陶芸家ダン・マッカーシーは、ニューヨーク州北部の20世紀初頭に建てられた小学校の元校舎に移り住んだ。彼は、アーティストとしてのキャリアと自己を築いてきた都会は今の自分にはもういらないことに気づく

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY JASON SCHMIDT, STYLED BY VICTORIA BARTLETT, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 建物にも人間と同じようにいくつもの人生が刻まれている。ダン・マッカーシーがそのことに気づいたのは、キャッツキル山脈のふもとにある堂々たるヴィクトリア様式の校舎に住み始めたばかりの頃だ。

 マッカーシーは2014年、自ら「第二幕の終わり」と呼ぶ52歳のとき、ブルックリンのウィリアムズバーグにある30年近く住み慣れたアパートメントを引き払った。マンハッタンから北へ数時間、新たな人生を求めて移り住んだのは、ハドソン渓谷を一望できる、見事なダッチゲーブル(オランダ風切妻屋根)を備えたロマネスク様式の石造りの3階建ての建物だ。引っ越しは骨が折れる作業だったが、すぐホッとした気分になった。ブルックリンを離れる2カ月前、表情豊かな顔を描いた陶器のコレクション《フェイスポット》の展示がギャラリストのアントン・カーンにより開催され、マッカーシーのキャリアに、陶芸が歓迎すべき新たな刺激をもたらしていた。とはいえ、油絵の売り上げはもはや1990年代ほどではなく、彼はニューヨークのマーケット主導のアート界から逃げ出すことばかり考えていた。

画像: ニューヨーク州北部にある小学校の元校舎を改装したダン・マッカーシーの自宅。2階の元校長室は今、こぢんまりとしたベッドルームに

ニューヨーク州北部にある小学校の元校舎を改装したダン・マッカーシーの自宅。2階の元校長室は今、こぢんまりとしたベッドルームに

画像: 表玄関ドアの両側に置かれたマッカーシーの《フェイスポット》

表玄関ドアの両側に置かれたマッカーシーの《フェイスポット》

「もう売れっ子の若手アーティストではなかったのです」。12月初旬のある日の午後、現在59歳のマッカーシーは、かつて教室であったとは想像しがたい、土の温もりを感じさせるオープンキッチンで、ハンボルト・フォグ・チーズを並べながら、当時を振り返った。隣のダイニングには、デニムの透けたカーテン越しに、幾筋もの陽光が差し込んでいる。カーテンの格子模様はマスタードのディスペンサーを使ってブリーチしたものだ。幼い頃、日系米国人の母に、妹ふたりとともによく連れていかれたロサンゼルスの寺院で見た暖簾(のれん)をイメージしたのだという。ダイニングに続く広々としたリビングでは、スイスのアーティスト、ウーゴ・ロンディノーネの岩の彫刻と、ドナルド・ジャッドにインスパイアされて船舶用モミ合板で作ったソファベッドが、瞑想的な雰囲気を醸し出している。マッカーシーは言う。「ニューヨークに来て、有名になりました。でも、ある時点で、一番大事なのは、自由であることだと気づいたのです。都会から離れることは、そこにいた過去の自分と決別することでした」(実際、ニューヨークを思い出させるものは、オークションのカタログから切り取って額に入れた、アンディ・ウォーホルのセルフポートレートの連続写真だけで、2台の窯と一緒に地下に置かれているという)。

画像: 黒板とブラックシーバスの剝製。マッカーシーが船舶用モミ合板で作ったソファベッド、デニムのクッションと布カバー

黒板とブラックシーバスの剝製。マッカーシーが船舶用モミ合板で作ったソファベッド、デニムのクッションと布カバー

 マッカーシーの人生の第三幕への準備が、ここに移り住んだときに整ったのだとしたら、家のほうもそうであったのだろう。元は1899年に、近くのキャッツキル・マウンテン・ハウスで妻と夏を過ごす裕福なニューヨーカー、ライサンダー・ローレンスの寄付で建てられた小学校である。1901年の開校から1977年まで、校舎として使用されていた。マッカーシーが越してきた直後は、前庭に木が植えられるまで「誰でも簡単に出入りできる状態」で、突然現れた見知らぬ人から、母校の教室がどうなったのか見たいから見学させてくれと言われることもあった。

 約855㎡の校舎は、まるでウェス・アンダーソン監督がオーバールックホテル(『シャイニング』(1980年)の舞台となった架空のホテル)を再解釈したかのようなシンメトリーで簡素な構造だ。1990年代にジュエリーデザイナーのスティーヴン・クレッチマーがここを手に入れるまでは、荒れるがままに放置されていた。クレッチマーは、心ない人々に壊されたアーチ形の窓や丸い回転窓を取り替え、新たにレッドオーク材の床を張った。修復した黒板を、ダイニングルームをぐるりと囲む壁や、2階のリビングの壁のアクセントになるよう配した。リビング&ダイニングの共有スペースから、この家の中心でもあるグランドホールへ通じる重厚な木製ドアはそのまま残した。また、コーニス(天井蛇腹)を超えて、8mほどの高さに達する、濃い赤褐色に塗られたカテドラル様式の天井もそのまま残した。

画像: この家の多くの建築的ディテールと同様、オリジナルをそのまま残したオーク材の玄関ドア

この家の多くの建築的ディテールと同様、オリジナルをそのまま残したオーク材の玄関ドア

 マッカーシーが天板と木枠を組み合わせた棚に飾ったのは、「最大のヒット作」と自認するフェイスポットたちだ。鮮やかな黄色にペイントされたもの、鳥のオーナメントや小さなひと型のティーカップを頭に載せたもの、短い4本の脚がついたものなど、さまざまなフェイスポットが並んでいる。ヒモ状にした粘土を巻きつけ、つまみ、ヒダを寄せ、塗料を塗り、釉薬をかけ、化粧泥を施すなど一連の工程を経て完成したものだ。フェイスポットたちの共通点は謎めいた微笑みだ。

画像: 棚に整然と並べて保管されているマッカーシーの作品(2014~2021年)

棚に整然と並べて保管されているマッカーシーの作品(2014~2021年)

 マッカーシーがサンフランシスコ芸術大学の学生だった1980年代に最初に取りあげたモチーフでもある。当時、彼が窯で焼いていたのが、奇妙な顔のついた「ピカソ風スラブポット(板状粘土で作った壺)」だという。2012年の夏、カリフォルニア大学デービス校で陶芸を再開したマッカーシーは、このモチーフに再び向き合った。「陶器に顔か何かをつけなくては」と思ったのだそうだ。「その衝動を抑えようとしました。でも、実際にやってみると、これこそが本当に自分のやりたいことなのだと気づいたのです」

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