代官山ヒルサイドテラスにみる
完成形のない街づくり

A Never Ending History of Daikanyama Hillside Terrace
誕生から50周年を迎えた「代官山ヒルサイドテラス」。半世紀を経ても古めかしさを感じさせないその魅力について、ヒルサイドテラスを中心とした“街を育ててきた”朝倉家の朝倉健吾さんに話を聞いた

BY KANAE HASEGAWA

 1969年、ヒルサイドテラス最初のA、B棟が完成するとその後、ヒルサイドテラスは徐々に拡張していく。これによって、それまでの旧山手通りの景観は大きく変わっていった。

画像: 1973(昭和48)年当時の代官山ヒルサイドテラス(手前より、A棟、B棟、C棟)。その後、F~H棟が建つことになる対岸にはまだ民家が並ぶなか、低層建築の採用や十分な道幅の確保など、地域に寄り添った都市計画への配慮がうかがえる © HILLSIDE TERRACE

1973(昭和48)年当時の代官山ヒルサイドテラス(手前より、A棟、B棟、C棟)。その後、F~H棟が建つことになる対岸にはまだ民家が並ぶなか、低層建築の採用や十分な道幅の確保など、地域に寄り添った都市計画への配慮がうかがえる
© HILLSIDE TERRACE

「それまで旧山手通りに建っていた豪奢な邸宅は大きな塀で囲まれていたので、要塞のように外の環境から断絶した状況でした。しかしヒルサイドテラスという街は住民と街、そこを訪れる人が繋がりを持ち、ほどよい距離感でお互いが目配りをすることで街の規律を維持することを理想としていましたから、塀や壁を取り払い、住宅と外の環境がゆるやかに繋がるように設計なさったのだと思います」と健吾さんは当時を振り返る。

画像: 第2期に計画されたC棟。1973(昭和48)年に完成 © KANEAKI MONMA

第2期に計画されたC棟。1973(昭和48)年に完成
© KANEAKI MONMA

画像: 中庭を囲むような設計で、そこに暮らす人々と訪れる人々の導線を一体化。オープンな空間が住居と商業施設の境界線を意識させることのないパブリックスペースを創り出した © MAKI AND ASSOCIATES

中庭を囲むような設計で、そこに暮らす人々と訪れる人々の導線を一体化。オープンな空間が住居と商業施設の境界線を意識させることのないパブリックスペースを創り出した
© MAKI AND ASSOCIATES

画像: 第3期に計画されたD、E棟。1977(昭和52)年に完成 © KANEAKI MONMA

第3期に計画されたD、E棟。1977(昭和52)年に完成
© KANEAKI MONMA

 実は、ヒルサイドテラスが代官山でしか誕生しえなかった要素がある。今でこそ代官山付近は都市計画法によって建築物の高さ制限が緩和されているが、ヒルサイドテラスの計画が始まった当初、計画地は高さ最大10メートル以下に制限された第一種住居地域に指定されていた。そうした規制の中で槙氏も低層階の棟を設計してきたため、ヒルサイドテラスはいずれの棟も道路を歩く人が圧迫感を感じないように、3階建てほどの高さに抑えられているのだ。

「旧山手通りの車線幅は約22メートルあります。これだけの道幅であればもっと高層の建築でも道路に十分な日照が確保できるということで、のちに高さ最大10メートル以下という建築の規制が緩和されたんです」。(現在、旧山手通り沿いの建物は高さ最大20メートル以下に制限)にも関わらず、地主の朝倉家や住民から規制を緩和しないで低層のままにしてほしいと嘆願の声が上がったという。「通常であれば不動産業を営む側が高層建築を建てるために規制緩和に向けて働きかけるのでしょうが、ヒルサイドテラスの場合は逆でした。建築規制が緩和されたのに、むしろ高さに関しては、20メートルに制限した方がいいと願ったのですから」と健吾さんは続ける。

画像: 第6期計画のG棟。F棟ともに、建築規制の緩和条件をあえて取り入れず、対岸にあるA〜D棟の高さ10メートルに合わせた低層設計にこだわった © TOSHIHARU KITAJIMA

