成人した男性が母親から離れられない――映画やドラマで昔から頻繁に描かれてきた設定だ。でも、「ママ=モンスター」の図式が正しいとは限らない。現代の母と息子の関係を、作品の描かれ方からひも解く考察の前編をお届けする

BY MARK HARRIS, ARTWORKS BY KEITA MORIMOTO, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

画像: KEITA MORIMOTO, "THE MANCHURIAN CANDIDATE," 2024, COURTESY OF THE ARTIST AND NIGHT GALLERY

KEITA MORIMOTO, "THE MANCHURIAN CANDIDATE," 2024, COURTESY OF THE ARTIST AND NIGHT GALLERY

 母と息子という、永遠の論争ともいうべきテーマについて語るなら、ジークムント・フロイトから始めるのがおそらく自然なのだろう。だが、数十年も続く母親だたきの根拠となったフロイトの解釈は周知の事実とした上で、今回は1世紀ほど時間を早送りしてほしい。男性の心の弱さや、引きずり続ける母子関係のトラウマについて、別の人物の名言から始めたいからだ。「誰かのおふくろさんを見るのはたまんないね」。そう言ったのは、Apple TV+のコメディドラマ「テッド・ラッソ 破天荒コーチがゆく」の主人公で、サッカークラブの監督のテッド・ラッソ。「こんなポンコツが育った理由が一発でわかる」

 笑える台詞だ。残酷で、アンフェアな言い草でもある。そして実のところ、これは2年越しの壮大な伏線でもあった。ドラマのシーズン3で初めてテッドの母親が登場し、彼自身の弱点や暴走癖や欠陥がどこからきたのか、視聴者はついに知ることになるからだ(知ったと思うだけかもしれないが)。テレビや映画では、昔からこうした「答え合わせ」の瞬間が描かれてきた。男性のキャラクターがなぜそんな人物なのか、なぜまともになれないのか、心底深く知ろうと思ったら、会うべき人物はほかにいる。その男のママだ。ママが悪いに決まっているのだ。

 母と息子のねじれた関係という図式が娯楽作品に登場するとき、そこにはつねに奇妙な特徴がある。母と娘の確執もお決まりの設定ではあるが、決定的な違いがある。母娘の話は、互いの対抗心、支配、わがまま、犠牲、エゴの交錯がどれほど複雑であるにせよ、基本的に大人になっても親子関係は存在するというのが前提だ。その点、母と息子はどうだろう? 映画やテレビでよくそうなっているように、母と息子双方が健全ならば、その親子関係には暗黙の終点がある。息子は自立し、母は手を離すのが当然であって、成人した男性と母親がいまだにぶつかりあったり干渉しあったりしているのは「病気」なのだ。笑い、涙、金切り声のどれを交えるにせよ、ほぼ例外なく、親子関係が機能不全に陥っているしるしとして描かれる。母と息子の関係について心理学的なうんちくを傾けるなら、「母親が息子をダメにしている」というのが定説だった。

 最近では、男らしさの押しつけがもたらす害や、世間が望むような「自慢の息子」にならない息子、それどころか真逆を行くような息子を育てる難しさなど、もう少し複雑な背景が語られることもある。だが、話の焦点が母親に当てられたときの結論は変わらない。テレビでも映画でも同じだ。「母親が悪い」、その一点から先へ進むことがない。

 しかしそれも、ようやくというべきか、変わりつつあるのかもしれない。昨年には、男性とその母親――生物学的意味での母――の問題を掘り下げる作品が珍しいほど多様に、テーマとしても多彩に公開された。『ボーはおそれている』や『Saltburn/ソルトバーン』のようなダークコメディから、もっとハートフルで誠実に向き合う『異人たち』、大人の階段を上る過程を描いた『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』、スキャンダルと演技を組み合わせた特異な作品『メイ・ディセンバー ゆれる真実』に至るまで、どれも母と息子を描いている。多くは、困窮、利己心、残酷さによってねじれたり折れ曲がったりした関係を解きほぐそうとするストーリーだ。たいてい最終的に血が流れる展開となり、盛大に周囲を巻き込んでいく。だが、アプローチはそれぞれ異なるものの、共通点としてどの作品も昔からのお約束の展開をただなぞろうとはせず、もっと掘り下げたり、否定したり、あるいはぶち壊したりすることを果敢に、かつ真摯に目指している。

 とはいえ、お約束というのはそう簡単に消えはしないものだ。特にこのパターンーー毒母と心理的に支配された哀れな息子という組み合わせ――は、75年近くも映画やテレビにはびこり続けてきた。フロイト本人が存命中に目にすることはなかったかもしれないが、1950年代頃には映画やコメディ番組やトークショーで精神分析の話が頻出するようになり、そこで語られる母親とは、健全で精神的に安定した男性が克服し乗り越えていかねばならない(当時の流行語で言えば)「必要悪」だった。母離れができない男性、もっとひどい場合には母離れをしたがらない男性は、ママのエプロンの紐が首につながったあやつり人形のようなものと表現された。ノイローゼぎみで、たいていホモセクシュアルっぽく描かれる――当時の娯楽作品でもさすがに露骨な中傷はしなかったが、明らかに意味深にほのめかすのだった。母親に唯一許される道は黙って自己犠牲的に尽くすことだけで、冷たい母親、支配的な母親、強すぎる母親、弱すぎる母親はもちろん、過保護な母親のもとで育てば、息子は気弱、不安定、性的に機能不全、なよなよしている、倒錯している、あるいは完全にイカれた人間になる。これはもはや一種の残酷なネタになった。

