「アーティストから敬愛されるアーティスト」の典型であるアレックス・カッツ。彼は画家として恐らく史上最長かつ持続的なキャリアを築いてきた。95歳の彼は作品を完璧なものにするために、今も多忙な日々を送っている。2022年10月21日からNYで大回顧展が開かれているカッツの軌跡を全3回にわたってお届けする

BY AMANDA FORTINI, TRANSLATED BY T JAPAN

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 カッツは常に大きな野望を抱いてきた。芸術学校を卒業した翌年の1950年に──さらに雑誌『ライフ』の見開き2ページに、ジャクソン・ポロック本人が、絵の具が滴るような巨大な抽象画の自作品の前に立っている写真が掲載されて注目を浴びたあと──カッツは「新しい種類の絵画」を創造すると決意した。それは、当時アート界で広く普及し、不変の地位を築いていた抽象表現主義への彼なりの反応でもあった。彼いわく「今の時代を象徴するような絵画」を生み出す方法が何かあるはずだと確信していた。「これはアーティストが達成できる最高峰の目標だ」と、彼は1997年に英国人の美術批評家でありキュレーターのデイヴィッド・シルヴェスターに語っている。「自分が生きている時代、暮らしている場所で時代の本質をつかんだ作品を作るんだ」。そのために彼が考案した手法は「特定の肖像画」と名付けたもので、のっぺりとした単色塗りの背景を施した人物画で、ニューヨーク市内のタナガー・ギャラリーで1959年に発表された。これらの初期の肖像画は、若いエイダや、さらにカッツの友人たちを描いたもので、感動的で情感に訴えかけてくる作品だった。当時、エイダはメモリアル・スローン・ケタリング病院でがん研究に携わっていた。《Ada in Black Sweater(黒いセーターを着たエイダ)》(1957年)では、落ち着いた様子で佇む赤い唇のエイダが、片方の腕をもう片方の腕の上に静かにのせている姿が描かれている。《Irving and Lucy(アーヴィングとルーシー)》(1958年)では美術批評家で歴史家のアーヴィング・サンドラーが、彼の妻で著名な中世史学者のルーシー・フリーマン・サンドラーを抱き寄せるように彼女の肩に腕を回している様子を描いている。《Ada With White Dress(白い服を着たエイダ)》(1958年)ではカッツの新妻の姿が──ふたりはその年に結婚している──明るい緑色の背景とともに描かれている。

画像: カッツの妻、エイダは彼が頻繁に描く題材だ。この作品《Ada in Black Sweater(黒いセーターを着たエイダ)》はふたりが出会った1957年に描かれた ALEX KATZ, “ADA IN BLACK SWEATER,” 1957, OIL ON BOARD, COLBY COLLEGE MUSEUM OF ART, WATERVILLE, MAINE, GIFT OF THE ARTIST, 1995, PHOTO COURTESY OF COLBY COLLEGE MUSEUM OF ART © 2022 ALEX KATZ/LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

