行きすぎた資本主義経済の「その先」はどこにあるのか? マインドフルネスの由来でもある「禅」の思想が、いま世界で注目される理由とは

BY RYOKO SASA, ILLUSTRATIONS BY STINA PERSSON

 夜がようやく明けてくる頃、食事の時間になる。食事も坐禅の一部と位置づけられており、僧堂の畳の縁「牀縁(じょうえん)」に食器を置いて、坐禅の身心で食に応じる。

禅では、ひとりひとりに「応量器」と呼ばれる漆塗りの食器一式が割りあてられる。袱紗(ふくさ)と呼ばれる布に包まれた応量器は弁当の包みに似ている。袱紗を広げると、塗りの器が重ねられて入っているのだが、それを順番に並べていく作法は非常に美しく、無言の演劇でも見ているようだ。浄人と呼ばれる給仕の者が回ってきて、いっさい言葉を発することなく、椀に粥を入れていく。朝はそれに沢庵(たくあん)、梅干しとごま塩がついている。

 支度が整うと、みなで「五観の偈(げ)」を唱える。

 一つには功の多少を計り彼の来処(らいしょ)を量る(目の前の命が、どこからどのようにして運ばれてきたかを考える)

 二つには己が徳行の全欠(ぜんけつ)と忖(はか)って供(く)に応ず(今までの行いを振り返り、目の前の食事をいただくのにふさわしいかを想う)

 三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗とす(貪り、怒り道理をわきまえぬ心を抑え、迷いを離れて食をいただくことを心得る)

 四つには正(まさ)に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり(食を単なる欲の対象ではなく、健康な身体を維持する薬と思って適量をいただく)

 五つには成道(じょうどう)の為の故に今此(こ)の食(じき)を受く(人間としてまことの道を成し遂げるために今目の前にある食をいただく)

 器を持つときは、主に親指、人さし指、中指の3本を使う。このことによって、繊細に食器を扱うことができるのだ。食事の時間は、話をせず、味わうことのみに集中する。すると、五感が研ぎ澄まされ、食材本来のほのかな滋味が体に染み入るのがわかる。道元禅師は、素材そのものの味「淡味」があると記した。これは心が静まっていなければわからない味なのかもしれない。スパイスもソースも加えることなく、ただ素材のやさしい味を感じつくすのである。禅の食事では皮やへたなどの野菜くずもだしとして使い、食品はあますところなく使われロスがない。近年、皮の部分に栄養が多くあることが証明されており、環境だけでなく健康にもいい調理法であることがわかってきている。

 禅僧は、食事の前に自分の器の中から飯を数粒取り分ける。これは小鳥や小動物のごちそうとなるのだ。質素な食事の中からも別の存在に命を分け与えることで、欲を手放す練習をし、ほかの命とつながりあっていることを確かめるものなのだろう。後片づけもいたって合理的である。食事がすむと、沢庵や刷(竹のへら)で、器についた汁をぬぐい、最後に注がれた白湯で器を洗って、のどを潤す。あとは食器を重ねて袱紗で包めば、残飯も出ず、水を汚すこともない。究極のエコシステムである。それが環境問題などなかった千数百年前から実践されてきたことに、今さらながら驚く。

 

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