建築家としてのキャリアの大部分を、人道的な目的に使われるシェルターの開発に費やしてきた人物がいる。彼はまた、建築という分野の優先順位をも塗り替え、災害が絶えない私たちの時代の課題を緊急に解決する手段として、自身の建築を役立ててきた

BY NIKIL SAVAL, PORTRAIT BY NOBUYOSHI ARAKI, ARCHITECTURE PHOTOGRAPHS BY BENJAMIN HOSKING, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 世界中にその名が知れ渡っている建築家にしては、坂の私生活は地味なものだ。彼と、ジュエリーやハンドバッグのデザイナーである妻との間には子どもがいない。東京の世田谷の一角にある、何の変哲もない慎(つつ)ましやかな3階建てのオフィスビルの事務所で、40人のスタッフが働いている。近所には坂が造った多くの建物がある(彼の事務所でガイドマップをもらった)。この地域を見るだけで、日本の一戸建て住宅がいかに類い稀なほど多様性に富んでいるかがわかる。ひとつひとつの建物が全部違うのだ。

 坂の初期の作品のひとつに「羽根木の森」アパートメント(1997年)がある。この建物はまるで森の中にガラスの箱が現れたように見える。細い杭状のピロティに支えられて宙に浮いているかのようだ。建物は木に囲まれており、玄関には鏡とミラーガラスが使われている。その近くには2006年に完成した「ガラス作家のアトリエ」があり、これは「羽根木の森」とはまったく異なる形だ。きわめてシンプルな組み立て式スチール棚を基本構造に使い、青い鉄製のフレームや、玄関の上についているチャーミングな丸窓が、ポストモダン風の馬小屋のような雰囲気を醸し出している。家から家へと歩いていると、統一感はないが、自分の考えを形にする新しい手法を探して、あらゆる方法を試した建築家の足跡を感じることができる。

画像: 東京近郊に建つ「ガラスシャッターの家」(2003年)。3階建てビルの表側全体がシャッターで覆われたデザイン HIROYUKI HIRAI

東京近郊に建つ「ガラスシャッターの家」(2003年)。3階建てビルの表側全体がシャッターで覆われたデザイン
HIROYUKI HIRAI

画像: 川越市内の3世代が暮らす住宅として建てられた「はだかの家」(2000年)。プライバシーを最小限にし、オープンな空間での生活にこだわった HIROYUKI HIRAI

川越市内の3世代が暮らす住宅として建てられた「はだかの家」(2000年)。プライバシーを最小限にし、オープンな空間での生活にこだわった
HIROYUKI HIRAI

 1980年にクーパーユニオン大学に編入すると、坂はより厳しく、競争の激しい環境に飛び込んだことに気づいた。坂はピーター・アイゼンマンに師事したが、ふたりの仲はうまくいかなかった。アイゼンマンは坂の名前を「難しくて覚えられない」と言い、彼を「シュガーベア」と呼んだと坂は言う。また、アイゼンマンから「君は日本人だからこの理論がわからないんだ。だから君は全然違うことをやっている」というような意味のことまで言われたことを覚えている(アイゼンマンは、ニックネームの件は認めたが、愛着を込めてそう呼んだと語った。もうひとつの発言については、こう言った。「そういう言い方はしなかったと思う。『君は日本人だから、西洋的な概念や西洋的な理論は理解できない』とは言ったかもしれないが。つまり、西洋の学生が日本の概念である“間”を理解するのが難しいようにね。私が言いたかったのはそういうことだ」)。

 ふたつの異なる建築スタイルを融合するというグラフティングの概念を学ぶ授業で、坂が作品を持ってくるたびに、アイゼンマンはそれを評価せず、理解を示すこともなかったと坂は言う。さらに坂はもうひとりの教授とも意見が合わなかった。この教授(坂はその人の名前を伏せた)とアイゼンマンは坂の卒業制作を不合格にすることを決め、坂はプロジェクトのやり直しを強いられた(アイゼンマンは、委員会において二人の教授の意見だけで坂が落第になることはなかったと言い、その決断は学部長ヘイダックの意向によるものだったはずだと語る。

