“カレン”といえば、米国で1960年代に人気を博した名前だ。それが今、口やかましく好戦的、危険ですらある白人女性の代名詞に。米国社会が抱える人種差別と女性蔑視の問題において、“カレン”の変貌を通じて見えてくるものと、逆に曖昧にされてしまうものはなにか?

BY LIGAYA MISHAN, ARTWORK BY CARMEN WINANT, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA

“カレン”は決して特異な存在ではない。かつては“アン女史(Miss Ann。時にMiss Anneとも表記される)”と呼ばれた人たちがいた。19世紀に南部の黒人のあいだで使われていた、この地方特有の表現で、大農園の女主人や女ボス――いわば今日のガールボス(若い女性管理職)の原型――を指すため、否応なしに敬称がつけられていた。“アン女史” は、白人男性の“チャーリー氏(Mr. Charlie)”に従属しながらも、農園のヒエラルキーにおいては黒人の人々よりも上位にあったので、その地位を最大限に利用した。尊大な態度から一転、上品ぶってみたり、高圧的な言動が鳴りを潜めて無能ぶりを露呈させたりと、“アン女史”の振る舞いは時と場合によってコロコロと変化した。そして、この呼び名は長く生き続けた。

作家のゾラ・ニール・ハーストンは、短編小説『Story in Harlem Slang』(1942年)に添えた用語集の中に“アン女史”を含めている。回顧録を遺した公民権運動家のマヤ・アンジェロウは、1969年に発表した詩『Sepia Fashion Show』に“アン女史”という表現を用いた。「彼女たちに言ってあげなくちゃ。アン女史の家の掃除でそんなふうになった自分の膝小僧を、よく見てごらんなさいって」(訳注:「彼女たち」は、上流社会の女性のファッションや化粧に憧れてまねをしたがる若い黒人女性を指す)。“アン女史”が登場した最近の例は、2016年だ。大統領選挙の行方を占うCNNの出口調査で、白人女性の40パーセント以上がドナルド・トランプに投票したことが示されると、ジャーナリストのエイミー・アレクサンダーは『The Root』に寄稿した文の中で、この結果を“アン女史効果”と説明した。

 だが、米文学者のカーラ・カプランは著書『Miss Anne in Harlem』(2013年)において、次のように指摘している。1920年代にハーレム・ルネサンス(訳注:アフリカ系アメリカ人による文化運動および芸術の発展)を迎える頃になると、なにを企んでいるかわからないような白人女性を指して“アン女史”と呼ぶようになった。彼女たちは、そんなことをするとほかの白人たちから「モラルの欠如」「正気の沙汰ではない」と非難されるような時代に、あえて自分から黒人サークルに足を踏み入れた。活動家もいれば、単にスリルを味わいたいとか世間を騒がせたいだけという人もいて、彼女たちの目的は「お粗末なものから立派なものまで」実にさまざまであったと、カプランは記している。一方で、彼女たちを迎えた当時の黒人コミュニティは、警戒心を解かなかった。

画像1: ワイナントの作品《White Women Look Away》(2021) CARMEN WINANT, “WHITE WOMEN LOOK AWAY,” 2021, FOUND IMAGES ON PAPER, COURTESY OF THE ARTIST AND FORTNIGHT INSTITUTE

ワイナントの作品《White Women Look Away》(2021)
CARMEN WINANT, “WHITE WOMEN LOOK AWAY,” 2021, FOUND IMAGES ON PAPER, COURTESY OF THE ARTIST AND FORTNIGHT INSTITUTE

 同じように、今日の“カレン”にもいろんなタイプがいる。露骨な偏見をもっているとは限らないし、自分は偏見などとは無縁だと思い込んでいる人もいる。黒人のボーイフレンドに身分証明書の提示を求めた警官を平気でなじる「“リベラルな白人”ガールフレンド」もいる。自分は白人だから暴力をふるわれたりしないと安心しているからこそ、強気な態度に出るのだ。この女性には、実はもうひとつの顔がある。黒人の人々を自己実現のための手段としか考えない、白人のサイコパスである。ジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』(2017年)(訳注:白人のガールフレンドの両親を訪ねた黒人青年が体験する恐怖を描いた映画)のように。あるいは、民主・共和のどちらにもなびくタイプもいる。あるときは、保守的なテレビ番組司会者のメーガン・ケリーのような女性になり、またあるときは、民主党の急進左派エリザベス・ウォーレン上院議員のような一面も見せる。ケリーは2018年、ハロウィンの仮装で顔を黒く塗っても「問題なし」だった時代を懐かしむコメントを発した。1980年代から90年代にかけて大学で法学部の教授を務めたウォーレンは、6世代以上も前の遠い祖先について家族のあいだで語り継がれてきた話を唯一の根拠として、自分のアイデンティティはアメリカ先住民だと主張した(それにより、マイノリティのステータスを与えられた)。

