バーバラ・クルーガーというアーティストは、短いフレーズを使い、ゾクゾクするほど面白く、未来を予言するような作品を作る。彼女の作品は、何を意味しているのか―― 見わかりにくいが、そのメッセージは永遠に不滅だ。彼女の紡ぐ言葉は、政治スローガンと詩の間にある境界線を曖昧にし、アメリカの広告やメディアが使う言語をハイアートの地位まで押し上げた。彼女の作品は、インターネット・ミームに右往左往させられる私たちの真の姿を映す暗い鏡の役割を果たしている

BY MEGAN O’GRADY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 私たちの新しい抵抗の時代にクルーガーが再び脚光を浴びるのは自然なことのようだ。この6月、彼女が数カ月前にロサンゼルスで制作した巨大な作品が、抵抗運動の舞台の垂れ幕としての役割を果たした。それは、ミネアポリスの白人警官の膝の下で殺された黒人男性ジョージ・フロイドの悲惨な死を受けて発生した抗議活動だった。サンセット大通りにあるクルーガーの「誰が犯罪者を信じるのか?」という言葉が刻まれた壁の前で、夜間外出禁止令を拒否した抵抗者たちが列をなして手錠をかけられる様子がCNNの番組で放映された。過去20年間で、クルーガーのアート制作の技術は進化した。たとえば、ギャラリーの展示室を文字が書かれた壁紙でそっくり包み込み、3Dのバーチャル・リアリティ技術を駆使した展示もあれば、複雑な構造の複数のチャンネルから流れるビデオ・インスタレーションの中を観客が歩き回って見る展示もある。

だが、彼女の主張をダイレクトに打ち出す技法と主題は一貫してずっと変わっていない。もしクルーガーの作品に疑問をはさむ批評家がいるとしたら、彼らは、クルーガーがアイデンティティや文化的権威などの題材を表現するのに傾倒しすぎたあまり、いつしか最新の社会問題に疎くなり、2000年代初頭までには彼女の作品はすでにインパクトを失いつつあった、と言うかもしれない。だが、そんな考えは全くあてはまらない。クルーガーの作品は今も時代性を失っていないどころか、彼女が扱ってきた題材は、今の時代にこそ不可欠な、重要で新鮮な社会的トピックだからだ。彼女のアートの摩訶不思議な息の長さに触れると、権力と富の中に存在する亀裂の大きさに驚愕させられる。そして、その亀裂はさらに深く大きくなっているように見える。

 私たちの国、アメリカで繰り広げられている実験を通して、歴史はある意味、永遠に繰り返すのだということをいやでも考えさせられている。彼女は、過去のそれぞれの作品を見直し、新たに手を入れており、今度は《無題(あなたの身体は戦場だ)》をLEDスクリーンにアニメーションの形で映し出す企画に取り組んでいる。クルーガーは、芸術家の作品群を時代ごとに分ける分類法や、時系列でまとめられた美術館での回顧展の形に反論を述べる。彼女の作品は、私たちが存在するうえで一貫して変わらない何かへの答えであり、それは時空を超えるものだからなのかもしれない。

《無題(問い)》という、ニューヨークのメアリー・ブーン・ギャラリーの外壁を覆った1991年の作品を例にとってみよう。当時は湾岸戦争の最中だった。この作品は、星条旗に似た巨大な旗の形をしており、彼女の作品の中で最も広く知られているもののひとつだ。「誇りが侮辱になる瞬間を探せ」という言葉が、本来の国旗では星が並んでいる青地の部分に、白文字で書かれている。旗の縞模様の赤地の部分には白文字で「自由に選択できるのは誰か?」「法律に縛られないのは誰か?」「誰が癒やされるのか?」と描かれている。