カッツの妻、エイダは彼が頻繁に描く題材だ。この作品《Ada in Black Sweater(黒いセーターを着たエイダ)》はふたりが出会った1957年に描かれた
ALEX KATZ, “ADA IN BLACK SWEATER,” 1957, OIL ON BOARD, COLBY COLLEGE MUSEUM OF ART, WATERVILLE, MAINE, GIFT OF THE ARTIST, 1995, PHOTO COURTESY OF COLBY COLLEGE MUSEUM OF ART © 2022 ALEX KATZ/LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 これらの作品の構図──カッツの記述によれば、マティスやピカソ、さらにゴヤ、ベラスケス、ムンクやクールベの影響を受けており(後者のふたりも単調な背景を用いていたこともあった)──によってカッツが目指していた表現は可能になった。つまり、特定の人物を描いてはいるものの、彼らは同時に普遍的で、ミニマリスト的なスケッチと、一切の文脈を排した設定によって、実際に存在する特定の人間が、観る者にとってなじみのある存在になるという目的を達成している。ぼかした線と淡い色彩を用いることで、写実主義の形をとりつつも、抽象主義の片鱗も見せている。「語彙や文法はすべて抽象画からきている。その点で、僕の作品は、ほかのすべての肖像画作家たちの作品とは一線を画している」とカッツは説明する。だが、彼の革新的な方法は、賛否両論を呼んだことも確かだ。多くのアーティストたちが彼の作品を好んだが(ウィレム・デ・クーニングはタナガー・ギャラリーでの展覧会を見て、カッツに「私が築いた地位を奪わないように」と言ったとカッツは語っている)、知名度が低い作品に関しては、支持する人としない人がはっきり分かれた。ほかの彼のすべての作品についてもそれはほぼ同じで、カッツの作品は分類が難しく、彼はある意味アート界の一匹狼的な存在になっていった。

 クローズアップされて切り取られた顔が描かれているのがカッツの肖像画の定番だが、タナガー・ギャラリーでの展覧会以後の10年間ほどは、絵のサイズ、スケールともに、大胆なほどに巨大化していった。色彩は明るくなり、細部がより細かく描き込まれ、陰影も深くなった。自然っぽさと厳密さのバランスをうまくとりながら、ある批評家に言わせれば「かしこまらない正確さ」で表現していくことができるようになった。当時の作品の中で、私が特に好きなのは《The Red Smile(赤い笑顔)》(1963年)だ。エイダの横顔が緋色の背景から浮き立つようにくっきりと描かれた作品で、彼女の口紅の色が背景の色とマッチしており、彼女の髪の毛を束ねるヘアバンドのロイヤルブルーの色が効いている。《Ada and Vincent(エイダとヴィンセント)》(1967年)は、母のエイダが幼い息子のヴィンセントの後ろに立っているやさしいタッチの肖像画だ。母が息子の頭のてっぺんにキスできそうなほど母子の距離が近い。同じような構図の作品《Vincent and Sunny(ヴィンセントとサニー)》(1967年)では、ヴィンセントが彼の飼っている犬の背中にそっと顔を押しつけている。この絵はカッツのアパートメントの玄関ホールに飾られており、少年の髪と動物の体毛を描いた筆のタッチが繊細で、思わずさわりたくなってしまった。そしてついに《Blue Umbrella 1(青い傘1)》(1972年)の登場だ。この作品ではエイダが──作家で教授のイングリッド・ロウランドは彼女を「魅力が人間の形をしている」と称した──柄入りのスカーフを頭に巻き、ツルニチニチソウの花の色のような青い傘をさし、夢見るようなまなざしで少し先のほうを見つめている(この絵は2019年にオークションによって約5億6,000万円で売却された)。これらの作品は、カッツがポップ・アート運動が発信するテーマにも関心があったことを明確に示している。彼の作品は絵画というメディアでありながら、ビルボードや映画や広告のメッセージとも通じるものがあった。また、日本の江戸時代の浮世絵木版画絵師であった喜多川歌麿の影響も見られる。歌麿は、美人画と呼ばれる、美しい女性たちの私生活を映し出す肖像画を描き、その優美さで知られている。カッツはクイーンズにある友人宅の居間で歌麿の版画を見たことがあった。友人の夫が日本旅行から版画を持ち帰ったのだ。カッツは浮世絵の「洗練された自由奔放な題材」が気に入った(歌麿が描いた女性たちは、有名な遊女や花柳界周辺の人々が多かった)。

画像: カッツの妻と息子の肖像画《Ada and Vincent(エイダとヴィンセント)》は1967年の作品 ALEX KATZ, “ADA AND VINCENT,” 1967, OIL ON LINEN, PRIVATE COLLECTION, PHOTO COURTESY OF ALEX KATZ STUDIO © 2022 ALEX KATZ/LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

