日本にル・コルビュジエの作品はたったひとつしかない。だが、日本のモダニズム建築の多くは、ル・コルビュジエから始まったと言っても過言ではない。そこには、ル・コルビュジエの思想と日本人のアイデンティティとを融合させようとした建築家たちの苦闘の歴史が刻まれている

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY ANTHONY COTSIFAS, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 2016年、ユネスコの世界遺産に登録された〈国立西洋美術館〉をはじめ、ル・コルビュジエが日本の建築界に及ぼした影響は計り知れない。だが、1920年代、日本の建築家たちはふたつの思いに引き裂かれていた。世界的潮流であるモダニズムを取り入れたいという思いと、「日本的なもの」を守りたいという思い――。ル・コルビュジエが象徴するモダニティの思想はいかに日本の建築界を変えていったのか、そのドラマティックな歴史を俯瞰する後編。


 1920年代の日本でモダニズム建築は新たな潮流として捉えられた。19世紀後半の職人の手仕事や一般的なクラフツマンシップとは別ものとして区別されたのだ。にもかかわらず、あるいは多少はそのせいかもしれないが、日本は東アジアのどの国よりも早くから、そして最も深く、ル・コルビュジエとの関わりを通してモダニズム建築に傾倒していった。1930年代前半までに、ル・コルビュジエの最も重要な著作の多くが日本語に翻訳され、ル・コルビュジエの事務所で学んだ何人かの日本人建築家が帰国して、彼の建築論を日本に紹介する役割を担った。

そして日本はどの国よりも長く、その影響を受け続けることになる。米軍から史上二番目に激しい空爆(一番はベトナムだった)を受け、東京が壊滅的な被害を受けた第二次世界大戦が終戦を迎えると、コンクリートを媒介としたモダニズムが戦後日本の復興のイデオロギーとなった。戦後の日本でおそらく最も影響力のある建築家である丹下健三は、前川國男の事務所に入所後、ル・コルビュジエの近代建築国際会議(CIAM)に参加した。ル・コルビュジエの彫刻のような、表現主義的なコンクリートの使い方にヒントを得た丹下は、ル・コルビュジエが早くから興味を示していた都市総合計画を推し進め、さらにそれを拡大していった。

〈国立西洋美術館〉と向かい合うように立つ〈東京文化会館〉(1961年)は前川國男の代表作のひとつであり、戦後の名建築を象徴するものでもある。ル・コルビュジエの事務所に入所したとき、前川は多感な22歳の青年だった。建築中だった〈サヴォア邸〉を見学した前川は、ヨーロッパにモダニズムを定着させようと奮闘するル・コルビュジエの姿に触発されたに違いない。前川もまた変化を嫌う旧態依然とした日本の風潮に直面していたからだ。前川の作品はどの建築家よりも、日本の初期モダニズムにおけるイノベーションと妥協を体現していた。それを思うと、前川の代表作のひとつとル・コルビュジエの作品が、当時の苦労を語り合うかのように向かい合って建っていることも何か意味を感じさせる。〈東京文化会館〉は、〈国立西洋美術館〉よりも横幅が広い。反り返った巨大なひさしの突き出たコンクリートの屋根が、重厚感のある水平ラインを強調している。美術館に面した側は、お堀と傾斜した巨大な壁で囲まれたシェルターか城のように見える。

前川事務所の中心的メンバーとして〈東京文化会館〉のプロジェクトをとりまとめ、のちに独立して著名な建築家となった大高正人は、ル・コルビュジエの〈ロンシャンの礼拝堂〉や、遅くとも7世紀に建立された、日本最古の神社のひとつと言われる神道の聖地、出雲大社との類似性を指摘している。この建築は「日本的なもの」を表現したのか? あるいは、「インターナショナルなモダニズム」という閉じられた狭い世界の中をぐるぐる回っているだけなのか?

内装を見ても同じような曖昧なヒントしか与えられない。大ホールへ続くエントランスには美術館と同じコンクリートタイルが貼られている。しかしホール内部の壁面には、クリアで温かい音響を実現するために、切り出した木材で造られた、どことなく抽象的な彫刻の大きなレリーフが貼られ、建物内部にそびえる木目模様の高いコンクリートの柱は木製の神社の鳥居を彷彿とさせる。

画像: ほかの写真をみる 〈国立西洋美術館〉と向かい合うように建つ前川國男設計の〈東京文化会館〉

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〈国立西洋美術館〉と向かい合うように建つ前川國男設計の〈東京文化会館〉

画像: ほかの写真をみる〈東京文化会館〉の外観

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 さまざまなモチーフが盛り込まれたこのモダニズム建築の傑作には、前川の建築に対する「日本的なもの」を巡る論争に心をかき乱されてきた、彼自身の複雑な軌跡が投影されている。コルビュジエの事務所を去って日本に戻った前川は、1930年代から初期のモダニストで日本を拠点に活動していたチェコ出身の米国人建築家アントニン・レーモンドの事務所で働き始めた。日本が戦時体制に突入する頃に彼はレーモンドの事務所を去ったが、“日本趣味”を掲げる建築家たちはモダニストたちを「日本人らしからぬ」と攻撃した。

誰もが伝統的な日本建築の技術をまねるようになり、前川はそれを不誠実なことだと感じていた。1931年、彼は〈東京帝室博物館〉(現・〈東京国立博物館〉)の公開コンペに計画案を提出。それについて書いたエッセイの中で前川は、伝統主義者からの批判を覚悟のうえで、国際連盟本部のコンペに提出したル・コルビュジエの計画案を引き合いに出し、「日本建国から2591年目[原文ママ]の今、日本式の切妻屋根を造るなどとは、数千年にわたる日本の芸術の歴史に対するはなはだしい冒瀆にほかならない。われわれは日本古来の芸術に敬意を払っているからこそ、昨今の日本の建築界の臆面もなく誤った風潮に断固として異議を唱えるのである」と主張した。

 前川は予想どおりコンペに落選した。だが、彼が設計した〈東京文化会館〉は、その〈東京国立博物館〉と同じ上野公園内に建てられることになった。リベンジとまでは言わないが、因果応報とはこのことだろうか。

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