映画や演劇やテレビ、そしてビジュアル・アートやソーシャルメディアの分野で、より多くのろう者(聴覚障害者)のクリエイターたちが「アメリカン・サイン・ランゲージ」を使い、手話を表現文化に組み込んでいる。彼らはそうすることで、長い間ずっと沈黙させられてきたコミュニケーションの手法を人々に伝えているのだ

BY JAKE NEVINS, ARTWORK BY CHRISTINE SUN KIM, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 こうした不信感を理解するには、祝福と抑圧という激しい転換を経てきた手話の歴史を学ぶ必要がある。手話はフランスからアメリカに伝わった。18世紀半ばに宗教指導家のシャルル・ミシェル・ド・レペー神父の庇護の下で、フランスのろう者たちの教育の第一歩が踏み出された。それまで手話は、地域の土着の手話とフランス語の文法が融合したような形で非公式に存在していた。ド・レペーは二人のろう者の少女たちと出会い、彼女たちがコミュニケーションするのを見た。当時、彼女たちは、教育するには価しない存在だと思われていたが、実際、二人は賢い生徒だった。そこでド・レペーは彼女たちが使っていた手話とジェスチャーに、洗練された構造を与え始める。

彼が考案した手法は1760年に正式に完成し、同年、ろう者のための初の無料のろう学校が設立された。それがのちのパリ国立ろう学校だ。「ド・レペー神父は手話の発明者や創造者ではない」と書いたのはろう者のピエール・デロージュで、1779年出版の彼の著書は、ろう者についに人権が与えられたその記念すべき活力あふれる時代の空気を反映している。「事実は逆で、ド・レペー神父はろう者から手話を学んだのだ。彼は不具合を見つけ、それを修正したに過ぎない」

 ド・レペーが1789年に死去したのち、彼の弟子で、シカール神父として知られる文法学者のロシャンブロワーズ・キュキュロン・シカールが学校を引き継いだ。のちの1989年に発行された影響力のある書籍『手話の世界へ』で筆者のオリバー・サックスが「ろう者の歴史上の黄金時代」と呼んだ時代の導入部分を牽引したのが、シカールだ。当時、手話はろう者にとって最も「自然な」言語だと認識されており、パントマイムの単なる子どもっぽい一形態などではなかった。その後、シカールは、アメリカ人教育者のトーマス・ギャローデットと出会う。ギャローデットは1817年にコネチカット州のハートフォードで、のちのアメリカろう学校の前身となる学校の設立に尽力した。その学校では、フランスの手話とアメリカ独自の手話のやり方を融合させた。当時、マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニヤードの西側の端に位置するチルマークや、ニューハンプシャー州のへニカー、そしてメイン州のサンディ・リバー・バレーなどには多数のろう者が住んでおり、彼らがそれぞれ違う独自のサインを使っていたが、それらがひとつに統合された結果、アメリカン・サイン・ランゲージが生まれたのだ。

画像: キムの作品《翻訳すること、通訳すること》(2021年) 「これら2枚の絵は、いかにコミュニケーションの手法が常に競争状態にあるかを描いたもの。手話通訳者と一緒に仕事をすると、大抵は私が言うことを通訳してくれるだけだけど、もしその人が私のことをよく知っていたら、だんだんと翻訳レベルにまで達する。そのほうがより正確だから。私のアートのやり方は、楽譜を書くことと、言葉を書き残すことの境目を曖昧にするような作品を描くこと」 CHRISTINE SUN KIM, “TRANSLATING INTERPRETING,” 2021, CHARCOAL ON PAPER. PHOTO BY STEFAN KORTE

キムの作品《翻訳すること、通訳すること》(2021年)

「これら2枚の絵は、いかにコミュニケーションの手法が常に競争状態にあるかを描いたもの。手話通訳者と一緒に仕事をすると、大抵は私が言うことを通訳してくれるだけだけど、もしその人が私のことをよく知っていたら、だんだんと翻訳レベルにまで達する。そのほうがより正確だから。私のアートのやり方は、楽譜を書くことと、言葉を書き残すことの境目を曖昧にするような作品を描くこと」
CHRISTINE SUN KIM, “TRANSLATING INTERPRETING,” 2021, CHARCOAL ON PAPER. PHOTO BY STEFAN KORTE

 1864年に米国議会が連邦政府の資金を使い、ろう者専門の大学、つまりのちのギャローデット大学となる機関を設立することを認めた。だが、当時、口話法の提唱者として有名だったアレクサンダー・グラハム・ベルらが、教育改革者ホーレス・マンたちの伝統を継承し、ろう者は口の動きから言葉を読み取る読話と口話を習得すべきだと主張した。ベル本人は彼が電話を発明する以前に、ろう者と苦渋を伴う縁があった。彼の母と妻の両方がろう者だったのだ。ベルは障害は完全に取り除かなければならないと考えており、1883年に、米国科学アカデミーのスピーチで、ろう者同士の婚姻には反対だと表明したほどだった。

 ベルが手話教育の発達を阻み、ろう者の文化を軽視したことについて、キムは彼をろう者コミュニティ史上、最大の禍だと考えている。その忸怩(じくじ)たる思いを形にしたのが、セントルイスにあるワシントン大学のために彼女が造った壁画だ。今年の2月に彼女が公開した高さ25フィート(約8メートル)のこの作品は、特にろう者を悩ませてきた三つの要因を表現している。タイトルは《Stacking Traumas(トラウマの積み重ね)》。巨大な音符がそれぞれ重なり合うように描かれ、全体で一連の惨めなやりきれない気持ちを表現している。三つのうちの最初が「ディナーテーブル症候群」もしくは健聴者に囲まれた場所でひとり浮いてしまう気まずさ。

二つ目は「健聴者が感じる不安」で、ろう者と健聴者の間にある分断を行き来する際に生まれるストレスを意味している。そして梯子のてっぺんのような高い位置に鎮座しているのが「アレクサンダー・グラハム・ベル」だ。彼の名前がほかの二つよりもはるかに高い位置にそびえており、克服すべきハードルとして存在している。

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