行きすぎた資本主義経済の「その先」はどこにあるのか? マインドフルネスの由来でもある「禅」の思想が、いま世界で注目される理由とは

BY RYOKO SASA, ILLUSTRATIONS BY STINA PERSSON

 日常において、これほど丁寧に食と向き合う時間がつくれているだろうか。スーパーやコンビニに行けば明かりが煌々と灯り、食べ物はあふれるほど並んでいる。すっかりその光景に慣れてしまってはいるが、みなどこかで、「ずっとこのままの生活は続かない」と不安に思っているのではないだろうか。心のどこかで後ろめたさを感じながらも、便利な生活をやめられない私たちに、僧侶たちはその生き方で、最小限のものさえあれば生きていけることを示してくれる。理屈ではなく、あらゆる作法の中で、おのずとわかるようにプログラムされているのだ。

星覚さんは言う。

「ここでは、人々が環境問題で悩むはるか以前から、自然と調和した、きわめて合理的でシンプルなシステムの中で暮らしてきました。もっとも、禅というものは何かのためにやるものではありません。誰かに見せたり、結果を求めたりするのでもありません。ただそうせずにいられないからそうしているのです」

 しかし、俗世に生きる私は疑問を抱く。この禅の生き方が具体的にどんな役に立つというのだろう。この社会で暮らしている人は、働き、競争し、ローンを返し、実際に生活を成り立たせなければならない。

 星覚さんは、私の疑問に対してこのように述べる。

「禅は処世術ではありません。ただ、悩んでいる人に、その土俵から降りる方法があることを示すことならできるかもしれません。視点を変えれば違った景色が見えます」

 私たちの苦しみとは何だろう。売り上げを今以上に伸ばすこと、もっと消費すること、もっと所有することだろうか。あるいは魅力的になって異性の気持ちをつかむことかもしれない。頑張れば一時的には成果が上がるかもしれない。だが一方で、強力な競争相手が出現すれば、今以上に努力することを求められる。全力で走ってきたのに、それ以上の力を振り絞らなければならない。

 いつも「もっと」「もっと」と急き立てられ、心の底で、「いつまで頑張れば報われるのだろう」と思っているのではないか。誰が始めたのか、なぜそのルールなのかわからないまま、私たちは目に見えぬ何かと闘い続けている。一方で、人々は気づき始めている。この生きづらい社会の裏側に巨悪があるわけではないのだ。私たちは巨大な踏み車の中で、ただグルグルと走り続けているネズミのようなもので、誰かがスピードを上げるともっと速く走らなければならないし、この踏み車から落ちてしまうと生きていけないと信じ込んでしまっている。

 

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