BY MARK HARRIS, ARTWORKS BY KEITA MORIMOTO, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA
昨今、母と息子を扱うドラマやコメディ番組では、この問題を単なる育児の問題ではなく、トラウマと治癒のストーリーとして表現する傾向がある。大人の階段を上る時期というテーマも同時に描かれる。自分はいつ子どもではなくなるのか――たとえ不完全な育児の犠牲者なのだとしても、自分の運命は自分のものとして受け止め、行動の責任をとるようになるのはいつからなのか、というきわめて21世紀的な問いに対峙する。本当に母親がモンスターなのか、それとも、男性が自分の成長に理屈をつけるためにそういう役割を投影しているのか。昨今ではそんな問いが投げかけられているものの、基本の構図はやはり同じだ。詩人フィリップ・ラーキンが1971年に書いた有名な詩を引用――不適切な単語が多いので、引用できる部分だけ――しよう。ラーキンいわく、ママとパパは「自分の欠陥をすべておまえに押しつけ/ダメ押しに言う、『おまえのためなんだよ』」。
この設定は特にテレビの十八番だ。先日最終回を迎えたドラマ「ザ・クラウン」は6シーズンをかけて、英国王室の60年間をママ問題の心理ドラマにした。仕上げの最終シーズンでは、感情の機微にうとい人間と思われてきたチャールズ皇太子(現・国王)が揺れる心情をこぼし、狭量な母親に向けてダイアナ亡きあとの悲嘆とカタルシスの過程について辛抱強く語る。アメリカのドラマ「マーダーズ・イン・ビルディング」の最新シーズンでも、過保護な母親と、ぼんくらなゲイの息子という古典的組み合わせを笑いのネタにしている。ウェズリー・テイラーが演じる息子クリフ・デメオと、リンダ・エモンド演じる母ドナは、この殺人ドラマの中ではブロードウェイのプロデューサーという設定だ。「僕の8歳のお誕生日のとき、医者がなんて言ったか覚えてる?」と息子が懐かしげに言うと、母は「『そろそろ母乳をあげるのはやめないと』だったわね」と返す。息子「それで母さんがなんて言ったんだっけ?」、母「『大切なことをあきらめてはいけないのですよ』って言ったのよね」。
とはいえ最近のテレビ番組では、長いシリーズ構成を活かして、「答え合わせ」のために母親を登場させることが多い。異様なほど破天荒な男性キャラクターの謎を解くカギとしてほのめかし、徐々に「なるほど、それでこんな人間に」と思わせるのだ。シカゴのレストランオーナーの奮闘を涙あり笑いありで描くドラマ「一流シェフのファミリーレストラン」でも、ジェレミー・アレン・ホワイトが演じる主人公のカーミーの熱心さの陰に、少年時代の心の傷があることが示唆される。シーズン2の重要な回想シーンで、ジェイミー・リー・カーティス演じる母ドナが登場し、彼女が精神の病に苦しんでいることが明かされ、母が家族全体をまとめながらも個々を引き裂いてきたことがわかる。この家族における母の位置づけは、ユージン・オニールの1956年の戯曲『夜への長い旅路』の登場人物メアリー・ティローンと基本的に同じ――家族の中心であると同時に、周囲を引きずり込む渦巻のような、不安の権化たる存在だ。母ドナの登場が、「カーミーはなぜこんな生き方をしているのか」という疑問の答えになる。情報番組の舞台裏を描くドラマ「ザ・モーニングショー」でも、シーズン3にゲスト出演するリンジー・ダンカンが同様の役割を果たし、ビリー・クラダップ演じるイケメン報道局長コリー・エリソンの素顔があばかれる。実家に足を運んだエリソンの前で、家長である母は最初は遠慮がちな態度でもてなすが、やがて平然と人の心をずたずたにする。完全無欠のエグゼクティブに見えていたエリソンが、実はがけっぷちの精神状態にあるのだと視聴者は知ることとなる。
こうした悪い母親は、たいてい免罪の役割を担っている。こんなママが出てきた途端、視聴者は息子たちの傍若無人さを断罪できなくなり、むしろ一抹の憐れみを感じ始めるからだ。近年で最も高く評価されているドラマ「メディア王〜華麗なる一族〜」では、ちらほらと絶妙に登場する女優ハリエット・ウォルターが、その役どころを引き受ける。ブライアン・コックス演じるメディア王ローガン・ロイの息子たちがそろって偏屈なのは父のせいだと視聴者も察するのだが、ウォルター演じるローガンの元妻キャロラインもすさまじい悪意をまきちらし、離婚してもなお支配力をもつ。しかし彼女は基本的な育児能力がなく、自分の子どもを生かしておくのがやっとだったことが最後のエピソードで明かされる。
