バーバラ・クルーガーというアーティストは、短いフレーズを使い、ゾクゾクするほど面白く、未来を予言するような作品を作る。彼女の作品は、何を意味しているのか―― 見わかりにくいが、そのメッセージは永遠に不滅だ。彼女の紡ぐ言葉は、政治スローガンと詩の間にある境界線を曖昧にし、アメリカの広告やメディアが使う言語をハイアートの地位まで押し上げた。彼女の作品は、インターネット・ミームに右往左往させられる私たちの真の姿を映す暗い鏡の役割を果たしている

BY MEGAN O’GRADY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 クルーガーについて書くとき、報道記事によくある定型のプロフィール紹介文は、まったく意味をなさない。私たちは通常、有名なアーティストには、彼らが提示した問いへの答えを彼ら自身が見つけてくれることを期待し、公のための知性でいてほしいと望むが、彼女にこの方程式はあてはまらない。私たちは現状に対抗できる主張を期待し、それが商業主義や政治にまみれていないことを願う。だが、実際はアートというものは常に権力と金とは切っても切り離せない。「市場と関係なく存在するものなどこの世にひとつもない。ひとつも」とクルーガーは私に言う。アートが私たち自身を明るく照らすための投資だとされている一方で、華々しい業績を挙げたアーティストが、商業主義に浸っていないふりをしながら、その不義によってアートの真の価値を簡単に貶(おとし)めてしまう。

クルーガーは2006年からカリフォルニア大学ロサンゼルス校で教えており、さまざまなアート関連の役員も務めている。彼女はバンクシーのような孤高と神秘のベールに包まれているわけではないが、プライバシーを守り、助手は雇わずに作品を作る。私たちは、彼女の私生活の詳細については話題にしなかった。それは彼女が秘密主義だからではなく、生い立ちと私生活は、彼女の作品づくりには関係ないからだ。

彼女の作品に出てくる「私」や「あなた」やその他の代名詞は、誰にでもあてはまる。私が彼女の名前をメールの受信ボックスに初めて発見したとき――それは2018年で、私が書いた女性ミニマリストとランド・アーティストたちの記事について彼女が感想を送ってくれた――それは衝撃だった。彼女はあまりにもうまく自分を作品に投影することを避けてきたために、私は彼女がどんな人間なのかを考えたことがそれまで一度もなかったのだ。長年知っていた声が、電子メールのアカウントを持つ実在する女性とつながるなんて、想像すらしなかった素晴らしい経験だった。彼女とメールをやりとりして1年後に、私はこの記事の企画を提案した。だが、インタビューの日時を決める段階になって、彼女は自分の考えをあまり話したくないという気分になっていた。当時、彼女は韓国での展覧会の準備で忙しかったが、私は、彼女が、職業ライターの手によって自らの記事が書かれることに、いまいち乗り気ではないのだろうと推測した。自分で自伝を書くのと違い、彼女の作品が単純化されて伝えられてしまう恐れがあるからだ。それはまるで、ひどいセラピーを受けたときのような、意にそぐわない結果を味わうはめになる危険をはらんでいる。

画像: 《無題(あなたの視線が私の横顔に突き刺さる)》 (1981年) BARBARA KRUGER, “UNTITLED (YOUR GAZE HITS THE SIDE OF MY FACE),” 1981, GELATIN SILVER PRINT, COURTESY OF THE ARTIST AND SPRÜTH MAGERS

《無題(あなたの視線が私の横顔に突き刺さる)》 (1981年)
BARBARA KRUGER, “UNTITLED (YOUR GAZE HITS THE SIDE OF MY FACE),” 1981, GELATIN SILVER PRINT, COURTESY OF THE ARTIST AND SPRÜTH MAGERS

 さらに、何十年にもわたって、手垢のついた視覚表現を解体することにキャリアを費やしてきたアーティストに対し、記事に載せるポートレート写真の被写体になってくれと頼まなければいけない点も問題だった。彼女の1981年の作品《無題(あなたの視線が私の横顔に突き刺さる)》では、石に彫られた女性の顔の写真をモチーフにしている。凝視されることで被写体が動けなくなってしまったように見える。ローラ・マルヴィが1975年に、男性の視線について書いた記念碑的な評論『視覚的快楽と物語映画』は、まさにこの点を論じているのだ。クルーガーは1985年に《無題(私たちはまるで本当に生きているみたい/助けて! 私はこの写真の中に閉じ込められている)》を作った。この作品は、枠を手に持った女性が枠の向こうからこちらをのぞいており、その横には同じポーズの女性が写った写真が小さい枠に入って並べてある。レティンキュラー写真(註:角度によって絵柄が変わって見えるもの)のため、角度を変えて見ると、女性の顔の奥から助けを求めるメッセージが現れる。クルーガー自身を写した写真も実際に存在する。特に1984年にジャネット・モンゴメリー・バロンが撮影した写真は際立って印象的だ。柔らかいソックスをはいたクルーガーの顔の表情は警戒心に満ちている。“リラックス”できるはずの状況で、はっとするほど対照的な顔つきなのだ。

 だが、さらにもっと根本的な問題がもうひとつある。今回のこの記事が“The Greats”(註:本国版の偉人特集)に組み込まれているということだ。なぜそれが問題なのかは、彼女から私に送られた最初のメールにヒントがある。彼女は現代の社会の支配構造と偏見を私が把握していることに礼を述べ、支配と偏見が「当時はまったく制御不能だった(そして今も)」と書いている。

1988年にクルーガーはニューヨーク近代美術館(MoMA)で『“偉大さ”を写す』という展覧会を企画した。それは、ざっと見たところ、有名なアーティストのポートレート写真を集めたもので、アーティストは全員白人でそのうちのほとんどが男性だった。たとえば、マン・レイが撮影したピカソとコクトーの写真、エドワード・スタイケンが撮ったロダンとブランクーシの肖像写真という具合だ。クルーガーは壁に描かれたテキストの中で、これらのポートレートの内容と基準をこう説明している。アーティストは「優秀で社会的な尊敬を集めていること」または、「妙な星の巡り合わせの下に生まれ、ベレー帽を被ったハリー・フーディーニ(註:1900年代初頭に活躍した奇術師)であること。つまり、神と大衆の間に存在する不思議な仲介人」として描かれていること。(クルーガーは今、キャリアの中で最大の、彼女の作品の集大成となる展覧会の準備に取り組んでいるところだ。その展示はシカゴ美術館に所蔵されているアーカイブ写真を使い、同美術館で2021年4月に開催される。その後、10月にロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)に移される予定だ)

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