カッツの妻と息子の肖像画《Ada and Vincent(エイダとヴィンセント)》は1967年の作品
ALEX KATZ, “ADA AND VINCENT,” 1967, OIL ON LINEN, PRIVATE COLLECTION, PHOTO COURTESY OF ALEX KATZ STUDIO © 2022 ALEX KATZ/LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 カッツが描くファッショナブルで自由奔放な題材も、彼の作品を眺める楽しみのひとつだ。たとえば、彼がつき合っていたアート界のさまざまな仲間たちの顔ぶれを作品の中に見つけることができる。彼には詩人の友人が多く、フランク・オハラ、ジェームズ・シュイラー、ケネス・コッホ、ジョン・アッシュベリーらもいた。詩人でありダンス批評家のエドウィン・デンビーはカッツにとって親しいメンターでもあり、10年間ほぼ毎日会っていた(「エドウィンとの親交は僕にとって大学院に通うようなものだった」とカッツは語っている)。さらに振付師のポール・テイラーとは仕事を通して長く親しくつき合い、その関係を楽しんだ。カッツはテイラーのダンサーたちを題材に絵を描き、彼の舞踊団のためにちょっと変わった面白い舞台装置や衣装を作った。テイラーやデンビーやオハラはみなカッツの肖像画に登場している。さらに詩人のアレン・ギンズバーグ、アン・ワルドマン、テッド・ベリガン、映画監督で写真家のルディ・バークハート、ダンサーで振付師のビル・T・ジョーンズなども登場する。カッツのロフトには人物の形をした彫刻があり、それはカッツが1959年に作りはじめた「カットアウト彫刻」のひとつで、真剣な顔をしたデンビーとバークハートが椅子に座って向かい合い、会話をしているように見える像だ(《Edwin and Rudy(エドウィンとルディ)》、1968年)。60年代半ばまでには、カッツは多数の人々を一度に描くグループ肖像画の作品を発表しはじめた。その中には《The Cocktail Party(カクテル・パーティ)》(1965年)、《Lawn Party(芝生の庭でパーティ)》(1965年)や《Evening(イブニング)》(1972年)などがある。これらの絵画は、しゃれた服装の男女が彼らのなじみの場所で集う様子を描いたもので、緻密で複雑な構図だ(たとえば、高層マンションの部屋の窓から明かりに照らされたビルの夜景が見える様子。メイン州にあるカッツの明るい黄色の家の庭の青々とした芝生の上で、夏にパーティが行われている様子など。ちなみに、メイン州のこの家の外壁は、詳細に描き込まれた木の葉の影の絵で覆われている)。これらの作品によって、カッツは時代の雰囲気を牽引する人物、さらにアヴァンギャルドなアートシーンを記録する者としてその地位を強固なものにしてきた。

画像: グループ肖像画を描きはじめた初期の頃の作品のひとつである《The Cocktail Party(カクテル・パーティ)》(1965年) ALEX KATZ, “THE COCKTAIL PARTY,” 1965, OIL ON LINEN, PRIVATE COLLECTION, PHOTO BY JAMES PRINZ, CHICAGO © 2022 ALEX KATZ/LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

グループ肖像画を描きはじめた初期の頃の作品のひとつである《The Cocktail Party(カクテル・パーティ)》(1965年)
ALEX KATZ, “THE COCKTAIL PARTY,” 1965, OIL ON LINEN, PRIVATE COLLECTION, PHOTO BY JAMES PRINZ, CHICAGO © 2022 ALEX KATZ/LICENSED BY VAGA AT ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 当時、彼は風景画も制作していた。小ぶりで繊細なコラージュから巨大な抽象画に至るまで、さまざまな表現方法で風景を描き、毎夏メイン州を訪れていた。この二つの拠点──ひとつは都会、もうひとつは田舎──は、まったく違う二つの要素を作品に提供した。「これは珍しいコントラストだ」とグッゲンハイム美術館のアームストロングは言う。「彼はニューヨークのダウンタウンの歴史を記録する者として恐らくトップの存在だと思うが、同時に彼はカントリーボーイでもある。メイン州の展覧会での作品は、信じられないほど素晴らしい」。自叙伝の中で、カッツは自分が10代だった頃、父親に言われた言葉をこう回想している。「おいアレックス、絵に描くために風景を探すんじゃないんだ。自分の家の裏庭を描くんだよ」。カッツはいつしかその忠告に従っていた。抽象表現主義が花開く時代に、自分の家族や友人、パーティや海岸の風景を描くのは、異端だった。