「メディア王」は一つの核心をついている。大人は、たとえ子どもじみたふるまいをする大人であっても、子どもではない。誰かの子どもであることは変わらないにしても、いい大人ならば、自分のことは自分で面倒を見るべきではないのか。育児をめぐる判断のあれこれがたたかれ、議論され、インスタグラムやXでさらされる時代において、母親というのは今でも格好の悪役だ。その一方でこの時代の親たちの多くが、20代の息子が明日にでも女性差別主義者のインフルエンサーであるアンドリュー・テイトをSNSで見つけてハマってしまうのではないか、と不安で眠れぬ夜を過ごす。男性の最大の敵は母親ではないかもしれない、という新しい認識が、今少しずつ広がり始めている。
そういう意味で、昨年に数多くつくられた「ママ問題作品」における最も爽快な特徴は、単なる断罪ドラマに終わらせないという強い意志を感じる点だ。アリ・アスター監督の映画『ボーはおそれている』では、ホアキン・フェニックス演じる中年男性が長く苦しく大っぴらなメンタル崩壊を体験するのだが、物語の最後で時間を巻き戻すかたちで彼の実家が描かれ、観客が自覚していなかった問いの答えが明かされる。パティ・ルポーン演じる母親が口やかましさ全開なのを見て、観客は「ほらね、予想どおりの母親だ」と思う。ところがアスターはそこでちゃぶ台をひっくり返すのだ。母親は確かに滑稽なほど猛烈な破壊者のようなのだが、ボーの3時間にわたる奇行の謎を解くカギは彼女ではない。そうだと思い込んでいた観客の前に、ボーの父親が登場する。
アレクサンダー・ペイン監督の心温まる映画『ホールドオーバーズ』は、1970年のニューイングランドを舞台に、クリスマス休暇でほとんど無人になった寄宿学校で本来接点のない3人が仲間になる様子を描く。この作品にも、お約束を裏切る転換点がある。主人公のひとりで怒れる繊細な少年の母親は、最初のうちは無神経な人間として登場する。彼女は息子とクリスマスを過ごそうとしない。かろうじて電話の向こうにいるだけの存在だ。息子は傷つき、愛情を乞おうとするが、母は無関心で聞きもしない。ママ問題を描いた1980年の名作映画『普通の人々』の再現かと思われる設定だ。
『普通の人々』では、大人の入り口に立つ少年が、母は次男である自分を愛せないという事実を受け入れていく過程が描かれた(実父に加えて精神科医が父代わりとして少年に愛情を注ぐ)。だが、『ホールドオーバーズ』を撮ったペインの狙いはそこではなかった。こちらに登場する母親は悪の権化ではなく、ただただ過酷な状況と相反する望みにうちのめされたひとりの人間だ。育児はして当然、できて当然と思われていた時代の映画に描かれるような、とんでもない非常識な人間ではない。
一方、俳優のエメラルド・フェネルが監督を務めた残酷な風刺的作品『ソルトバーン』には、ひとりではなくふたりの毒母が出てくるが、どちらも観客の想像の裏をかく。バリー・コーガン演じる主人公の少年は、母から虐待されたという話をするが、これは周囲に同情されて受け入れられるためのつくり話だ。そして主人公の友人(ジェイコブ・エロルディが演じる)はすべて完璧な金持ち息子だが、その母(ロザムンド・パイクが演じる)はいかがわしく、明らかに母親らしからぬ女性で、一族の豪邸で退廃的な集まりを仕切っている。最初に画面に登場した彼女を見て、観客は当然、彼女が悪の女王のように君臨しているのだと察する。しかし映画のラストでは、彼女が息子の破滅を招いたのではないことが明らかになるのだ。むしろ彼女の息子ではない人物が、彼女に破滅をもたらしたことがわかる。
