アーティスト、ジュディ・シカゴの記念碑的な作品≪ディナー・パーティー≫が発表されて40年近くがすぎた今、カルチャーがやっと彼女に追いついてきた

BY SASHA WEISS, PORTRAIT BY COLLIER SCHORR, STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 芸術家のジュディ・シカゴは、男性の同業者たちが苦もなく手にしてきた名声を、自分もつかむのだという望みをとっくの昔に捨て去っていた。だが、力強く恐れを知らない彼女のフェミニズムアートは、今の時代を預言していたことが証明された。あらゆる批判や無理解と闘い続けた、孤高のアーティストの半生。その「後編」をお届けする。


 そんなふうに女性嫌悪の感情をぶつけられる経験を経るうち、彼女は次第に過激になっていき、当時、西海岸にその波が押し寄せていた女性運動から生まれた文学が、彼女の姿勢を後押しした。ヴァレリー・ソラナスの『男性根絶協会マニフェスト』(1967年)、ケイト・ミレットの『性の政治学』(1970年)やシュラミス・ファイアストーンの『性の弁証法ー女性解放革命の場合』(1970年)などの書籍がその代表だった。「もしこの女性たちが、何を感じているかを語れるのなら」と彼女は自叙伝『花もつ女』の中で書いている。「私だって語れる」。彼女のアイデアを、男性が牛耳る美術界に無理やりはめ込もうとするよりも、自分で新しい美術界を生み出して、そこで生きていきたいと考えた。

 1970年に、彼女はそれまで使っていた夫の名字を捨てることを決めた。地元のギャラリーのオーナーだったジャック・グレンとともに、彼女は自分の個展の開催を宣言した。その個展の宣伝用ポスターは、フェリュス・ギャラリーのボーイズたちがマッチョさを強調していた姿をパロディ仕立てにしたものだ。かつて、モハメド・アリが実際に練習していたボクシングリングの上で、彼女はワークブーツにサテンのショーツ、自ら命名したジュディ・シカゴという名を印刷したトレーナーを着てポーズをとった。そのポスターの中で、マネジャーだったグレンは、リングの外側で背中を丸めて隠れており、シカゴの友人の女友達が、撮影間際に引っぱり出されて彼女の横でポーズをとった。シカゴの顔の表情は挑戦的で、不敵な自信に満ちていた。

画像: 1965年の《フェザー・ルーム(Feather Room)》と題したインスタレーションの写真。シカゴが初期に手がけた大型作品。ロイド・ハムロール、エリック・オアとともにロサンゼルスのロルフ・ネルソン・ギャラリーで制作。当時でも彼女の作品の主眼は現実とはまったく違った環境を作り出すことにあった JUDY CHICAGO, “FEATHER ROOM“ INSTALLED AT ROLF NELSON GALLERY, LOS ANGELES, CA, CIRCA 1965, FEATHERS AND INFLATED PLASTIC, © JUDY CHICAGO, PHOTO COURTESY OF THROUGH THE FLOWER ARCHIVES

1965年の《フェザー・ルーム(Feather Room)》と題したインスタレーションの写真。シカゴが初期に手がけた大型作品。ロイド・ハムロール、エリック・オアとともにロサンゼルスのロルフ・ネルソン・ギャラリーで制作。当時でも彼女の作品の主眼は現実とはまったく違った環境を作り出すことにあった
JUDY CHICAGO, “FEATHER ROOM“ INSTALLED AT ROLF NELSON GALLERY, LOS ANGELES, CA, CIRCA 1965, FEATHERS AND INFLATED PLASTIC,
© JUDY CHICAGO, PHOTO COURTESY OF THROUGH THE FLOWER ARCHIVES

 だが、この年代に描かれた彼女の絵画はまた別の物語を語っていた。自分の作品を美術界の堅苦しい決まりごとに無理にあてはめようとしたときの、心の脆さと疵痕(きずあと)を映し出すイメージ言語を、何とか作り出そうともがいていた時期で、それらの絵画は当時の彼女の苦闘と恐怖を表していた。彼女は自分にこう問いかけた。「どうやって柔らかい形のものを四角四面の枠にはめればいいのだろう?」。そしてその問いに答えようと、一連の絵画を描いたのだ。1972年の作品《フレッシュ・ゲイト・アイ(Flesh Gate I)》には、やさしいオレンジとピンクで塗られた、いくつもの四角い箱が描かれている。それぞれの箱の中には、息づいているか、または誘っているように見える暗い空間が広がる。≪フレズノ・ファンズ(Fresno Fans)≫と題した、同時期の別のシリーズでは、ピンクや黄色の色彩が、色あせていったり、点滅したりするような感じが描かれている。これらの作品には緊張感があり、光に満ちていて、力強くかつ繊細だ。シカゴが抽象画の檻を破って這い出してきたのを感じることができる。自らの意図を打ち出し、明確に表現する作品を生み出すアーティストへと、彼女が脱皮しようとしている姿だ。

画像: ≪虹のピケット(Rainbow Pickett)≫(1965年)。シカゴが初期に手がけたミニマリスト彫刻のひとつ JUDY CHICAGO, “RAINBOW PICKETT,”1965 (RECREATED 2004), LATEX PAINT ON CANVAS-COVERED PLYWOOD, COLLECTION OF DAVID AND DIANE WALDMAN, © JUDY CHICAGO, PHOTO © DONALD WOODMAN

≪虹のピケット(Rainbow Pickett)≫(1965年)。シカゴが初期に手がけたミニマリスト彫刻のひとつ
JUDY CHICAGO, “RAINBOW PICKETT,”1965 (RECREATED 2004), LATEX PAINT ON CANVAS-COVERED PLYWOOD, COLLECTION OF DAVID AND DIANE WALDMAN,
© JUDY CHICAGO, PHOTO © DONALD WOODMAN

 シカゴは、女性が手がけたアート作品に没入した。ジェイン・オースティン、ジョージ・エリオット、ヴァージニア・ウルフやその他の作者が書いた文学作品を読み、ユディト・レイステル(オランダの画家)からメアリー・カサット(アメリカの画家)、バーバラ・ヘップワース(イギリスの彫刻家)まで、さまざまな年代の女性芸術家の作品を研究した。シカゴは、彼女たちの作品の中に、女性の身体とその五感が捉える特有の感覚を伝える、象徴的なものを見いだそうとしていた。丸みのあるフォルムや、開いたり閉じたりする形、震え、あるいは身をよじるように見える形を、彼女は描いた。カリフォルニア州立大学フレズノ校に初めて設立されたフェミニスト美術クラスの実技の教師になり、のちにはバレンシアにあるカル・アーツ(カリフォルニア芸術大学)でも教えた。学生たちには、これまで女性として経験してきたこと、男性に虐げられてきた経験などを含めて、それを掘り下げ、問題意識を高く掲げるような作品を作るように指導した。

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