BY MOMO MITSUNO
もう30年も前のことになるだろうか。母のことを思い出すとき、決まってこのささやかな事件も思い出す。その頃の母の年齢に近づいたいまはなおさらだ。もう30年も前のことになるとは、時間の感覚がくるっているとしか思えない。しかし、時計は正常に動いている。
2月の終わりのある日、母の誕生日に、小さな食事会をすることになった。まだ元気だった義父と義母、我が家の家族、そしてこの日の主役は私の母である。
食事が終わると、ごく自然にプレゼントの贈呈がはじまった。母は物について、なかなか難しい趣味を持っていた。オリジナリティや品性の有無を大事にしていて、そこは私と似ていたかもしれない。
皆が贈り物を渡し終わって、最後に、義母がリボンできれいに包装されたプレゼントを渡した。それがなにかは、誰が見ても一目瞭然だった。杖である。
一瞬にして母の顔が曇った。「杖なんて!」
吐き捨てるように言い、部屋を出て行ってしまった。みんなぽかんとしている。気まずい空気が流れた。あんなに怒った母を見たことがなかった。あんなに自分のための感情をむき出しにしたことも。
母は我が一族の中心的存在で、静かで目立たないが、いざという時になると、目の醒めるような思考力を発揮し、家族の皆を助けてくれた。いつも冷静、泰然自若としていた。それがどうしたことだろう。杖一本でこの取り乱しようとは。
わたしはそっと母の部屋をノックした。
――ごめんね、おかあさん。でも、お母さんの気持ちが分かるのは私だけかもしれないよーー。
母は趣味で社交ダンスを習っていた。先生とふたりだけでレッスンするマンツーマンコースは、月のレッスン料の高さもさることながら、私が出せるぎりぎりの金額だった。それでも無理をして母のレッスン料を払い続けたのは「命ある限りダンサーとして生きる」、と言う60代の母の最大の夢を叶えたかったからである。
「できることなら踊りながら舞台で死にたい」と語るとき、母の目は熱を帯びて輝き、その言葉が冗談でも嘘でもない、本気でそう思っていることがわかった。
それには、どうすればいいだろう。それは第一に肉体を鍛えることだ。そして第二に踊り込むことだ。いろいろな趣味を持つ母だったが、母にとってダンスは趣味といった軽いものではなかった。踊り始めた幼児の時から、クラシックバレエ、モダンバレエ、とレッスンし、バレエが難しくなってからは、比較的誰でも踊れる社交ダンスに変更してもなお、それは母の踊り以外の何ものでもなかった。大野一雄や土方巽の血を引く、ある意味、危険な「舞踏」だった。
よく、舞踏をやめる気になったね、と言えば、だってもうバレエは踊れないもの、と寂しそうに答えるのだった。
すべてのアスリートが通る道、「老い」。老いに浸食されて、脚や腕が硬くなり、水気をうしない、動きが鈍くなり、身体全体がしなやかさを失っていく。私が独立し、結婚や出産をしてから、もう一度本格的にダンスを始めた母は、もう70代にさしかかろうとしていた。そんなひとにとって、老いは、恐ろしく、かなしく、そしてまた、情熱と怒りの根源にある激しい感情を呼び覚ますものだったのだろう。
最後まで踊って終わりたいという人生観を持つ母には、脚をかばいながら杖を突いて歩く人生はあってはならないのだった。結局、杖は百貨店に返品され、いつの間にかふたりのおばあちゃんも仲が戻っていた。義母はこれまた絵に描いたような健康ご長寿専業主婦で、何もかもあっけらかんと時が流れてゆく、優しくて明るい、そんな女性だった。
それから約10年の月日が経ち、病に倒れた母は、私の家に病室をしつらえて最後の時を過ごした。痛みや気持ちの悪さなどがなかったからかもしれないが、たいてい笑っていた。しかし、人がそばにいない時は、暗い横顔でうつむいてベッドに座っていた。その、かつてない暗い横顔を見てしまった時は、胸が痛んだ。
老いるということは、なんと難しく、かつ残酷なことなのだろう。
そして短い闘病の後、母は静かに天に召された。