 だが、そんな彼のアートの題材への情熱は、批評家から見れば格好の批判の対象だった。ロサンゼルス・タイムズ紙の美術批評家ウィリアム・ウィルソンはカッツの1986年の回顧展を受けて、彼が「上流階級御用達の画家」になりつつあるのでは、と警鐘を鳴らした(1920年代にマンハッタンの上流階級を描いた画家ガイ・ペン・デュボワと同じように)。

 カッツが描いているのは美しく着飾った裕福な白人の世界で、登場人物の誰ひとり苦悩を体験しない世界だと多くの人が感じていた。「雑誌『ニューヨーカー』の表紙を飾るような」とウィルソンは書き「それとなく特権階級」と評した。批評家のピーター・シェルダールはカッツの描く対象を「山の手の中流以上の階級の、洗練されたセクシーな愛すべき人たちが集う見せかけだけのカーニバル」と評しており、そんな作品の「影響力は、会員制クラブの入り口の前に張られている、非会員の入場を阻止するためのベルベット製のロープのようで、極めて不快でしかない」と述べている。また、アーティストのアーサー・ジャファは自身のカタログに掲載したエッセイで、「ほとんどの人が、アレックスの作品は極めて狭いWASP(註:アングロサクソン系の白人でプロテスタントの信仰をもつ中流以上の階層)の範囲内にとどまっていると思うだろう」と書いている。だが、ジャファは、カッツは実際、「ユダヤ系のアーティストが白人世界を描く」伝統に則っているだけで、それはハリウッドの映画製作者たちの間でも長年行われてきた事実だと反論する。カッツの絵に描かれている洗練された装いの人々は、必ずしも金持ちではなく、当時のアーティストたちはみな同じような服装をしていた。何年もの間、カッツは週に2~3日はフレーマー(額縁職人)として働いて(さらに時々は家の塗装の仕事もしていた)生活費を稼ぎ、暖房も温水もないロフトに不法占拠して住んでいた。

 だが、長年の間に、間違った認識が定着してしまった。アート・ディーラーのブラウンは、カッツの存在はかつて「アートに興味がある人なら誰にとっても象徴的な存在だった」と言う。だが「彼らはなぜか近視眼的な考えにとらわれてしまい、または、彼に対して、事実と反する固定観念をもつようになってしまった」。その一因は、カッツの作品が極めて分類しにくいからかもしれない。批評家やキュレーターたちが彼の作品を形容するのに使うのが「一風変わった」という表現だ。写実と抽象の間を彷徨っているという意味でもある。彼はどんな美術学校や伝統からも距離を置き、彼の意識は主に技術的なことや形式(自分が見た出来事や事柄をいかに絵画で形にするか)に集中している。物語を伝えることや感情表現よりも、そちらの比重が上なのだ。「もし僕がアイデアを中心にキャリアを構築しなければならなかったら、何をやってもうまくいかなかっただろう」と、カッツがアーティストのフランチェスコ・クレメンテとの対談で語ったやりとりが1989年に出版されている。「僕にとってアイデアというのは題材で、さほど重要ではないんだ……どんなスタイルで表現するかのほうが大切だ。スタイルと、どう見えるかが大事なんだ」。だが、スタイルのように一時的で、すぐ廃たれてしまうものへの興味は、今の時代、まともなアーティストがもつべき関心だとは受け止められない。

