“カレン”といえば、米国で1960年代に人気を博した名前だ。それが今、口やかましく好戦的、危険ですらある白人女性の代名詞に。米国社会が抱える人種差別と女性蔑視の問題において、“カレン”の変貌を通じて見えてくるものと、逆に曖昧にされてしまうものはなにか?

BY LIGAYA MISHAN, ARTWORK BY CARMEN WINANT, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA

 もちろん白人女性だって、これまでも不当な扱いを受けてきたし、それは今も続いている。時には、見た目には華やかだが自由のない生活を送っているようなタイプの、ある特定の階層に属する女性たちも、抑圧を受ける立場になる。法学者のキャサリン・マッキノンは、1991年に発表した論文「From Practice to Theory, or What Is a White Woman Anyway(訳注:実践から理論へ そもそも白人女性とは何かを考える)」の中で、白人女性は白人男性が勝手につくりあげたイメージにすぎないという世間の考えに対して、怒りを露あらわにした。「なよなよしていて、甘やかされていて、恵まれていて、守られていて、気まぐれで、自分がやりたいことだけをする」、かつ「お金に困っていない、暴力をふるわれたことがない、性暴力を受けたことは(あまり)ない、少女時代に性的ないたずらをされた経験はない、10代で妊娠したことはない、売春したことはない、強制的にアダルトビデオに出演させられたことはない、生活保護を受けるシングルマザーではない、経済的に搾取されていない」。白人女性は、このようなイメージをもたれているのだという。『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』の描写には、注目すべき点がある。主人公である嫌われ者の女子高生トレーシー・フリックは、信頼を寄せていた白人の男性教師に騙されて性的関係をもたされてしまう、れっきとした被害者だ。教師はこの罪によって失墜する。だが、あたかも彼女が教師の人生を台なしにしたかのように描かれている感じが、そこはかとなく伝わってくるのだ。

 被抑圧者が、抑圧する側になってしまうこともある。しかも、白人女性が自らの被害者意識を擁護することによって、非白人女性の立場を危うくしかねない。マイノリティの女性はこれまで、白人女性と同様の「傷つきやすさ」をまとうことを認められてこなかったのだから。たとえば、白人女性シンガーソングライターのラナ・デル・レイは、「私は、女性の傷つきやすさを代弁している」と開き直った(訳注:デル・レイは、大成功を収めた非白人女性シンガーたちの実名を挙げ、「彼女たちは性的アピールを売りにして成功した」などと発言し、批判を浴びた。さらに、弁明として投稿した動画の中で、「フェミニズムには、傷つきやすい女性に対する配慮も必要だ」と発言して炎上を招き、人種差別をめぐる論争に発展した。デル・レイの楽曲には男性の言いなりになる女性がモチーフのものもあり、これまでも「ドメスティックバイオレンス(DV)を美化している」などの批判を受けることがあった)。挑発的な言動でたびたび物議を醸すデル・レイについては、白人女性に対して人々が抱く「守ってあげたい、繊細な花のような存在」という、よくある人種的偏見とは、そもそもかみ合っていないのだが――。

次々と拡散された動画に登場する“カレン”たちはおしなべて、自分は女性であるがゆえに不当な扱いを受けたと主張する。ダラス・フォートワース空港で警察が駆けつける騒ぎを起こした“カレン”は、「私は女性よ! ドレスを着ているじゃない!」とわめきちらし、黒人男性たちがオークランドの公園でバーベキューをしていると通報した“カレン”は、警官が到着すると「嫌がらせを受けた」と言って泣きじゃくった。ニューヨークのセントラルパークで黒人のバードウォッチャーを不適切に緊急通報した“カレン”は、「アフリカ系アメリカ人の男性がいて……、彼に……脅されているんです」と言った。男性は、犬に首輪をつけて散歩させてくださいと、この女性に頼んだだけなのに。

 こうした不満の表し方は戦略的なものであると、ジャーナリストのルビー・ハマドは著書『White Tears/Brown Scars』(2020年)で指摘している。「弱さを見せるのではなく、支配力をちらつかせているのだ」。支配力といっても、それはあくまでも白人男性を通じて、このような状況においてのみ得られるものである。歴史を振り返っても、黒人の人々を脅威の対象にしてしまえば白人女性は間違いなく白人男性の注意を引くことができたし、それは彼女たちの人生において自分が主役になれる瞬間だったのかもしれない。他人の恐怖心を煽あおることによって、確かに彼女たちは白人男性を味方につけることができるのだが、「自分の用心棒を得た」ということとは、実際はかなり様子が異なる。白人男性は、大切な人を守るために、彼女のもとに駆けつけるわけではないのだ。白人としての自身の美徳を体現するために、白人女性の味方につくのである。つまり、“支配力”とは抑圧するために使う力のことであり、そういう力に訴える白人女性もまた、自らが抑圧の対象に含まれてしまうという社会の力学が、改めて認識されただけのことである。

画像2: ワイナントの作品《White Women Look Away》(2021) CARMEN WINANT, “WHITE WOMEN LOOK AWAY,” 2021, FOUND IMAGES ON PAPER, COURTESY OF THE ARTIST AND FORTNIGHT INSTITUTE

ワイナントの作品《White Women Look Away》(2021)
CARMEN WINANT, “WHITE WOMEN LOOK AWAY,” 2021, FOUND IMAGES ON PAPER, COURTESY OF THE ARTIST AND FORTNIGHT INSTITUTE