クルーガーは1990年に最初にこの作品をロサンゼルス現代美術館で発表した。現在ではゲフィン・コンテンポラリー・アットMOCAとなっている建物の南側の壁に、3階建ての高さの壁画として描いた。さらに、この作品の前で1992年に起きたロサンゼルス暴動を捉えた写真のうちの最も有名な一枚が撮影された。この壁画の前を銃を持った3人の州兵たちが歩いている様子をフォトジャーナリストのゲイリー・レナードが写したショットだ。2018年の中間選挙のタイミングで、クルーガーは同じ作品を今度は同じ建物の北側の外壁に描いた。この作品は今でも同じ場所にあり、影響力を保ち続けている。

紙を切り抜いて糊で貼りつけるというアナログなグラフィック・デザイン出身のコンセプチュアル・アーティストが、このデジタル時代に、どうして華やかに活躍していられるのか? それはつまり、1990年代からすべてが変わったように見えて、実際は何も変わっていなかったからではないか? ある種の言葉の塊が、文化の培養物の中に自然に広がっていくような過程を楽しむ人間にとっては、クルーガーはいつも気になる存在だった。無駄が一切ない、的確な彼女の語彙の選択は、テレビニュースの画面に流れる速報のテロップと、280文字のツイートが混在する今の時代を先取りしていた。

今日、私たちは物語を語るよりも、強い見出しと誹謗中傷の電子メールをやりとりすることでコミュニケーションをとっている。登場人物の心の軌跡よりもインスタグラムのキャプションが大事なのだ。一枚の画像がネットに出回るや否や──たとえばそれはイヴァンカ(・トランプ)が手にGOYAブランドの豆の缶詰を持ってポーズをとっている写真だったり、中西部に住む夫婦が、自宅の玄関先の芝生の庭に立ち、手にした銃を人権デモ行進をしている人々に向けている姿の写真だったり──それらの画像はすぐに別の意味づけがなされ、ほとんどの場合、本来もっていた意味を失ってしまう。

 クルーガーは、インターネットがまだこの世に存在していなかった時代に、多くの人が注目するミームを作っていた。それは個々のメッセージの発信を通じて文化の潮流を作るような行為だ。視覚による攻撃を武器に、社会を支配している構造を暴き出して解体した。彼女の言葉は、キャッチフレーズになるべくしてなった。なかでも最も有名なのは、クルーガーの「買い物をする、ゆえに我あり」というデカルトの言葉をもじった1987年のフレーズだろう。また、「複雑な風習」という言葉も一時、ゲイカルチャー関連の言葉としてタンブラー上で人気を博した。この言葉は、彼女の1980年の作品《無題(ほかの男性の肌に触れることが許される複雑な風習を作り上げる)》からきている。

巷(ちまた)で使われている言葉を壊すことによって、クルーガー自身がスラングの一部になった。さらにブランドを構成する視覚言語を乗っ取ることで、意図せずして、彼女がブランドになった。その手法は、スマートフォンで武装したデジタル世代の人間によって踏襲(とうしゅう)されていく。つまり我々は、やっと彼女のスピードに追いついたわけだ。「私の集中力はすぐ切れてしまう」と彼女は言う。だが、彼女の批判精神は短期間で廃れてしまうようなものでは決してない。

 長年の間、彼女の主張と美意識はずっと一貫している。倫理観が根底にあり、どこでも誰でもアクセスでき、本質を突く彼女の言葉は、はい、いいえでは回答できない差し迫った質問へとさらに様変わりしていった。私がこの春彼女にインタビューしたとき、彼女の初期の作品がいかに今の時代を予言していたかを伝えると、彼女は異議を唱えた。「私は、私たちがお互いにとって、どんな存在なのか、ということを作品にしようと試みている」と彼女は私に言った。「ここ数世紀の間に起きた歴史的状況や事件を考えれば、侮辱と称賛が同時に存在したし、さらに侵略や人類への拷問や虐待もあった。また同時に、私たちは素晴らしい愛情や愛着や寛大さも経験した。つまり、ありとあらゆることが起きていた」

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