 彼の作品は物語性や概念や政治的メッセージを打ち出すことに欠けており、そういうやり方では今の時代に人気を得ることはできない。詩人でエッセイストのアリス・グリビンの言葉を借りれば、アート作品が「メッセージを伝えるためのシステム」に集約されてしまうことが多い現在では、アーティストと観客の間のミステリアスな美的邂逅の場として作品が鑑賞される機会は少ない。アートを道具として見る人々にとっては、彼の作品は、カッツ自身の言葉を借りれば、少しばかり時代遅れなのかもしれない。だが、彼よりあとにデビューした画家たち、特に物語性や心理や政治を常に問われる制約に疲れ、そこから解放されたいと願う者たちにとって、カッツの影響は大きく、さらにその影響は今の時代の画家の多くの作品にも見られる。たとえば神格化されたセレブリティたちを描いたエリザベス・ペイトンや、ポップ・カルチャーを象徴化したサム・マッキニスなどがそうだ。彼らにとって、カッツが自分の作品作りに完全に没頭してきたことは、驚くべき新鮮な発見だったのだ。「彼はあらゆる点においてお手本のような存在だよ」とカッツを40年以上知るデヴィッド・サーレは言う。「まず、自分の道をつき進んでいること。それだけでも感動的だし、それ自体はそれほど古くさいことじゃないと思う……彼は自らの感受性を定義づけ、最初から自分のやりたいことに正直で、決してぶれないアーティストの代表なんだ。それどころか、ますます自分のやりたいことにのめり込んでいる」

 大衆は、労力が込められていないように見えるアート作品を、深みがないとか、価値がないなどと判断しがちだ。「フレッド・アステアの踊るダンスが簡単に見え、コール・ポーターが歌詞と音楽をいとも容易に創作しているように見えるからといって、簡単に描かれたように見える絵画をあなどってはいけない」と批評家のジョン・ラッセルは1986年のカッツの回顧展について書いている。さらに「芸術らしさを内に秘めたアートという点においては、カッツはアステアとポーターというふたりの天才に引けを取らない存在なのだ」とも。カッツはたいてい午前中には巨大なキャンバスに描く絵の一枚を素早く完成させてしまうという。それにはウェット・オン・ウェットという技術を用いている。主に油絵に使われるその技法(アラ・プリマとも呼ばれる)は、塗った絵の具が乾く前に、その上にさらに絵の具をのせていくやり方だ。訓練されたそんな即興の技が作り出す素晴らしい芸術には、実際にはかなりの準備が必要だ。彼は油絵の具を使ってスケッチをし、試作品は鉛筆で描く。実際に存在しているものをそのまま観察して描くことが多いが(最近では、時々はiPhoneで写真を撮ることもある)、サイズの大きい絵画の場合は、ルネサンス期の画家たちが使っていた写し絵技術を使う。それは、あらかじめ紙の上に描いた線画のアウトラインをキャンバス上に移植して拡大していく手法だ。その際にはパウンシングという技術を使う。線を上から強くなぞって小さな穴を作り、その穴から粉末状の顔料を押すように塗り込んでいくのだ。

