行きすぎた資本主義経済の「その先」はどこにあるのか? マインドフルネスの由来でもある「禅」の思想が、いま世界で注目される理由とは

BY RYOKO SASA, ILLUSTRATIONS BY STINA PERSSON

 早朝3時。夜明け前の静まり返った空気の中、宿坊から中庭を通って僧堂と呼ばれる坐禅堂に行き、坐禅を組む。坐に向かいまず一礼。時計回りで後ろを向くと、もう一度一礼をする。坐り方は足を蓮華に組み、腿の上に両足をのせる結跏趺坐(けっかふざ)か、片足をのせる半跏趺坐。体をゆすって耳と肩、鼻と丹田をまっすぐにそろえ、最も楽に身体を支えられる軸を探りあてる。いくら無理に力を入れて姿勢を正しても、そのままでいられる時間はせいぜい20分だろう。背骨だけで体を支え、どこにも力を入れずに坐っていられる姿勢を見つけない限り、身体は悲鳴を上げる。急に肩がこったり、何年も痛んだことのなかった傷が痛みだしたりと、思いもよらないところが反応し、身体が懸命にバランスをとろうと力んでいるのがわかる。長い間生きてきたなかで、無意識についてしまった身体のゆがみ、姿勢の癖を坐禅は教えてくれる。

「自分で支えようと思わなくても、身体が私を支えてくれる姿勢があるんですよ。それを教えてくれるのは重力です。地球も私たちの親であり師なのです。力を費やさずとも支えられていると感じるとき、私の命もまた、同じように生かされているのだとありがたさを覚えます」

 姿勢の癖は生きるために必要があって身につけたものだ。書類の入った重い鞄を下げてきた肩、スキーで傷ついた膝をかばうために傾いた上半身。平凡な人生を送っていても、日々の履歴が身体のあちらこちらに残っていることに気づく。この癖は、心についた癖ともつながっているはずだ。

 天龍寺副住職の博法さんはこう語る。

「怒りっぽい自分や、頑固な自分が坐禅によって直るかと言われれば直りません。禅はどこも目指さず、理想をつくらない。あるがままに坐るのが坐禅です」

 しかし、自分の無意識な癖に気づくことで、今まで頑張っていた心と身体がふっと緩む。これが、心の癖を直す第一歩になるのは間違いない。雑念も、浮かんだままにしておけばいいという。

「雑念はいつでも浮かんでくるものです。それにとらわれているときは必ず姿勢も崩れています。身体をまっすぐに戻して、心のとらわれを感じていれば、そのうち消えていきます」

 明かりを落とした暗い部屋で、壁に向かって坐っていると、頭の中に浮かんでは消えていた思考が静かになってきて、身体を通る呼吸の音だけが聴こえてくる。脈打ち、呼吸する身体を意識して観察していると、幼い頃に理科の実験で観察したプランクトンを思い出す。シャーレの中では意思を持たぬ小さな生物が、ただパクパクと脈打っていた。自分の命もあれと同じだ。必死で生きていると思っていたが、何のことはない。自然がわれわれを生かしてきたのだ。必死になって生きようが、何もせずにここに坐っていようが、私はこうやって生きている。私たちは自然の作った創造物のひとつだ。

私という存在は、里山を濡らしている雨の一粒、時折、舞い落ちる雪片のひとひらと同じ。つかのま地上に現れ、やがて消えていく。懸命に「生きている」という状態から、ただ「生かされている」という状態にモードが切り替わると、十分力を抜いていると思っていた身体からさらに力が抜けて、鎧のようにこわばっていた肩の力が抜け、すとんと下がる。同時に、胸のあたりで詰まっていた息の通りがよくなって、心身の緊張がほどけ楽になった。やがてまわりとの境界線があいまいになり、
息のあたる鼻のあたりだけが自分の存在を確認できるすべとなる。そのとき、私は無数の生命と呼吸で呼び合う生物のひとつとなった。禅は、思考ではなく感覚で、命そのものに触れる技法なのである。

 一緒に坐る星覚さんの姿は、いっさいの重力から解放されたかのようなある種の軽さを伴っている。たとえるなら水辺で憩う一羽の鳥だ。この坐禅会の参加者の一人が彼のたたずまいを見てこう言った。

「存在自体が透き通っているようですね」

 

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