長い間、誰からも注目されることがなかったイタリアの海岸沿いの地域。この地で、アヴァンギャルドなキュレーターが、彼の先祖が昔から所有してきた邸宅を、日本人建築家・隈研吾のデザインによって美術館に変身させていく

BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY FRANНOIS HALARD, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 ジョルジオ・パーチェは、スイスのサン・モリッツを拠点とするイタリア人キュレーターだ。彼は、他人から不可能でばかげたことだと却下されてしまいそうな、常識にとらわれないアイデアを考案し、それを実現することで知られている。彼の業績のひとつが、2015年にパリ在住のコンセプチュアル・アーティスト、ピエール・ユイグと自称“アナーキテクト” で建築家のフランソワ・ロッシュとともに実行した『What Could Happen(起こりうること)』と題したパフォーマンスだ。この企画のために、パーチェはスイス鉄道を説得し、1910年製の個人所有の列車に300人の選りすぐりの客を乗せてアルプスにある凍結した湖まで走らせた。乗客の中にはイギリス人建築家のノーマン・フォスターやアートコレクターのマヤ・ホフマン、ファッション・デザイナーのリック・オウエンスらもいた。そのパフォーマンスとは、録音された叫び声が流れるなか、全裸の俳優がブロック状の雪でできたドームの中へ這(は)っていくという趣向だ。また、彼は2011年にサン・モリッツ近郊のチェサ・プランタ美術館で『A Lunatic on Bulbs(球根に首ったけ)』と題した展覧会を開催した。ガーデニングに執心していたエミリー・ディキンソンの詩からアイデアを得て、リクリット・ティラヴァーニャやジョエル・シャピロなど8人のアーティストが、個性的な野外オブジェを創作した。液体ゴムで表面をコーティングした卓球台や、純金のチェーンで天井からつり下げられた、タイヤでできたブランコなどだ。パーチェはキュレーターとして駆け出しの頃にニューヨークのメトロポリタン美術館とグッゲンハイム美術館の両方で働き、ここ10年以上はノマドと題した、開催地が毎回移動するデザイン・フェアを年に2回運営してきた。

画像: キュレーター、ジョルジオ・パーチェのイタリア、テルモリにある家の2階の寝室。19世紀に作られたベッドにはマザーオブパールのこまやかな装飾が施され、塗装されている

キュレーター、ジョルジオ・パーチェのイタリア、テルモリにある家の2階の寝室。19世紀に作られたベッドにはマザーオブパールのこまやかな装飾が施され、塗装されている

 そんな野心満々なパーチェにとっても、イタリアのアドリア海沿岸で19世紀に栄えた漁業コミュニティにおいて先祖から相続した、何軒もの住宅が壁でつながったタウンハウスを、東京を拠点とする建築家の隈研吾に改築してもらい、ギャラリー兼美術館に変身させるという計画は、いささか大風呂敷を広げすぎた感じだ。2023年末には必ず完成させるとパーチェが言うこのプロジェクトは、非常に個人的なものだ。この邸宅があるテルモリという街は、イタリア国内で正式に認可された20の州のうち、二番目に小さいモリーゼ州にある。テルモリの人口は約3万人だ。車でローマから国を横断して約3時間はかかるこの街が彼の先祖の故郷であり、父方と母方の両方の家族たちがともにこの街で何世代にもわたって重要な役割を果たしてきた。テルモリとその周辺には、手つかずの海岸線のほか、頂上に雪が積もった山々や、丘の上に位置する人里離れた村々も存在するが、5ツ星のホテルはひとつもない。イタリアの洗練された趣味人たちの中には、この地域が存在することすら知らない者もいる。また、たとえその存在を知っていたとしても、彼らはこの土地をジョークのネタとして扱っている。現在56歳のパーチェにとってはそれが昔からずっと不愉快だった(コメディアンたちがモリーゼ州をナルニア国になぞらえた「#IlMoliseNonEsiste〈モリーゼは存在しない〉」というハッシュタグすらあるほどだ)。パーチェはそんなジョークを苦々しく思っている。「イタリア国内のあまりにも多くの地域が観光化しすぎている中で、ここは完璧な環境だ。とても魅力的でまだ手垢がつけられていない」と彼は言う。