 取材三日目、カッツのスタジオを訪れる最後の日、彼は2×3mの大きさのコニーアイランドの海岸を描いた絵画を完成させたところだった。巨大な海がすべてを飲み込むような感じがする。ギラギラ光る黒色に白い絵の具が垂れ、まるで雨の日に車の窓から外を眺めているような感覚だ。この絵を完成させるのに2時間かかったと彼は言う。部屋にはジャズが流れている。そのときにふと気づいた。彼が若い頃憧れていたジャズ・ミュージシャンたちのように(「僕はサックス奏者のスタン・ゲッツのように絵を描きたい」と彼は私に言う)瞬間を捉えて自由に創作するために、試作を重ね、準備をしている点で、両者はあまり違わないのではないかと。私とカッツは後ろに下がって、キャンバスに光が反射するのを眺めた。「この作品で描いたのは、動きと重さと透明性だ」と彼は言う。彼は作業台まで歩いていき、何かを探しはじめ、2月の寒い日にコニーアイランドの海岸で撮影した写真を数枚取り出した。そこには、波が打ち寄せ、泡が立って唾のように白くなっている様子が写っている。その白い部分に彼は黒いマジックで長方形の印をつけた。それは、私たちの前にある巨大な絵画に描かれている、破片のように見える箇所と重なった。その写真の風景は、私には特に印象に残るようなものには見えないが、彼の目には、波のうねりとそのたった一瞬の時間の輝きが際立つ存在に見えるのだ。

 アート・ディーラーのブラウンは、カッツの絵画のすべてが「その時々の光」を描いていると思う、と言う。ブラウン自身の言葉で言うなら「時間を構成するものは光だ。だから、題材が花であれ、風景であれ、人間の顔であれ、彼はいつもそこにある光を描いてきた」と。カッツは何度も「現在形」で描くことにこだわっていると言った。それは、彼が速いスピードで描いて、移り変わる瞬間を捉えようとしているだけでなく、火急のこととして筆をふるう緊張感が絵画そのものに反映されるからだ。「瞬く間に変化していく。本当に速い」と彼は風景というものについて語っている。「15分ほどで移り変わっていくものを僕たちは見ているんだ」

 グッゲンハイムでの回顧展でも、隠されたテーマは時間だ。キュレーターのキャサリン・ブリンソンとともに会議室に座り、同美術館のらせん状の広間の壁に吊るして飾る予定の板状の作品をパラパラとめくって見ているとき、彼女はこの展示が、通常の回顧展以上に、いかに「時間の移り変わりのドラマを形として見せていくこと」に重点を置いているかを指摘した。「もちろん、キャリアの軌跡の中で、彼の作品がいかに洗練されてきたかを見ることができるだけでなく、彼の絵画のモデルが文字どおり老いていく様子も見ることができる」。たとえば、エイダがそうだ。ブルネットの髪をした若い女性が、コバルトブルーのドレスを着ている。そして60年たったのちに、温かな夕べの光に包まれて、彼女の顔の輪郭がやさしく縁取られ、暗い色だった彼女の髪が、白髪まじりになっている。

 一方、カッツは永遠に現在形で生きているようだ。彼はいつもギャラリーに姿を現し、主に独立系のディーラーからアート作品を買う。彼の名を冠した財団名義で買われたそれらの作品は、その後美術館に寄贈される。その行為は、アート界の生態系全体を押し上げるようなものだ。カッツの財団の目的は「デビューしたて、もしくは、まだ世に認知されていないアーティストたちを助けること」だ。カッツの息子のヴィンセントは言う。「アレックスは長年そのことを考えていて、やっとこの形で実現したんだ」。彼はこう続ける。「援助資金を提供すると、浪費してしまって何も残らないかもしれないが、この方法ならうまく機能する。アーティストのもとには作品の売り上げ金が入り、作品は美術館に所蔵される」。カッツは人生のほとんどを、ひたすらアートと修業と絵画を描くことだけに捧げてきた。それを思うとき、混乱と騒乱に満ちた私たちの時代に彼の人生は、何を教えてくれるのだろうか。献身、規律、そして時間をかけて取り組むことは、アート作品を創作するときだけでなく、何か価値のあることをやろうとするときにも必要で、カッツの場合、禅僧が集中して修行する感じに近い。私はカッツに自分のレガシーは何かと聞いてみた。彼は未来のことを考えているのだろうか? 彼はその質問にくすっと笑った。「未来は考えないようにしている」と彼は言う。「今日を生きていようとしているだけ」

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