第6期計画のG棟。F棟ともに、建築規制の緩和条件をあえて取り入れず、対岸にあるA〜D棟の高さ10メートルに合わせた低層設計にこだわった
© TOSHIHARU KITAJIMA

 土地を持つ側からすれば高層建築にした方が経営面でありがたいと思いがちだが、ヒルサイドテラスは新しい棟の建設でも低層建築にこだわってきた。それは常にそこに暮らす人の幸せを第一に考えてきたからだ。「朝倉家は地主ではありますが、第一にここにずっと暮らす住民です。住民の目線でどんな環境に暮らせることが幸せかを常に考え、それを時代の変化にも目配りをしながら実践していこうとしてきたのがヒルサイドテラスなんです」。

画像: 1998(平成10)年に完成したヒルサイドウエスト。ファサード(正面玄関)が特徴的な事務所・店舗・住居からなる複合施設 © TOSHIHARU KITAJIMA

1998(平成10)年に完成したヒルサイドウエスト。ファサード(正面玄関)が特徴的な事務所・店舗・住居からなる複合施設
© TOSHIHARU KITAJIMA

 こうして半世紀続いてきたヒルサイドテラス。その歴史は、試行錯誤の賜物だ。建築だけではなく、そこで繰り広げられるマーケットやコンサートの開催、アートの設置など、時流に合わせたカルチャーも取り入れてきたというが、景気も大きく変化するなかでこの50年間、同じ考え方を貫き続けるのは大変なこと。続けるうえでもっとも意識してきたことはあるのだろうか? 最後に健吾さんに尋ねると、こんな応えが返ってきた。

画像: 1970年代、「代官山交歓バザール」の様子。ヒルサイドテラスのテナントが出店し、当時日本に上陸しはじめたフリーマーケットのようなスタイルで行われた催しは、そこに暮らす人々のコミュニティ形成と、街に多くの人々を呼び込む一助となった © HILLSIDE TERRACE

1970年代、「代官山交歓バザール」の様子。ヒルサイドテラスのテナントが出店し、当時日本に上陸しはじめたフリーマーケットのようなスタイルで行われた催しは、そこに暮らす人々のコミュニティ形成と、街に多くの人々を呼び込む一助となった
© HILLSIDE TERRACE

画像: 1970年代、日本で本格的なフランス料理を味わうことのできるレストランほとんどなく、その先達でもあった名店、フレンチレストラン「レンガ屋」は、ヒルサイドテラスB棟の1階にあった。写真は、当時A棟にあった洋菓子店とカフェ © HILLSIDE TERRACE

1970年代、日本で本格的なフランス料理を味わうことのできるレストランほとんどなく、その先達でもあった名店、フレンチレストラン「レンガ屋」は、ヒルサイドテラスB棟の1階にあった。写真は、当時A棟にあった洋菓子店とカフェ
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「続けようと思って何か目標をたてたわけではないんです。目標というのは達成してしまうとそこで終わってしまいます。ヒルサイドテラスは当初からこれといった目標がなく、その時々でヒルサイドテラスに暮らす自分たちの暮らしや社会の世相と照らし合わせながら模索してきた結果が今に至っていると思います。目標がないから、完成もないのがヒルサイドテラスの街のあり方なのかもしれません」。

画像: 『Hillside Terrace 1969-2019』 槇 文彦、北川フラム 他 著、ヒルサイドテラス50周年実行委員会 監修 ¥3,500/現代企画室 「代官山ヒルサイドテラス」50年の歴史を振り返る集大成の一冊 COURTESY OF HILLSIDE TERRACE

『Hillside Terrace 1969-2019』
槇 文彦、北川フラム 他 著、ヒルサイドテラス50周年実行委員会 監修
¥3,500/現代企画室
「代官山ヒルサイドテラス」50年の歴史を振り返る集大成の一冊
COURTESY OF HILLSIDE TERRACE

 人が住み、仕事をし、商いが生まれる。こうした日々の営みの積み重なりが代官山ヒルサイドテラスを成熟した街へと育ててきたようだ。街とは、そこに暮らす人々とともに成熟していくことで、育っていくのかもしれない。

 

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