印象派の時代から1920年代のハーレム・ルネサンス時代、さらにエイズ撲滅をめざす「Act Up」運動の時代など、どんな時代も、芸術家同士の友情が素晴らしい作品を生み出してきた。それだけでなく、友情は愛情の特殊な形としても存在してきた。この1年間、誰もが自宅待機生活で孤独を強いられる中、クリエイティブな者同士の絆は、親密さだけでなく、よりパワフルなものをもたらしてきた。それは「救い」だ

BY MEGAN O’GRADY, PAINTING BY WANGARI MATHENGE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 オードリー・ロードとパット・パーカーというふたりの詩人かつ知識人の場合は、互いの物理的距離を超えて、友情によって綴られた往復書簡が文学として昇華した形だ。ニューヨーク在住のロードとカリフォルニアに住むパーカー。ふたりは15年間にわたる手紙のやりとりの中で、アドバイスを与え合い、取り組んでいる作品や読んだ本のことを話し合った(同時に金銭的なことや健康状態などの話題も)。ふたりは黒人でレズビアンでフェミニストとして共通の目的意識を持ち、美しい詩的な感情表現とアクティビズムの両立に全力を注いでいた。「ねえパット、私たちはふたりともすごく無防備な女性だと思う」と1988年2月にロードはパーカー宛ての手紙に書いている。それはパーカーが45歳で乳がんによって死亡する1年前のことで、ふたりはそれぞれ乳がんで闘病していた。「私たちは無防備だからこそ、最大の力を出すことができた。無防備だから力強い女性になれた。それは失敗ではない。あなたを愛してる」。今手紙を読み返すと、ロードの文は詩そのものだ。「もしあなたが今後私に連絡してきて/私があなたの声を聞くことができないとしたら/これらの言葉は/無言のうちに/まだ/私たちの間に/存在している」

 彼女たちの往復書簡には、ほかの作家仲間や恋人たちについて言及した言葉もたくさんある。そんな彼女たちの手紙は、何度も推敲された回想録では表現できない友情の真実を内包している。それはつまり、友情とは、ほとんどの人間にとって、ずっと動かないひとつの星のような存在ではなく、絶えず動き続けている関係性の宇宙の中に存在するということだ。

映画『フォーエバー・フレンズ』で使われたベット・ミドラーの曲「愛は翼にのって」の中の「あなたが風になって、私の翼を運んでくれるから」という歌詞は、この際忘れてしまおう。あなたが子どもを産んだばかりのとき、吹雪の中、食料品を届けに来てくれる友は、あなたが書いた映画の脚本の感想を綴ってくれる友とは、必ずしも同じ人物ではないかもしれない。あなたの服が似合っていないと指摘してくれる友は、あなたが申し込んだ奨学金の申請が却下されて落ち込んでいるときに、励ましてくれる友ではないかもしれない。パンデミックと社会に大きく広がる不均衡によって、私たちのかつての生活がズタズタに分断され、他者とのつながりを失い、切羽詰まった人々が憤りや陰謀論に蝕まれてしまうとき、私たちはかつてないほどお互いの存在を支えとして必要としている。

画像: ナイマ・グリーンの作品《Kamra and Sonya in Woodridge(ウッドリッジのカムラとソニャ)》(2020年) NAIMA GREEN, “KAMRA AND SONYA IN WOODRIDGE” , 2020

ナイマ・グリーンの作品《Kamra and Sonya in Woodridge(ウッドリッジのカムラとソニャ)》(2020年)
NAIMA GREEN, “KAMRA AND SONYA IN WOODRIDGE” , 2020

画像: ナイマ・グリーンの作品《Activation Residency as a Personal Paradise(個人を尊重する天国、アクティベーション・レジデンシー)》(2020年) NAIMA GREEN, “ACTIVATION RESIDENCY AS A PERSONAL PARADISE” , 2020

ナイマ・グリーンの作品《Activation Residency as a Personal Paradise(個人を尊重する天国、アクティベーション・レジデンシー)》(2020年)
NAIMA GREEN, “ACTIVATION RESIDENCY AS A PERSONAL PARADISE” , 2020

