BY AATISH TASEER, PHOTOGRAPHS BY ROE ETHRIDGE, STYLED BY CARLOS NAZARIO, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
ジェイコブスはファッションビジネスのみならず、ランウェイのあり方にも影響を及ぼした。彼にとってショーは単に服を見せるための手段ではない。それは今のイマーシブシアター(註:体験型の劇場)の前兆であり、ビヨンセやレディ・バニーなど、客席の多くを占めていたスターたちのリアルなスタイルも目にすることができた。確かに今ではグッチやプラダなどあらゆる有名メゾンのショーが、似たようなスケールの、似たような体験を供している。だがジェイコブスのショーほど強烈に心を揺さぶるものにはめったに出会えない。
「これまでに開催したショーの数と年数、音楽や会場演出のことまで考えると、毎回あれほど強い感情を喚起できるマークは見上げたものだよ。とてつもない難題なのに毎回クリアしてきたんだから」。ジェイコブスとコラボレーションを始めて10年以上になるフォトグラファー、スティーヴン・マイゼルが激賞する。ジェイコブスは、ショーの観客が、雰囲気やエスプリといった何かを感じ取ってくれていることに気づいている。スポットライトを浴びたモデルの顔に、ボレロハットが落とす不穏な影。暗赤色のタフタ地の、巨大なパフスリーブの圧倒的な品格。グレーの羽根のドレスに合わせた、ニットキャップの上でゆらめく羽根のロマンティックな孤独。「どうしてこういうコレクションがつくりだせるのか、自分でもわからない」。ジェイコブスは言葉を濁す。

ランウェイのラスト、挨拶のために登場したマーク・ジェイコブス。
(左から)1987年、1991年頃、2003年、2005年、2006年
PHOTOGRAPHS BY FAIRCHILD ARCHIVE / PENSKE MEDIA/SHUTTERSTOCK; BARBARA ROSEN/IMAGES / GETTY IMAGES; J.VESPA/WIREIMAGE / GETTY IMAGES; MARK MAINZ / GETTY IMAGES; FERNANDA CALFAT / GETTY IMAGES
「僕には、布やジャケットに喜びを織り込むようなことはできないから。でも創作の過程で何かが起きるんだ。エネルギーが高まって、どんどん増幅して、ついにはそれが7分間のランウェイの中に注ぎ込まれていくような、そんな感じだよ」
T.S.エリオットの詩に「君が出会ういろいろな顔に合わせて身支度を整える」という一文があるが、ジェイコブスにも同じような心の内が感じられる。彼にとってドレスアップとは、常に文字どおり「ショー」であり、真の人生がもしあるのなら、それは舞台裏にしか存在しないのだ。
自然体でいるときの彼は、ショー後の高揚感が冷めやらぬなか、年来の友人とくつろいでいるような雰囲気だ。つま先はソファの端に軽く触れ、手もとにはお茶とカシミヤのスカーフ。興奮と疲労の入り交じったトーンで、内省的な話とゴシップの間を行ったり来たりする。私たちの会話は会ってすぐからかなり盛り上がった。アッパーウエストサイド(私の居住区でもある)の話、彼の祖母ヘレンやファーストキスの話(中学のときローレン・ボンジョルノという女の子とキャンプで起きた出来事。彼の中の〈クイーンがキングになった〉瞬間だが、ほかの男子に対して優越感を味わいたかったのが主な理由)、ドラッグ、乱交パーティの話。新しい性的パートナーを探すために誰もがGrindr(註:同性愛者向けの出会い系アプリ)に頼りすぎて、NYのゲイライフはつまらなくなったという話まで出た。だが何よりも会話の中核を占めたのは、精神を病んでいた母親が子ども時代の彼に負わせた深い傷のことだった。
感情の起伏が激しく、強い自己防衛の本能が備わった人間になったのはそのせいだという。彼の父親はウィリアム・モリス(註:米の主要タレントエージェンシー)のテレビ番組担当だったが、ジェイコブスが7歳のとき慢性腸疾患の潰瘍性大腸炎で亡くなった(ジェイコブスは潰瘍性大腸炎と母親の病気の両方を受け継いでいる)。父親の死後、唯一の法的保護者となったのが、双極性障害を患っていた母親だった。
