気候変動が日に日に加速する世界。いま、コンテンポラリーアートの旗手たちが、不安な現状に立ち向かおうと行動を起こしている。それは作品としての発表であったり、社会にメッセージを発する活動であったりと多種多様だ。環境問題におけるアートの役割についての考察を3回にわたってお届けする

BY ZOС LESCAZE, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

 2006年、プリンストン大学美術館で学芸員として働き始めたカール・クセローは、職場のスタッフ会議に「地球温暖化を止めよう」と書かれたリストバンドをつけて参加した。同僚たちはそのリストバンドに気づいていたが(「ちょっとダサくて目立っていたから」と着用した本人は認めている)、社会的大義を訴えるメッセージだと認識した者は少なかった。当時は地球温暖化という言葉が一般に知られ始めたばかりだったのだ──この年にアル・ゴア元アメリカ副大統領が著書『An Inconvenient Truth』(『不都合な真実』〈ランダムハウス講談社〉)を出版し、雑誌『Vanity Fair』が、今では恒例となった環境問題特集号「グリーン」を初めて発行している。だが、科学はその数十年前から、工業社会が気候のリズムを大きく乱していることを主張し続けてきた。環境活動家のビル・マッキベンは前年の2005年に、当時の文化を強く批判している。地球温暖化について語る本はどこにあるのか、と非営利団体グリストのサイトに寄稿した記事で、マッキベンは書いた。「詩は? 演劇は? オペラだってかまわない」。そしてエイズ問題と比較し、「エイズの恐ろしさを描いた芸術作品は数多く生み出され、それが政治に対する直接的な影響力を発揮したではないか」と、温暖化への無関心ぶりを糾弾している。未来の世代が現在を振り返ったとき、「急激な気温上昇が起きたことは明々白々なのに、現代人がそれをどう受け止めていたか、彼らは理解に苦しむに違いない」

 近年のアートの世界は、遅ればせながら、これまでの無関心を埋め合わせようとしている。この半年間だけを見ても、ニューメキシコ州のサンタフェからシンガポールに至るまで、世界の各都市で気候変動をテーマにしたアートイベントが10件以上も開催されている。きっかけは何だったのか──ドナルド・トランプが大統領に選ばれてしまったことだったのかもしれないし、あるいは、アート界の砦(とりで)とされる場所にも異常気象の影響が及ぶようになったせいかもしれない。2012年に襲来したハリケーン・サンディではマンハッタンのダウンタウンも浸水被害に遭い、建物の地下にあった画廊が水の汲み出し作業に追われた。ロサンゼルスでは現在でも山火事がおさまらず、避難せざるを得ない状況だ。理由は何であるにせよ、アートが環境意識を掲げることに対する支持が、今や大きく広がりつつある。昨年12月にはヘレン・フランケンサーラー財団とニューヨークの非営利団体アジア・ソサエティが、新人ビジュアルアーティストの「気候危機とまっすぐに向き合う」作品に15,000ドルの賞金を出す新たなコンテストを開催すると発表した。

 だが、どんなものでも増やせばいいというわけではない──歯止めのきかない生産活動と過剰な消費行為が地球を破滅に追いやろうとしていることを考えれば、なおさらだ。2007年の時点でも、環境芸術を早くから支援してきたシカゴ在住の学芸員ステファニー・スミスが、表面的な正義を謳う展示が増えることは鑑賞者と美術館の両方に安易な自己満足を与えかねない、と警告していた。美術批評家ルーシー・リパードの主催により、気候変動をテーマとして開催された初期の美術展『Weather Report: Art and Climate Change』のカタログで、スミスはこんなふうに書いている。「持続可能性や気候変動がアートの最新トレンドになってしまうのであれば、作品制作にも、掘り下げた議論にも、継続的な社会変革にも貢献することなく、ただただ自分自身と鑑賞者に一時しのぎの安心感を与えるだけになる危険性があります」