 別の見方をすると、私たちは、お互いの人生において相手がどれだけ重要な位置を占めているかについて、これまでのつき合いの歴史や親密さの結晶である思い出が一度に押し寄せてくるような瞬間を経ないと、改めて感謝することはないのかもしれない。だからこそ、幼い頃の友人についてネットで検索して、それぞれの人生がどう変遷しているのかが気になる。また、だからこそ私たちは、親しい友人の伴侶が亡くなると、まるで自分の親しい人が亡くなったように感じる。まるでもうひとりの自分が経験しているように、誰かの人生をリアルに感じ、それに倫理的な責任を感じてしまうのだ。

つまりそれはこういうことだ。もしあなたの友の伴侶が、非常に稀な種類の脳腫瘍を患い入院しているとしよう。あなたの友が自分のパートナーは助かると思うかとあなたに聞いたとき、あなたはその問いに正直に答えなければならない。また、それは、友が伴侶の死を悼むのをそばで聞き、葬儀に必要な準備を手助けすることを意味するだろう。喪失の悲しみをたったひとりで味わわなくてすむのだと知ることが、悲しみの渦中にある人間にとっては唯一の慰めだから。そして、あなたもきっとその場にいたいはずだ。なぜなら、将来、あなたがその友と同じ立場に立つこともあり得るからだ。そしてそれが人生というものだ。

 フィクション作品でも友情は主要なテーマとなってきているが(このトレンドに大きく寄与したのが2012年から2015年にかけて出版されたエレナ・フェッランテの4部作小説『ナポリの物語』だ。もっともトニ・モリスンの1973年の小説『スーラ』が友情ブームの先駆けだが)、テレビ番組ではずっと以前から友情が主要テーマの時代が続いてきた。『ラバーン&シャーリー』(1976-’83年)や『ふたりは友達? ウィル&グレイス』(1998-2006年)、また『Living Single(リビング・シングル)』(1993-’98年)や『セックス・アンド・ザ・シティ』(1998-2004年)などの番組が、21世紀はどんな社会になるかを、私たちに前もって教えてくれていたのは事実だ。

つまりそれは、人生とは核家族を中心にしたコメディ・ドラマではなく、私たちを成長させる経験や、いざというときに助けてくれるセーフティネットや判断基準などが、友人たちや近所の住人やルームメイトや昔の同級生や職場の同僚たちとの関わりの中で形作られていくということを示唆している。友情というものには独特の基準があり、何度も繰り返して放送するテレビという媒体にはぴったりだ。内容やトーンを変えて何シーズンでも継続できる。しかも、結婚で物語が完結してしまうことがない。「友人同士は、恋人同士とは違って、相手の存在が救いだと意識的に考えることは稀だが、無意識下では、それに近い思いをお互いに抱いているものなのだ」と2008年発行の『ポエトリー』誌に掲載された記事で批評家のヴィヴィアン・ゴーニックが書いている。親密さがいつしか薄れ、テレビ番組が打ち切りになっても、誰かが私たちを信じているという感覚は、私たちの再構築された感情のDNAに刻み込まれている。

 アーティスト間の友情の物語の多くは、どちらかが亡くなったあとに、生き残ったほうの友の手によって書かれ、お互いの思い出や出来事などが、在りし日を偲ぶトーンで綴られている。もしあなたが私と似た種類の人間なら、それらを読むと、家族や文化が私たちの命綱にならない場合、友人というものは一体どこまで私たちを救うことができるのかと考えてしまうだろう。熱を持った創造性が燻(くすぶ)ったまま、上から何かで重しをされているように感じるとき、また、富裕層だけが美を独占しているように感じるとき、芸術は私たちを救ってくれるのだろうか? ロードやディレイニー、そしてウルフやメイプルソープやセクストンやその他大勢のアーティストたちが惜しまれながらこの世を去った。彼らが残した素晴らしい作品が、私たちを救えるか? 

その質問の答えはイエスだ。そしてしばらくの間、私たちの友の力を借りればいい。本当のところ、ひとりで自分を救える者などいない。人知を超えた領域に踏み込むには、人類が互いに重なり合って築き上げたやぐらと永遠と、慈愛に満ちた目撃者が必要だ。そしてその目撃者とは、旅の同伴者であり、暗い森の中で灯りをかざし、私たちに語りかける。まるで今、私たちが友と語り合っているように。

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