製造業が怒濤の勢いでもたらした莫大な資金、広大な土地、そして堅牢な産業によって、20世紀半ばのミシガンは、モダニズムが最も豊かに花開いた重要な拠点のひとつとなった。今日この街に残る建物は、アメリカのイノベーションにおける失われた歳月の証拠であり、現代デザインのいまだ語られざる一章なのだ

BY M. H. MILLER, PHOTOGRAPHS BY ANDREW MOORE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: ほかの写真をみる フランク・ロイド・ライト設計の、メルビンとサラのスミス夫妻邸。ミシガンの郊外、ブルームフィールドヒルズにある。この家は最近クランブルック教育コミュニティに寄付された(コミュニティにはアカデミー・オブ・アートも含まれる)

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フランク・ロイド・ライト設計の、メルビンとサラのスミス夫妻邸。ミシガンの郊外、ブルームフィールドヒルズにある。この家は最近クランブルック教育コミュニティに寄付された(コミュニティにはアカデミー・オブ・アートも含まれる)

I.工場
 1908年は、ヘンリー・フォードが「大衆のための車」と呼んだモデルTを発表した年だ。同年、建築家のアルバート・カーンは、ミシガン州デトロイトのダウンタウンに近いハイランド・パークに建設するフォード工場の設計を提案した。その建物にフォード社が移転して3年後の1913年には、絶え間なく動き続ける生産ラインを有する世界初の自動車工場となり、その後の14年間で何百万台ものモデルTを生産した場所となった。この工場でフォードは一日8時間、週5日制の労働スケジュールを導入し、特殊技能のない労働者たちが十分に生活できる賃金を払った。その改革は、モデルTと同様にアメリカを近代化させ、階級制度の再構築に貢献した。

 カーンは裕福な家の出身ではなかった。彼の家族は、かつてプロイセン王国と呼ばれた土地から、ユダヤ系移民として1881年にデトロイトに移り住んだ。1895年、26歳で市内に自身の名を冠した会社を起こし、建築家としてはまだ駆け出しだった1904年に、同市のパッカード自動車工場用に、ビルディング10をデザインした。カーンは資材を、木材から、より安全で、ドラマティックな構造を可能にする鉄筋コンクリートに置き換えた。そうすることにより、工業建築に革命を起こしたのだ。パッカード工場はそれ自体が小さな都市で、最盛期には4万人の工員が約32万5000m²の広さの、巨大な窓がいくつも連なる施設で働いていた(施設全体を設計したカーンは、1956年のデトロイト・フリープレス紙の記事の中で「太陽光の使徒」と称され、彼が「窓のない工場を想定することは、ほとんどなかった」と書かれている)。フォードはビルディング10や、その他カーンが設計した同様の工場の業績をもとに、彼を起用した。フォードとカーンのふたりが手がけたプロジェクトは、アメリカのデザインを20世紀へと牽引していった。

 ハイランド・パークの工場のデザインを提案したその同じ年に、カーンはデトロイトから20マイル(約32km)ほど北にある大きな邸宅の仕事を完成させた。その場所はのちのブルームフィールドヒルズの郊外にあたる地域だが、当時はまだ農場だった。発注主は、デトロイト・ニュース紙の発行人だったジョージ・ゴフ・ブース。ブースとフォードは、これ以上はないというほど正反対の人物だった。「本を読むのは好きではない」と語ったことがあるフォードも、1920年代にはディアボーン・インディペンデントという名の新聞社のオーナーで、紙面では1年半にわたり反ユダヤの連載記事を掲載した。連載第一回のタイトルは「国境を越えるユダヤ人:世界的な問題」だった。一方、アジアの美術や文学に精通していたブースは、博識をもって知られ、アーツ・アンド・クラフト運動(註:1920年代の日本では民藝運動)の推進者でもあった。

 ブースには、その運動の指針である、シンプルな手作りのデザインを実践すべく、広い地所をもつ施設を造りたいという野心があった。1932年までに彼の敷地には、子どもたちのための中学、高校や、米国聖公会の教会ができた。そして最も特筆すべきは、ブースがクランブルック・アカデミー・オブ・アートというバウハウス(註:ドイツのクラフトや美術、建築の教育施設)のアメリカ版をミシガン郊外に設立したことだった。この学校は、ブラック・マウンテン・カレッジなど、その他のアメリカの実験的アートスクールの先駆となった。同アカデミーの初代学長は、フィンランド人の建築家エリエル・サーリネンだ。彼はキャンパスのほとんどの部分を設計し、20世紀モダニズムを代表する優れた頭脳の持ち主たちを魅了した。ル・コルビュジエやフランク・ロイド・ライトも学校を訪ねてきたし、在学生の中にはチャールズとレイのイームズ夫妻もいた。1945年に同校で講義をしたライトは、若い学生たちにこうアドバイスしたと伝えられている。「働け、働け、働け。夜も昼も!」

 ライトが唱えたこのお題目は、近代という時代を要約するのに過不足ない言葉だ。進歩の名のもとに疲労困憊するまで働く、というわけだ。この時代を考察するときに、もしミシガンを真っ先に思い浮かべないとしたら──たとえば1920年代のドイツやフランスのように──ただちに考え直すべきだ。都会のフォードと郊外のブース。このふたりの存在で、ミシガンはモダニストたちの実験の一大拠点となった。美的観点から見ると、それは簡潔さと柔軟性を追求する実験だった。たとえば、フォードは製造過程に必要な雑多な部品のすべてをひとつ屋根の下に収まるようにしたかったし、カーンはそれを可能にしたのだ。だが、イデオロギーの面からすれば、建築におけるモダニズムとは、もっと複雑だ。もし人間が、素晴らしく機能的な秩序によって環境を再構築しようとするなら、環境はあるレベルの社会的な調和とまとまりを促進する──そういう考えに根づいたモダニズムなのだ。こうした実験は当然のごとく失敗したが、その形跡はミシガンの至るところにまだ残っている。ミシガンはおそらく、初期のモダニストたちの実験を、世界中で最も多岐にわたり、かつ最高の保存状態で残している場所なのだ。

 

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