“カレン”をより広く定義するならば、肌の色のおかげで自分が得をするのは当然としか思わず、一方でほかの人々の苦労や痛みには無頓着に見える白人女性は、すべて“カレン”になるだろう。今年の初め、自己啓発本の人気著者であるレイチェル・ホリスは、自身が雇っている家政婦を“トイレ掃除をする人”と形容したことで、一般人とはかけ離れていると批判された。ホリスはこれに対して、「たいていの人はここまで頑張らないのに、私は懸命に努力したから家政婦を雇えるようになった」と自己弁護に走った。なおかつ、ハリエット・タブマン(1820頃~1913年)やマララ・ユスフザイのような、“一般人とはかけ離れた”女性たちを引き合いに出し、暗に自分と重ね合わせたのである。タブマンは奴隷解放運動家として活躍した人物で、自身が奴隷生活から逃れたのち、ほかの人たちの逃亡を手助けすることを自らの使命とした。パキスタン出身の活動家でノーベル平和賞受賞者(2014年)のユスフザイは、女性の教育機会を制限するタリバンに異を唱えたことで、頭部に銃弾を受けた。自ら道を切り拓いた偉大な啓蒙者たちと自分に共通点があると思い込んであっけらかんとしている様子は見るのも不愉快であったが、まさしく彼女たちを“カレン”たらしめている誇大妄想が露呈した瞬間だった。

 2019年に公開された映画『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、男女平等・同権を唱えるふたりの若い女性が主人公だが、彼女たちでさえ見ようによっては“カレン”である。勉強ばかりしていた女の子たちが、なんとかして一晩だけ羽目をはずそうとしてドタバタ劇を繰り広げるのだが、彼女たちは古いしきたりを打破したお手本として、公民権運動家のローザ・パークス(訳注:彼女が公営バスで白人に席を譲るのを拒んで逮捕されたことをきっかけに、アラバマ州モンゴメリーでの公民権運動が高まった)を引き合いに出している。ただし、彼女たちの“しきたりを破る”というのは単に飲酒と乱痴気パーティを体験するという意味でしかなく、しかもひとりは逮捕された翌朝に、警官と冗談を言い合っていたりする。

リース・ウィザースプーンが演じたほぼすべての役柄にも、“カレン”の亡霊がちらちらと見え隠れする。たとえば、『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』(1999年)で演じた上昇志向の塊のようなトレーシー・フリックや、テレビドラマシリーズの『ビッグ・リトル・ライズ』(2017~’19年)や『リトル・ファイアー~彼女たちの秘密』(2020年)で演じた、傲慢で自己陶酔型の母親など。ドル箱スターであるウィザースプーンの魅力のひとつは、こうした人物像に陰影を与え、観るものに感情移入させる演技力であることは間違いない。視聴者の大半は、主人公と同じような恵まれた白人女性であり、ウィザースプーンが演じる人物を通して、自分たちの暗部を認識し、それを咎め、最終的にはそれを許容する。

“カレン”と名指しされるよりもさらにつらいのは、カーティス・シッテンフェルドの短編小説『White Women LOL』(2019年)が描くように、まさに自分が“カレン”なのだと気づいてしまうことである。主人公の白人女性ジルは、友人の誕生日パーティが行われていたレストランの中で、洗練された着こなしの見慣れない黒人男女のグループに目をとめ、あたりさわりのない言い方で(少なくとも本人はそうしたつもりだった)彼らに退出を促す。ところが後日、その動画がフェイスブックに投稿され、ジルの行いが衆目に晒さらされてしまう。だが、誰もジルに救いの手を差し伸べない。白人の夫は、妻はなぜ店の責任者に知らせなかったのか(これも「“カレン”的行動」なのだが)と不思議がり、パーティの主役だった白人女性は、招待しなかった人たちにパーティのことが知られてしまったことに、気分を害している。ジルは友人たちに見放され、職場では出勤停止になり(「処分といっても、給料をもらえるじゃないか」と夫に指摘される)、自分は被害者であるという意識をもっている。その一方で、自分があまりにも短絡的に黒人の男女を招かれざる客とみなしてしまったことに対して、罪悪感を覚えるのだ。

