌に掲載される。再びコリエ・ショアの撮影だが、10月に展開されたシリ ーズとはがらりとイメージが変わるようだ。

「サンローランというメゾンにとって、ビジュアルはコレクショ ンより大事だって感じるときがあるんだ」。ヴァカレロ ははっきりそう言った。「大事なのは服そのものというより、雰囲気や感情、生き方や動き方のような気がしてね。ジャケットを買うよりも、雰囲気を添えるバッグを買うような、そういう感覚だよ」

 ビジュアルで人を引きつけるテクニックにかけては、サンローランというメゾンの右に出る者はいない。初のメンズ用香水の宣伝のために、イヴ・サンローラン本人のヌード写真を撮り下ろした話は有名だ。また、香水「オピウム」は、「イヴ・サンローランに溺れたい人のために」というキャッチフレーズが物議をかもしたが、結局、莫大な人気を博すことになった。同様に 前任デザイナーのスリマンも、ビジュアルキャンペー ンの力を見せつけた。彼の手がけたウェア自体の評判 は芳しくなかったが、洗練されたビジュアル広告とブランドイメージの全面的な見直しのかいもあって、売り上げは好調だった。ヴァカレロにとっての“リトマス紙試験”もここにある。つまり、彼の存在を示す、 明確なアイデンティティを打ち出せるかどうかに、すべてはかかっているのだ。こう考えると、ヴァカレロ のデビュー・コレクションは、前任スリマンが手がけたイブニングドレスのラインと明確な違いがあったとはいえないかもしれない。

  究極を言えば、成功は売り上げで決まる。イヴ・サンローランの歴史や、資料室に秘蔵された何千種もの服についてあれこれ騒ぎ立てたところで、そもそもレガシーなど大事なのだろうか。モード界にこれほど尊重され、もてはやされ、崇拝された名高いメゾンの文化的財産に、普通の客たちがどれほど興味をもつのだろう。ヴァカレロのコレクションを理解するには、イヴ・サンローラン美術館に足を向けなくてはならないのだろうか。

 ヴァカレロのコレクションには、一目瞭然のロゴ使いによって、イヴ・サンローランの世界と露骨に結びつけられた点がいくつかある。けれど、こうした明確な点だけではなく、それぞれの服がヴァカレロの説明どおり、“多様な要素のコラージュ”だと分析できて、 メゾンの伝統に結びつけられる人も多少はいるのかもしれない。でも単に、着る喜びを味わうのに、こんな分析など無用ではないか。その昔、イヴ・サンローラン・オートクチュールの輝かしい顧客の顔ぶれは、それぞれの知性と教養が反映された服を選んでいたという。彼女たちは、キュビスムやシェイクスピアといった、イヴ・サンローランの着想の源が理解でき、彼の情操を高く評価していたそうだ。つまり、当時と今とでは、状況がまったく違うのだ。

「僕の役割はサンローランのアイデンティティを変えることじゃないんだ」とヴァカレロは説明する。彼の任務は「今らしく作り替えること」だそうだ。これは、つねに落ち着く間もないデジタル時代の、まったく新しいファッションへのアプローチ方法なのかもしれない。この新しいモードにおいて、過去の歴史は探さなければ見つけ出せない、奥深いところにしまい込まれている。

 プルーストの言葉を言い換えればこうなる。“求めようとする人だけが、失われた時を見いだせる”。

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