「子どもが見るべきじゃないものを見ていたんだよ」。ジェイコブスは怠薬したときの母親の姿を回想する。朝目覚めたときに、カタトニア(緊張病)の症状で血まみれになった母親を見たことも、救急外来に運ばれていくのを目にしたこともあった。母親はうつ状態だけでなく、ハイテンションの躁状態にもなったが彼にはどちらも受け入れられなかった。躁状態の母親はよくドラァグクイーン風のメイクをして外出していた。ハイな状態で帰宅した母親がボーイフレンドと一緒に浴室の壁に絵を描き、その上に男の陰毛のかたまりを貼りつけたこともある。別のときにはドラッグで興奮状態だった母親が、結婚するつもりでいたこの男とモデル事務所を開くと決め込んだ。すでに新姓のイニシャルの刺しゅうを入れたタオルのデザインまでしていた。
「何でも好きにすれば、って気持ちだったよ」と、彼はためらいがちに言葉を漏らした。その口調には、母親は重症にちがいないと疑念を募らせていた少年時代の、重たい不安と戸惑いがにじみ出ていた。彼がずっと疎遠にしていた母親は2008年に他界した。当時の状況は八方ふさがりだった。3人兄弟の最年長だったジェイコブスは、親代わりになることを余儀なくされた。「あんな義務は負いたくなかったよ。妹と弟の両親役なんてまっぴらだった」。だが幸い10代の前半から、彼は実家のそばに住んでいた父方の祖母と暮らすことになった(養護施設に預けられた弟妹との連絡は途絶えている)。祖母のアパートは、セントラルパークの西側、アールデコ建築のツインタワー「マジェスティック」。「そこから僕の愛すべき人生が始まったのさ」。
ジェイコブスを心から愛した祖母ヘレンは、彼の人生にルールやマナーといったものを植えつけた。春の服、秋の服とそれぞれに合うシューズやバッグは、季節ごとに出しては片づける。ある服には黒い手袋を、別の服には白い手袋だけを合わせていたような祖母には、“まあまあ素敵な”10枚のセーターより、とびきり素敵なセーターを1枚持つことの美徳も教わった。若くしてこうしたスタイルの手ほどきを受けたこと、祖母からの絶大な信頼を得たことで、ジェイコブスの人生は好転していく(祖母ヘレンは〈ファッションに対して実用本位にとどまらない興味を示している孫は、いつか有名デザイナーになる〉と近所の人々に言い歩いていたらしい)。彼の心は安定を取り戻し、ディオニュソス(註:ギリシャ神話の酒・豊穣・演劇などの神)的な性質が開花し、自己破壊の危険からも回避した。彼はこれまでの人生で多くの人々に助けられ、支えられてきたが、この祖母こそが最初の庇護者であり、初めて必要だと感じた人だった。
「どんなときも自分の居場所を見つけてきた」とジェイコブスは言う。「自分が身を置きたいと思う世界は、自分自身でつくることができるって信じていたから」
その空想の世界は常に閉ざされ、独自のルールに支配されていた。突然の土砂降りが、大都会の騒音をかき消してくれるように、そこでは美と芸術が安堵をもたらし、混沌を遠くに押しのけてくれた。もしかすると彼は、枠物語(註:物語の中で別の物語を語る)のように、世界の中のもうひとつの世界を見つけ、そこに創造性や感情を蓄えておきたかったのかもしれない。
パーソンズ美術大学時代のルームメイトで、現在オートクチュールデザイナーとして活躍する友人、リッキー・セルビンが回想する。1981年、当時18歳だったジェイコブスは山本寛斎のパーティの演出を担当することになった。ジェイコブスはカナルストリートのフィッシュマーケットを借りて会場にすると、「生きた金魚が入ったビニール袋をぶら下げたネックレスを来場者全員に配った」らしい。
ダッフィーの言葉を借りれば彼の“風変わりさ”と遊び心が、ジェイコブスのクリエーションの核を成している。それは単なるジョークとは違う。電話の受話器の代わりにロブスターを置いたシュルレアリスト、サルバドール・ダリのように、彼の生むユーモアには達観が入り交じっている。ファッションにおいてもビジネスにおいても深刻になりすぎる業界の人々に、彼のウィットがふと気づかせるのだ。華やかな会場、宝石やドレスをまとった美しいモデルといったファッションの表層的なまばゆさの下にあるのは、虚栄と塵だけなのだと。