画像: 書斎に置かれた19世紀の革の肘掛け椅子

書斎に置かれた19世紀の革の肘掛け椅子

 もし彼がこの改装プロジェクトを実行すれば、数年後にはこの街は変わる。その手始めは、1850年にテルモリの主要な歩道の一番高い場所に美しく繊細に建てられ、優美なままに朽ちかけている約743㎡の広さの4階建ての家に、隈が新たな命を吹き込むことだ。この巨大な邸宅は、2018年にパーチェの母方の大叔父アルナルド・シャレッタが亡くなったときにパーチェが相続した。アルナルドは医師で、パーチェの高祖父であるパスクアレ・シャレッタが今から約150年前に開設した市内初の薬局の建物に住んでいたこともあった。「大叔父がこの家を私に遺すことにしたのは、彼のすべての子孫のうち、私こそがこの家を理解し、この家を最大限に活かせると彼にはわかっていたからだと思う」とパーチェは言う。パーチェの両親、エレナとニコラはともに90歳近い年齢で、この家の隣にある、19世紀に建てられた威厳に満ちた邸宅に住んでいる。両親の家には大理石の床の玄関があり、壁には油絵の肖像画が掛けられ、フリンジつきのランプシェードやベルベット製のソファが置かれている。その家から石畳の歩道を数ブロック歩くと、彼の父方の一族が所有する、現在ではアパートメントに改装されたビルがある。この建物の中にはパーチェがすでに改築した、訪れたアーティスト用の2ベッドルームの住居がある。その住居に接した広いテラスの外には近くの港の風景が広がり、岸に浮かぶ漁船とトラブッキと呼ばれる、海中に木の杭を打って建てられたアドリア海伝統の高床式漁師小屋が見える。キキ・スミスの絵画やロニ・ホーンの写真、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエのスツールなどの装飾品は、パーチェが数年前にスイスへ引っ越す前にパリとロンドンに所有していたフラットから持ってきたものだ。

画像: 19世紀の家具と1940年代のバロヴィエール製のシャンデリアがあるリビングルーム

19世紀の家具と1940年代のバロヴィエール製のシャンデリアがあるリビングルーム

画像: 1階のダイニングルームのひとつには、1910年のリバティ製のシャンデリアがあり、その下には19世紀のゲブルダー・トーネット製のオリジナルの椅子が並べられている

1階のダイニングルームのひとつには、1910年のリバティ製のシャンデリアがあり、その下には19世紀のゲブルダー・トーネット製のオリジナルの椅子が並べられている

 パーチェには、大叔父から譲り受けた家を、あらゆる好奇心を詰め込んだ両開きのキャビネットのような場所に改装したい、かつ、現代的なひねりも欲しい、というビジョンがあった。そして、その思いを共有できる世界的な建築家を招聘(しょうへい)することが必要だとわかっていた。そして、昨年、友人の紹介でパーチェは隈と知り合った。隈は、東京の表参道にある、LVMHグループメゾンが店舗・オフィスを構えるビルの設計を手がけた建築家だ。67歳の隈はパーチェが相続したこの家が、アート巡礼者にとって欠かせない場所になる可能性があることをいち早く見抜いた。パーチェは隈の力を借りてこの家の歴史が詰まった構造に磨きをかけ、さらに斬新な最上階を増築したいと願っている(隈は1月後半に現地を訪れて最終的な計画を詰める予定だったが、新型コロナウイルスの影響でその予定は延期になった)。「ジョルジオと私は、この地方の街に文化を通して新しい命を吹き込みたいという同じロマンティックなビジョンを共有している。この土地のアイデンティティとものづくりの伝統を継承しながら」と隈は言う。