画像: トマス・コールの1826年の作品《Falls of the Kaaterskill(カータースキルの滝)》。ニューヨーク州北部の景色をのどかな情景として描いている。環境破壊をさまざまなアプローチで浮き彫りにしようとする昨今の芸術家たちと違って、ロマン派の画家は自然を原始のまま変わらないものとして描いた THOMAS COLE, “FALLS OF THE KAATERSKILL,” 1826, OIL ON CANVAS, PRIVATE COLLECTION, BRIDGEMAN IMAGES

トマス・コールの1826年の作品《Falls of the Kaaterskill(カータースキルの滝)》。ニューヨーク州北部の景色をのどかな情景として描いている。環境破壊をさまざまなアプローチで浮き彫りにしようとする昨今の芸術家たちと違って、ロマン派の画家は自然を原始のまま変わらないものとして描いた
THOMAS COLE, “FALLS OF THE KAATERSKILL,” 1826, OIL ON CANVAS, PRIVATE COLLECTION, BRIDGEMAN IMAGES

 たしかに安易な作品も避けがたく存在する一方で──燃える森林を描いた絵画、都会の広場に置かれて解けていくままにされる氷のオブジェ、画廊の壁を覆う枯れた海藻、プロパガンダと大差ない炎上狙いの活動など──そうではない趣向も登場している。いわゆるプロテスト・アートの新しい形式が、ときには予想外の形をとりながら、大衆を扇動することはせず、「プロテスト・アートとはこうあるべき」「こう作れる」という認識を裏切って作られている。たとえばアイスランド西海岸の小さな港街スティッキスホウルムルには、街を見晴らす断崖に、かつては図書館だった建物がある。館内には24本の透明な柱が立ち並んでいる。ガラスの筒を満たしているのは、アイスランド各地の氷河から集められた水だ。刻々と表情を変える空の光と、見学者のシルエット──人の動きと天候の変化で、影が伸びたり、ぼやけたりする──を反射しながら、高さ10フィート(約3m)の水柱がきらめく。形の定まらぬものを受け入れ、解けゆくもの、消えゆくものと向き合う場所なのだ。1975年から足繁くアイスランドに通い詰めているアメリカ人の芸術家、ロニ・ホーンがこの企画を考案した。「Vatnasafn/Library of Water」という名称で、2007年から現在まで設置され続けている。この建物は瞑想の場であり、読書の場、アーティストが住み込みで仕事をする場、集まった人同士でチェスをする場、そして天気について思いをめぐらせる場でもある。ロニ・ホーンは協力者とともに多くの地域住民から天気にまつわるエピソードを聞き取ってきており、それも展示している。見学者が自分のエピソードを書き足すことも可能で、ホーンはこれを「集合的な自画像」だと表現する。この美術館は、氷河というものが文章の中にしか存在しなくなった未来──ホーンが水を集めた各地の氷河も、すでにひとつが消滅している──の姿をひそやかに描き出しているのだ。だがホーン自身には、作品を気候変動についての主張にする意図があったわけではなかった。おそらく、だからこそ、人類の行く末と来たる世界について、思いをめぐらさずにはいられない場所となっている。

 マッキベンが指摘したとおり、アートの世界はエイズ危機に反応し、視覚芸術がアメリカ政府の制度的怠慢に立ち向かう役割を果たした。しかし、気候変動はまた別の種類の危機として、別の種類の芸術を必要としている。何しろこれは私たち全員が加担して招いた災害であり、私たち全員が被害に遭う災害でもある。その規模はあまりにも甚大で、芸術が説教じみた批判をすることが妥当とは感じられない。人類という種は比較的短命だというのに、現代人の注意関心の持続時間はいっそう短くなるばかりで、私たちは自分が生きているうちには本格的に体験しないであろう危機の進行を、長期的な視野でとらえることができずにいる。だとすれば、最も効果的なプロテスト・アートとは、私たちがすでに無視する気まんまんのエビデンスを突きつけることではない。気候変動という言葉を必ずしも使わずに、時間や生態系全体における人間の立場に対する私たちの狭い視野を広げることができるなら、それが効果的なプロテスト・アートと言えるのではないだろうか。そうした作品は、今すぐ行動を起こせと迫るのではなく、行動を起こすことに対する私たちの心理的キャパシティを広げようとする。

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