トッド・ヘインズ監督の『メイ・ディセンバー』は、90年代のニュース、メロドラマ、ダークコメディと、昔ながらの「実話に基づくドキュメンタリードラマ」の要素を巧みに使い分けながら、実在する人物を演じるというテーマで、ある夫婦の長きにわたる結婚生活を探っていく。ジュリアン・ムーア演じる妻と、チャールズ・メルトンが演じるかなり年下の夫とのつながりは、20年前、妻が36歳で夫が13歳だったときに始まった。そもそも生じてはいけなかった関係の機微を描くという大胆な試みに挑戦したヘインズは、ムーアが演じるグレイシーを通じて、まぎれもない毒母を描き出す。ただし彼女の悪意と支配が向けられるのは、彼女の実の子どもらではなく、自分の夫に対してだ。思春期の早い段階で性の対象になった夫は、そこで精神的発達が止まったキャラクターとして、痛々しい同情を伴って描写される。
不穏な展開を経て迎えるクライマックスシーンで、観客はグレイシーが自分の許されざる行為をどう見ているか完全に知ることになるのだが、これがいっそう観る者の胸をざわつかせる。古いステレオタイプに回帰するどころか、あえて逆らっていく展開となるからだ。2009年の映画『プレシャス』でモニークが演じた母親と同じく、グレイシーは自分が被害者だと信じ込み、自分自身にそう言い聞かせていることが明らかになり、痛ましさとおぞましさがいっそう浮き彫りになる。『メイ・ディセンバー』の監督のヘインズと脚本家のサミー・バーチは、ママ問題を最も許されざる過激なかたちで描きながらも、男らしさという神話、反射的な女性嫌悪、性的同意とは何かなど、相反する主張がぶつかりあう現代に沿った物語を描き出した。彼らの鋭い視点で浮かび上がる母親と息子は、どちらかが怪物というわけではないし、どちらかが無傷ということもない。
一方で、陳腐な毒母表現を打ち砕く最大の功労者となっているのは、同性愛者の男性たちだ。親の育て方が悪かったから、その犠牲となって息子がゲイになってしまった――娯楽作品でそんな乱暴な描かれ方をすることが多かったことを考えれば、彼らの視点で反論が始まるのは当然かもしれない。ストレートの文化ではほのめかしで済ませることが多いが、彼らはもっと直接的に立ち向かう。アンドリュー・ヘイ監督は、ミッドライフクライシスのさなかにある孤独なゲイの男性アダム(アンドリュー・スコットが演じる)を描いた映画『異人たち』で多くの大胆な試みをしているが、その中でも一番大胆不敵といえるのは、観る者をまずお約束の理解へと導いておきながら、それを一気に否定して、まったく違う話へと進んでいくことだ。『ボーはおそれている』と同じく、ヘイの映画でも主人公は子ども時代に帰っていく。幼少期を過ごした家に行き、探し求めている問いの答えを母から得ようとするのだが、クレア・フォイ演じる母親は、映画の最後まで明かされない理由で、答えを示さない。母親が毒母だと明かされないのだとしたら、そもそもなぜその母親が出てきたのか、観客はまごつかされる。
しかし『異人たち』に毒は存在しない。残酷な体験を経て、なんとか40代まで生き延びてきたものの、今も心を整理できないひとりの哀しい男性がいるだけだ。主人公の苦悩の一部は幼少期のトラウマによるものなのだが、監督のヘイは「母親が悪かったから」で片づけない。アダムの母親には確かに問題があったのかもしれないが、映画の最後で、観客は彼女とその夫が、愛と思いやりに満ち、基本的にはすべてを受け入れる親であったことを理解する。ヘイは非難を向けるべき矛先をつくろうとしない。アダムの人生は母のせいではなく、さらに言えば見つけるべき犯人などどこにもいない、とはっきり打ち出している。
本当のテーマはおそらく、一番身近な存在の苦しみを真に理解することから私たちを遠ざけてきた─あるいは、その理解を遠ざけるために私たちが利用してきた――溝にある。悲劇は安易な敵を見つけて解決するものではないのだ。『異人たち』の主人公アダムは、ある意味では、母親への不健全な執着に苦しむ典型的な男性に思えるかもしれない。だが、よく見てみればわかる。映画が伝えているのは別のこと、一歩前に踏み込ませる真実だ。母親は息子の人生の一部だ。そして、息子が抱える問題が、イコール母ではないのである。
冒頭の挿絵について:
このエッセイの挿絵として、東京で活動するアーティスト森本啓太が二枚の水彩画を描きおろした。二枚目の作品《Saltburn》(2024年)は、昨年秋に公開された映画『ソルトバーン』の母親役ロザムンド・パイク(左)と、主人公役バリー・コーガンを描いたもの。
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