建築家としてのキャリアの大部分を、人道的な目的に使われるシェルターの開発に費やしてきた人物がいる。彼はまた、建築という分野の優先順位をも塗り替え、災害が絶えない私たちの時代の課題を緊急に解決する手段として、自身の建築を役立ててきた

BY NIKIL SAVAL, PORTRAIT BY NOBUYOSHI ARAKI, ARCHITECTURE PHOTOGRAPHS BY BENJAMIN HOSKING, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 何世紀にもわたって海外の影響を受けずにきた日本の伝統的な建築は、どこか隔絶された雰囲気がある。また近代の日本の建築家たちの間では、建築において何が“日本的”で何がそうでないかという点がさんざん議論されてきた。そのような理由から、現代の日本人建築家を、日本古来の伝統という特別な枠の中に押し込めて考えようとする傾向がいまだに根強い。どんな状況であっても、そのような態度には問題があり、坂の作品を理解するのに適した方法ではない。そもそも、彼は日本的な建築家だと解釈されることを拒否している。

「私はここで建築を勉強したことは一度もない」と彼は日本をさして語る。「それに私は東京で、伝統的ではない建物で育ったから」。彼の建築魂に国境はない。もちろん、建築界にはさまざまなインターナショナリズムがあるが、そのほとんどが金銭ずくのものだ。多くの建築家たちはプライベートジェットで移動する富裕層で、世界中のあちこちに、自分を象徴するような建物を、現地の文化に関係なく建てまくる。

画像: ニュージーランド・クライストチャーチの「紙の大聖堂」(2013年)。2011年の地震で被災した教会の跡地に建つ EMMA SMALES/VIEW

ニュージーランド・クライストチャーチの「紙の大聖堂」(2013年)。2011年の地震で被災した教会の跡地に建つ
EMMA SMALES/VIEW

 だが、坂のインターナショナル・スタイルはそれとはまったく違う。彼が若い頃に受けた建築教育における中心的存在は、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエだったが、それ以外にも多様なグループの建築家たちが活躍していた。アルヴァ・アアルト、バックミンスター・フラーやフライ・オットーがいた。さらに1940年代に始まった南カリフォルニアの「ケース・スタディ・ハウス」を牽引した建築家たちの影響は、坂の作品に最も色濃く表れている。紙管を使ったシェルターは、唯一、坂の象徴的な建築だが、それ以外の彼の作品では、彼固有の特徴はほとんどわからない。たとえば、日光に照らされて輝くアルミニウムのリボンといえば即、フランク・ゲーリーの作品だとわかるような明確なシンボルはない。彼は新しい建物を造るたびに、新しい自分を試しているように見える。

 坂が幼い頃は、大工仕事の現場に触れる機会がたくさんあった。両親と暮らした東京の家は木造で、それ自体は珍しくなかったが、頻繁に改築が行われていた。ファッション・デザイナーだった母は、定期的に自宅を増築してお針子さんたちの仕事スペースを確保していた。父はトヨタに勤務していた。坂は家に大工たちが出入りするのをじっと観察していた。「美しい工具を使って彼らがやることを見ていたし、木の匂いを楽しんでいた」と彼は言う。建築家という職業があることすら知らず、彼は大工になりたいと思っていた。中学校の美術の授業で、基礎的な住宅の模型を作る課題があり、そこで自らの才能を発見し、建築というものが大好きだということに気づいた。

 彼はたまたま雑誌でジョン・ヘイダックの作品に関する記事を読んだ。ヘイダックはニューヨークにあるクーパーユニオン大学の建築学部の学部長を1975年から2000年まで務めていた。当時、同大学の教師陣にはピーター・アイゼンマン、リカルド・スコフィディオやベルナール・チュミなど錚々(そうそう)たる建築家が名を連ねていた。坂はクーパーユニオンで学びたいと思ったが、同大学は米国外の志望者を受け入れていなかったため、ビザを取得して英語を勉強するためにカリフォルニアに渡り、米国内で建築学校を探した。カリフォルニア大学バークレー校やUCLAなどの伝統的なマンモス校を意識的に避けた結果、南カリフォルニア建築大学、通称サイアークに入学した。同校は新設校で、フランク・ゲーリーやトム・メインなど当時は型破りだった建築家たちが教鞭を執っていた。