アイゼンマンいわく、ヘイダックは「その鉄の手で学校を支配していた」)。クーパーユニオンでの待遇に疲れ果てた坂は、1982年に一年間休学して日本に帰国し、予想もつかない建築スタイルを打ち出す磯崎新のもとで働いた。磯崎は第二次世界大戦中に日本の国土が爆撃され、多くの尊い命が犠牲となったことに思いをはせた建築を手がけていた。磯崎もまた2019年にプリツカー賞を受賞することになった。

 坂が日本に戻ったのは、数年間離れていた祖国を改めて知ろうと思ったからだった。「磯崎さんのもとで一年間働いてみて、建築を学んだだけでなく、日本社会を理解する機会を得られた」と彼は言う。そして皮肉なことに、彼は磯崎が日本にいながら、日本以外の国で精力的に作品を造り、日本建築の枠や気風にとらわれることなく、国際的な建築家として活躍していることに感銘を受けた。

 クーパーユニオンを1984年に卒業すると、坂は再び日本に戻った。ギャラリーのキュレーターとしてパートタイムで働きながら、最初の自分の建物をデザインした。それは彼の母のためのアトリエで、彼はのちにその建物を自身の設計作業の拠点として改装した。また写真家の二川幸夫のもとでも働いた。二川は『グローバル・アーキテクチャー』誌、通称『GA』を創刊した人物でもあった。その仕事のおかげで、坂はフィンランドを初めて訪れ、そこでミッドセンチュリーのアルヴァ・アアルトの作品に出会った。それは坂にとって人生の転機ともいえる出会いだったが、まったく予期せぬ出来事でもあった。

「クーパーユニオンで学んでいた頃、アルヴァ・アアルトにはまったく興味がなかった」と彼は言う。「あの大学ではいわゆる国際派建築家のル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエが重視されていて、アルヴァ・アアルトはあまり尊敬されていなかった」。たとえばフィンランドの郊外に1939年に建てられたマイレア邸は、白樺の森に囲まれた環境をそのまま活かし、そのモニュメントともなっているL字型の別荘だが、アアルトの作品はこの別荘のように、特に木という一般的な素材と触れ合う官能的な体験が、その魅力の拠りどころとなっている。坂はアアルトの作品を本で学んでいたが、理解するのは難しかった。写真を通して学べる建築家の作品もあるが、アアルトの作品は実際に経験する必要があったのだ。

「彼の作品には文脈がある。つまり置かれた環境や地元のコミュニティ、文化的な背景などが感じられる」と、坂は2007年にデザイン・ビルド・ネットワークというメディアに語っている。「アアルトはクライアントが望む個性的で彫刻的な建物を造りながら、同時に文脈をもたせることも可能だと証明してみせた。周囲の環境を反映させ、自然の素材である木や煉瓦などを使い、デザインの新しい手法を試みることも可能だと」

 1986年に坂は東京のAXISギャラリーからアアルトの展覧会場のデザインを依頼された。坂はアアルトが得意としていたベントウッド(曲げ木)のデザインを再現したいと思ったが、木材は値段が高すぎた。そこで坂は紙管で波打つような形のパーテーションを造った。紙は彼が開発し、それまでも繰り返し使ってきたモチーフだった。坂は高校時代に紙の構造モデルを造り、スケッチを描いて東京芸術大学を受験したが、不合格だった。サイアーク時代には紙は安価で手に入りやすいことから、欠かせない素材だった。ギャラリーではディスプレイ用ケースを固定するのに紙管が使われていたが、坂はほかにもいろいろ使い途があると考えていた。紙という素材は目新しいものでは決してない。紙が発明されて以来、科学的な改良が加えられたこともそれほどない。再生材料から作られ、必要なら防火・防水加工も簡単にできるし、使えなくなったら再びリサイクルできる。そして、そんな紙の変哲のなさこそが、坂が驚くべき利用方法を生み出せる理由なのだ。

 

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