 アルフレッド・ヒッチコックの1951年の映画『見知らぬ乗客』でロバート・ウォーカーが演じたニタニタ笑う内気なマザコン男も、そうしたキャラクターだ。同じくヒッチコックの1960年の映画『サイコ』でアンソニー・パーキンス演じるノーマン・ベイツは、ジャネット・リー演じるマリオン・クレーンに母を重ねながら、真面目に「男の子の親友は母親だよ」と言う。この不気味な台詞が映画のオチといってもいいくらいだ。もう少し穏やかな例は、ドリス・デイとロック・ハドソン共演のロマンティックコメディ映画3本におけるトニー・ランドールで、彼の役どころは決まって男らしさにしがみつく冴えない男性だった。前述の3本のうち、1959年の映画『夜を楽しく』では「僕はかかりつけの精神科医に、母親のことを2年前から相談してる」と話す。「大丈夫、健全だよ。医者も僕の母親にはうんざりだってさ!」

 1960年代になる頃には、マイク・ニコルズとエレイン・メイという男女のコンビ芸人による即興コントが全国的に人気を博していた。特にふたりが頻繁に演じたコントは、天才ロケット科学者が、すさまじく支配的なママからタイミング悪く電話がかかってきた途端に赤ちゃん返りして、ばぶばぶ言い始めるという設定だ。フィリップ・ロスの1969年の小説『ポートノイの不満』には、息子が閉じこもるバスルームのドアを執拗にたたく母親が出てくる。こうしたユダヤ人の威圧的な母親というキャラクターはたいてい喜劇的な位置づけだったし、今でもその傾向が見られる。真に恐ろしい母親となるのはWASP(白人エリート層)の女性だ。1962年の映画『影なき狙撃者』で、ローレンス・ハーヴェイ演じる主人公は、アンジェラ・ランズベリー演じる母親に洗脳されて暗殺者になる。攻撃的で野心的な女は自分の息子にこんなことまでするのだ─息子をうつろな目をしたゾンビに変え、男らしさの象徴まで奪い取るのだ、と同作は伝えている。

 こうしたステレオタイプな毒母像は、やがてもう少し自覚的でアイロニカルな娯楽描写へと変化する。1970年代に登場するのは、たとえばイギリスで人気になった1976年のBBCによる歴史ドラマに出てくる母親だ。ローマ皇帝クラウディウスを主人公とする小説『この私、クラウディウス』(ロバート・グレーヴズ著)をドラマ化した作品で、シアン・フィリップスが演じる妃リウィアは、息子に権力の道を開くため、みずからの利益も貪欲に追求しながら、身内を次々と暗殺する。このキャラクターは約20年後に、リヴィア・ソプラノという名前でよみがえった。マフィア一族を描いたドラマ「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」で、ナンシー・マーシャンが演じたリヴィアは、息子をただのマフィアにはしなかった。彼女の息子は精神科医のセラピーを必要とするマフィアになったからだ。シーズン1以降、さまざまな悪人が出てくるが、リヴィア以上の巨悪はいない。演じる女優が早くに死去したので、キャラクターも死んだことになったが、それ以降も実質的にドラマ全体を通じてつきまとい続ける。

 このような長い影を落とすという構図――毒母は死してなお消え去らないという悪夢のような脅威――は、ウディ・アレンの作品でも独自に表現された。1989年のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリー』の中でアレンが担当した第3話「エディプス・コンプレックス」では、中年弁護士が奇術師の手を借りて、口やかましく批判ばかりの母親をついに追い払う。ところが、奇術で消したはずの母はパレードのバルーンのような幻影として空に現れ、マンハッタンじゅうが見守る前で主人公を辱めるのだ。その後もさまざまな映画監督が、創造し攻撃し破壊する母というテーマに挑んでいる。アルバート・ブルックスの1996年の映画と、ダーレン・アロノフスキーの2017年の映画は、どちらも直球のタイトルだ。ブルックスの映画は『Mother』(邦題は『ミスター・コンプレックス/結婚恐怖症の男』)、アロノフスキーは『mother!』(邦題は『マザー!』)で、後者のほうはホラー仕立てになっている。ついでに言うと、この設定が過去にも現在にももっぱら白人の母親に限定されているのは、偶然ではない。そもそも白人ではない家族のストーリーは今でも規模として小さく、映画の製作者側が有色人種でも、息子をダメにするひどい母親という表現であえて勝負する気にはなりにくい。

冒頭の挿絵について:
このエッセイの挿絵として、東京で活動するアーティスト森本啓太が二枚の水彩画を描きおろした。一枚目の作品《The Manchurian Candidate》(2024年)は、1962年の同名の映画(『影なき狙撃者』)をモチーフとして、母親役のアンジェラ・ランズベリー(左)と主人公役のローレンス・ハーヴェイを描いている。「このふたりを描いていたときに頭にあったのは、現代の母と息子の関係は過去と比べて距離が遠いようだ、ということでした」と森本は語る。「昔のほうが家族の結びつきが近く、もっと息が詰まるものだったのかもしれません」

後編はこちら 〉〉〉

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