 サイアークはサンタモニカにある工場の建物を再生させて校舎として使い、学生たちが自ら足場を組んでスタジオを建設した。同大学は1972年に設立され、共同創設者で初代ディレクターを務めたレイ・キャップが「自治を貫く独立した学校組織で、200人の学生と25人の教員が協力して学問の方向性を決める」というビジョンを掲げていた。それが具現化された結果、成績によるランクづけは廃止され、活発な議論が頻繁に行われていた。英国人建築家のピーター・クックが「誰が教師で誰が学生なのか、じっくり会話を聞かないと判別できない」と書いたほどの、徹底してオープンな環境ができ上がった。

 そこで坂が何よりも習得したのは、同校に活力を与え、街並みにインパクトを残したカリフォルニア・モダニズム主義の考え方だった。彼が最も感銘を受けたのはケース・スタディ・ハウスだ。プレハブ(組み立て式)工法で造られた36戸の一戸建て住宅の実験プロジェクトのことで、全戸が実際に建てられたわけではないが、ロサンゼルスを中心に1945年に開始された。『アーツ&アーキテクチャー』誌の編集長、ジョン・エンテンザがプロジェクトの発起人で、リチャード・ノイトラ、ピエール・コーニッグ、レイ&チャールズ・イームズたちが住宅のデザインを手がけた。このプロジェクトは、ミース・ファン・デル・ローエ作のトゥーゲントハット邸、ル・コルビュジエのサヴォア邸などのモダニズム初期の住宅に使われたアイデアをさらに発展させようという試みだった。人が生活する住居部分を解放し、部屋間の仕切りや、屋外の景観との境界をなくすような造りだ。

 このケース・スタディ・ハウスを通して、坂は日本の伝統的な建築を再発見したのだった。「私の場合、ケース・スタディ・ハウスを通して偶然に日本の影響を受けた」と彼は言う。「ケース・スタディ・ハウスには日本の影響が色濃く出ていた。たとえば日本の伝統家屋のように内側と外側をつなげるところ、素材の使い方や柱梁構造など。素材の革新的な使用法もたくさんあった。それらに魅了されたし、カリフォルニアでの私の建築体験を豊かなものにしてくれた」

画像: 2015年に完成した「無垢杉の家」。日本の山梨県北杜市にある。ミース・ファン・デル・ローエからインスピレーションを得てミニマリズムの味わいを出した

2015年に完成した「無垢杉の家」。日本の山梨県北杜市にある。ミース・ファン・デル・ローエからインスピレーションを得てミニマリズムの味わいを出した

画像: ニューヨーク州サガポナックにある「サガポナック・ハウス(The Furniture House 5)」(2006年) MICHAEL MORAN/OTTO

ニューヨーク州サガポナックにある「サガポナック・ハウス(The Furniture House 5)」(2006年)
MICHAEL MORAN/OTTO

 坂がバックミンスター・フラーの作品を学んだのも、カリフォルニアだった。フラーは独学でその道を究め、いまだにどんな流派にもカテゴライズされていない、20世紀アメリカン・デザインの天才である。サイアークで、坂とほかの学生たちは「ジオデシック・ドーム」を造るよう指示された。ジオデシック・ドームはフラーが1950年に最初に手がけた地球儀のような球状の構造体で、表面がたくさんの三角形で細分割されている。この形のドームは、ヒッピーの共同体からウォルト・ディズニー・ワールドのエプコットのアトラクションまで、世界中に普及していった。フラーは、最小限の素材で組み立てられ、安価で、わかりやすい形をしたドームが世界の住宅危機問題の解決策になると信じていた。

 坂にとって印象的だったのは、新しい構造を見つけようとするフラーの粘り強い探究心と、流行の建築スタイルを頑なに拒否する姿勢だった。フラーと、もうひとり、軽い皮膜状の屋根構造を1960年代に考案したドイツ人建築家のフライ・オットーについて話しながら、坂は言った。「彼らは、独自の建築を造り出すために、当時流行していたスタイルの影響を受けることなく、素材と構造の開発に取り組んでいた」。坂の言葉からは、彼自身にぴったりの定義を探そうという意志を感じることができる。

 

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