画像: パーチェの曾祖父の寝室には19世紀の手彫りのベッドと1920年代のバロヴィエール製のランプが配置されている

パーチェの曾祖父の寝室には19世紀の手彫りのベッドと1920年代のバロヴィエール製のランプが配置されている

画像: 1階のダイニングルームに飾られた版画と1920年代の帽子・洋服用の棚

1階のダイニングルームに飾られた版画と1920年代の帽子・洋服用の棚

画像: 2階のリビングルーム天井に施されたオリジナルのフレスコ画の装飾と、1940年のバロヴィエール製のシャンデリア

2階のリビングルーム天井に施されたオリジナルのフレスコ画の装飾と、1940年のバロヴィエール製のシャンデリア

 パーチェは、最終的には、高い天井のある大きな寝室15部屋をアーティストや建築家やシェフなどの二人一組のクリエイターたちに提供するつもりだ。彼らは協業して作品を作り、それらは最低でも18カ月の間展示される予定だ(アルバニア生まれでミラノを拠点とするパフォーマンス・ビデオ・アーティストのエイドリアン・パーチはすでに彼の作品の構想を練り始めている。音楽を使って、広い空間にその音が反響するような作品になる予定だ)。部屋は現在はほとんど空っぽだが、過去何十年にもわたって家族がつどった場所のぬくもりが伝わってくる。建てられたときのオリジナルの壁紙がほとんどそのまま残されており、哀しいほど変色して剝(は)がれている。床のタイルや人工大理石も同様だ。ムラーノ島で作られた複雑なデザインのシャンデリアが漆喰(しっくい)の天井からぶら下がっている。そして、その天井には蔦(つた)が絡まる様子が小さな風景とともにフレスコ画として描かれてもいる。部屋と部屋の間にはマホガニーのアーキトレーブ(軒部分の帯状の装飾)が連なり、その下にはひとかたまりの鉄でできた蝶番(ちょうつが)いが重いドアの開け閉めを容易にするために取り付けられている。また、この建物の歴史を証明するように、若干の家具が残されている。繊細で複雑な彫刻が施された1860年代のウォルナット製のベッド。1920年代の柱時計。大きな丸テーブルとそれを囲むように置かれたゲブルダー・トーネットのダイニングチェアの数々はともに1800年代後半のものだ。パーチェがこの家を掃除していると、クローゼットの中に、曾祖父の刺繡入りの室内履きがあるのを見つけた。

画像: 現在は2階の寝室のひとつに置かれている19世紀の机

現在は2階の寝室のひとつに置かれている19世紀の机

画像: 19世紀のソファ

19世紀のソファ

画像: 1920年代の手塗りの壁紙に19世紀の鏡台と鏡

1920年代の手塗りの壁紙に19世紀の鏡台と鏡

 最近のある寒い午後には、パーチェはテルモリの狭い路地を自分の歩きたい速度で往来することはできなかった。道のあらゆる角で遠縁のいとこたちが彼を呼び止めてしゃべりたがったからだ。彼らは地元のレストランのオーナーだったり、自分の事務所に行く途中の会計士だったり、近所に用事をすませに出かけた専業主婦だったりする。「ここにはたぶん自分のいとこが50人から60人ぐらい住んでいる」とパーチェは言う。また、彼らのほとんどが、パーチェがどうやって生計を立てているのか理解できないのだという。いとこたちは、彼が友人たちと単にヨーロッパを飛び回っているだけだと考えている。また、いとこたちの中には、1軒のホテルすらないこの街で、先祖代々の歴史ある邸宅を美術館に改装してしまうことに怒りを感じている者もいるかもしれない。ちなみに、この街にはこぢんまりとした宿屋がひとつあるだけだ。もちろんその宿は彼のいとこのひとりが所有している。だが、そんな状況もすべて変わるとパーチェは主張する。2~3年後にはテルモリが常にそうなる運命であったように、街は文化地区に変貌し、彼の美術館の周囲には世界各国からの来訪者にふさわしいラグジュアリーな新しいホテルが建ち並ぶようになると彼は信じている。そしてそんな客たちはスペインのビルバオやテキサスのマーファなどのアートシーンの中心地を何度も訪れている人々なのだ。パーチェが新しい美術館に招く客のリストの中には、この地域は存在しないというジョークをかつて拡散した人々も含まれている。彼は昔、彼の先祖たちが雲や天国が描かれたフレスコ画のある天井の下に立っていたように、恭(うやうや)しく客間に立ち、どの客も歓迎して家の中に迎え入れるつもりだ。

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