私たちは、なぜ、だしの香りにほっとするのか――。ミシュランの星を持つ京都の料理屋の主人であり、和食を科学的に解析する研究を続けている高橋拓児の取り組みから、佐々涼子が考察する

BY RYOKO SASA, PHOTOGRAPHS BY TERUO UKITA

画像1: “だし”と科学をつなぐ

 目の前に、黒い塗りの可憐な椀が静かに置かれた。

「上質な漆の椀は、蓋を閉めると非常に密封性が高く、上下逆さにしても汁がこぼれないほど、精巧に作られているんです」

 そう語るのは、京都で83年続く老舗の料亭、「木乃婦(きのふ)」の店主、高橋拓児(たくじ)さん。閉じ込められた「香り」は、食事をする人の目の前で解き放たれる。椀を開ける行為は、そこに華やかな舞台をつくり出す演出でもあるのだ。蓋を開けた途端、白い湯気が立ち上り、だしの香りがほのかに広がる。椀の中には、春の訪れを知らせるわかめと筍が並べられ、そこに木の芽がのっている。蓋を開けてから、食べ終えるまでの儚い芸術作品だ。
「季節によって、椀の形は変わるのですか」と尋ねると、高橋さんはうなずく。「香りと最も密接に関係しているのは湿度です。香気成分が空中の水分と結びついて空気中にとどまるからです。ですから夏の椀は広口で浅く、冬は乾燥していて気温が低いので、椀の口は狭く、比較的背の高いものが選ばれることが多いです。これによって、少しずつ香りが立つように工夫しています」

 今回、だしと香りについて話をしてくれる高橋さんは、ミシュランの星を持つ料亭の店主である。彼は、京都大学大学院で香りの研究をしたのち、食品メーカーと新しい食品の開発をするほか、シニアソムリエの資格を持つなど、多彩な才能の持ち主である。小さい頃は、「ドリトル先生」が好きな男の子で、将来は科学者になりたかったそうだ。だが、代々受け継がれた店が身近にある生活を送ってきた高橋さんは、料理人の道を選択した。

 一旦は科学者になるのをあきらめた彼だが、料理の修業をしているうちに、再び科学とつながることになった。
「料理は科学で分析することができるんです。千年続く日本料理が、古にはどんなかたちをしていたかは、残念ながらきちんとはわかっていません。しかし、もし科学で料理を分析することができたら、後世に残すことができるし、先人の作り上げた和食を参考にして、新しい和食を作ることもできます」と言う。さらに、2013年に「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録され、世界で和食がブームになったことも後押しした。

「最近は外国人のシェフが日本に勉強に来ていますが、和食ってこういうものです、というものを、なかなか伝えきれていないのが現状です。科学で説明することができたら、地球の裏側でも、京都と同じ和食が食べられるようになるんじゃないでしょうか」

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