 誰かが自分の代わりに行使してくれる“白人の支配力”にしがみつく――かつて自分を黙らせるために使われたものと同じ力を、今は自分ももっていると主張しようとする――、まさにこのことが、“カレン”の全体像を的確に言い表しているのかもしれない。19世紀から20世紀初頭にかけて盛んになったフェミニズム(女性解放運動)では、白人女性は自分たちの参政権を獲得しやすくするために、南部の白人至上主義の男性と手を組み、黒人女性を排除した。今日においても、白人のフェミニズムという文脈で使用される言語は、いまだに「リーン・イン(キャリアを高めてリーダーを目指そう)」を信条とする“ガールボス”に偏っていて、まるで職場で男性と肩を並べることだけが平等・同権の実現であると言わんばかりだ。「たくましく生きることよりも、特権を増やすことにばかり気をとられすぎている」。評論家のミッキ・ケンドールは、2020年の著書『Hood Feminism』(訳注:日本語版はDU BOOKS刊『二重に差別される女たち――ないことにされているブラック・ウーマンのフェミニズム』)にそう記している。

 1970年代、「個人の問題は政治の問題である」という概念が受け入れられるようになった。女性が直面する問題を個人レベルで解決させてはならず、DVや子育てのような、まさしく「個人の問題」に、公的な支援が必要であるという考えだ。第二波フェミニズムで勝ち取ったもののひとつがこの概念であるとするならば、現代においては、その逆の概念が幅をきかせている。「政治の問題が個人の問題に集約されてしまった」とハマドは指摘する。この点について、ジャーナリストのコア・ベックは、今年の初めに上梓した『White Feminism』の中で丁寧に解説している。「あまりにも『私』を前面に出しすぎると、社会の仕組みや制度が生んだ障壁について議論しているときに、論点が『集団全体が不利益を被るものかどうか』ではなく、『個人の問題』にすり替わる。そのような議論の枠組みにおいては、フェミニズムは『なにかを手に入れるための手段』に成り下がってしまうのだ。すなわち、それは自分が手にして当然だと感じたものをより多く勝ち取る手段であり、消費するための手段である」。そうなるとここでまた、ネグラとレイダの論文に戻ることになるわけだ。“カレン”というのは、「破綻した顧客サービス」という名の荒野で、商品の払い戻しを求めて遠吠えする女性なのだ、と。

 結局のところ、“カレン”と通ずるのは恐るべきヘカテではない。ヘカテは冥界との関連で語られることが多い女神だが、古代ギリシャの詩人ヘシオドスは紀元前8世紀、彼女を慈善心に富んだ女神として描いた(訳注:ヘシオドスが記した『神統記』によると、ヘカテはゼウスから特別に崇められ、さまざまな特権を与えられたため、絶大な力をもち、不死の神々の尊敬を集めた。彼女を崇める人間は富やさまざまな恩恵を与えられた)。むしろ、より共通点が多いのは、中世の魔女狩りで火あぶりの刑を受けた女性たちだ。実際に犯した過ちがなんであれ、“カレン”はスケープゴートなのである。問題を全体的に消滅させるよりも、ぽつりぽつりと出没するはみ出し者の“カレン”を消すほうが、ずっと簡単だ。前出のヤングは『The Root』への寄稿文の中で、この呼び名の使用停止を呼びかけた。「白人男性のほうがよほどひどいことをしているのに、カレンが現代における白人至上主義の象徴になっているのはおかしなことだし、間違っている」。

だが、この議論は堂々巡りに陥ってしまう要素もはらんでいる。白人女性が自らを検閲・叱責するようになるからだ。そして当然の成り行きともいうべきか、白人女性が積極的に働きかけて自らを批判の的にしてしまうがゆえに、“カレン”という概念もまた消費主義に飲み込まれ、次々と商品化されている。小さいながらもひとつの書籍ジャンルが生まれ、ワークショップが開催され、各種コンサルティングサービスが登場し、参加費が何千ドルもする会員制ディナーが催されるようになった。対象はすべて白人女性で、“支配力を握る集団”との共犯関係に正面から向き合う手助けをするのが目的だ。罪悪感が金儲けのネタになっているのだ。

 もし、社会的に恵まれた女性の誰もが“カレン”になる可能性を秘めているのだとしたら(ここには筆者も含まれる。私は白人とフィリピン人の両親のもとに生まれ、それなりの教育を受け、それなりの階層に属し、自身に内在する“カレン”的な要素にたえず意識を向けている)、そのことを前向きに活かすこともできるはずだ。ただ単に憂いてみたり漠然と申し訳ない気分を味わったりするのではなく、どうしたらもっと社会を前に進めることができるのか、自分自身に問いかければよいのだ。法学者で活動家のマリ・J・マツダは、自身のエッセイをまとめた『Where Is Your Body?』(1997年)の中で、次のように述べている。「私たちは、あえて被抑圧者の視点に立って世界を見渡すという選択もできる。ある女性は今、生活保護受給者の宿泊施設で、水をくんだバケツを両手に持って5階まで階段を上がっている。別の女性は、DV被害者の保護施設で震えながら朝の3時を迎えている。ケープタウン、ヨルダン川西岸地区、ニカラグアには、血まみれの子どもたちを抱きかかえる女性たちがいる。同胞である彼女たちのことを、私たちは知っておかなければならない」。自分も同じような苦悩を抱えていると主張したり、同列に扱ってはいけない苦悩を引き合いに出したり、すべての女性が同じ苦しみを味わっているかのように偽ることと、「知っておくこと」は明らかに異なる。「知っておく」というのは、個人的な経験から得るものには限界があることを認め、他者から学ぼうとする姿勢なのだから。

 おそらく、“カレン”は役に立つ存在だ。狭間に生まれてきた者として、よりよい世界につながる道を見つける一助になるかもしれない。「私たちは自分の意志によって、他人の生きざまを知ることができる」とマツダは説く。そしてそれは、「あなたは誰? お名前は?」という、実にシンプルな問いかけから始まるのだ。

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