 ジルは贖罪として、子ども同士が同じ学校に通う裕福な黒人女性のために、行方不明になった彼女のシーズー犬をひとりで捜すことに没頭する(ほかの一般的な黒人家庭は、ジルたちが住む地区からは遠く離れたところに住んでいる)。パーティの主役だった友人は、「白人至上主義は、無神経の延長線上にあるものよ」とジルに冷ややかに告げるが、彼女自身もかつてはバスで通ってくる黒人の生徒たちを「deseg kids」(desegはdesegregationの略)と呼んでいた(訳注:desegregationは人種隔離政策の廃止を意味する)。そして物語の終盤、ジルはシーズー犬を見つけると身をかがめ、ウソ泣きを始める。効果が実証されている、典型的な白人のヒロイン像「囚われの姫」を演じてみることにしたのだ。怪我をしたふりをしながら思いきって近づいたら、犬はそれを真に受け、あわよくばケージに入ってくれるのではないかと期待して(訳注:ジルは友人から、「ペット捜しの専門家が言うには、迷い犬は怯えているので名前を呼ぶと逆効果。怪我をしたふりをしながらウソ泣きをして苦しそうな声を出せば犬が助けに来てくれるらしい」と聞かされていた)。そうやってジルは、犬が自分を助けようとしてくれるのか、それとも自力で頑張らなければいけないのかを、見極めようとする。

“カレン”の攻撃性は、あからさまに人種差別に向けられるとは限らない。ただ漠然とイライラを募らせているだけということもある。たとえば、新型コロナウィルスが猛威をふるっていたさなか、ニューヨークのとあるベーグルショップでは、ほかの客からマスクの着用を促された白人女性が、腹いせにその客の顔に咳を吹きかけた。ダラス・フォートワース空港では今春、搭乗時刻に遅れて飛行機に乗れなかった白人女性が、責任者を呼べと訴え続けた(その後、酒に酔って公衆に迷惑をかけたという罪で逮捕された)。“カレン”は、人種差別主義者を指すようになる以前は、単に好戦的ないしは面倒くさい人という意味合いでのみ使われていた。2005年、白人コメディアンのデイン・クックが「どんな仲よしグループにも必ずひとりはいる、実は皆から嫌われている人」にカレンという名をあてはめ、「“カレン”はゲスな女」と言ったのが、この名前が侮辱的に使われるようになった初期の例である。それから10年後、掲示板型サイト「Reddit(レディット)」に書き込みをしていた男性が元妻である白人女性を“カレン”と称し、彼女の残酷さについて面白おかしく延々と綴っていたところ(このアカウントはすでに削除されている)、彼の投稿にインスパイアされた人々によって、似たようなタイプの意地悪な女性の話に特化したスレッドが2017年に立ち上がった。

 侮辱的な表現である“カレン”は、人種差別に対する世間の反発から生まれたわけではなく、このように白人男性が白人女性に対して敵意をむき出しにしたことが始まりだった。そのため、これを女性蔑視だと非難する白人女性が現れた。今年の初め、ふたりの映画学者(アイルランド在住のダイアン・ネグラとノルウェー在住のジュリア・レイダ)が共著による論文を発表し、“カレン”について「中間層に広がる新たな生活不安が風刺的に表出したもの」という見解を述べた。なんとしても自分の言い分を通そうとする彼女たちの言動は、「最近の小売業界の風潮として、顧客応対の人員をカットし、彼女たちが頼れるサービスをなくしてしまった」ことへの抗議の表れとして理解できると説いた。だが、買い物をするのは白人女性だけではないし、近年の資本主義は誰にとっても――消費者にとっても、売り場で働く人にとっても――まともに機能していない。「多様化が進む米国社会において、白人男性は自分の存在が無視され脅かされていると感じたから、ドナルド・トランプに票を投じた。つまり、彼らにはもはや支配的立場が保証されていないということだ」という、よく繰り返されるありきたりのコメントと、この論文の主張は、たいして変わらない(エッセイストのメーガン・ダウムは昨年、「白人女性は、白人男性の生まれ変わりだ」と言い切った)。

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