モード界の最先端を独走してきたマーク・ジェイコブス。文化の流れを予知する非凡の才能と、彼のデザインに触れるすべての人に深遠な感情を呼び起こす力―― 波乱万丈の人生の軌跡とともに、唯一無二の魅力の源を探る

BY AATISH TASEER, PHOTOGRAPHS BY ROE ETHRIDGE, STYLED BY CARLOS NAZARIO, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 ジェイコブスのファッションを芸術の高みに引き上げているのは、彼の創造のプロセスだ。作家ヘンリー・ジェイムズが「風に吹きとばされた種」と呼んだ“アイデアの種”だけを武器に、彼は何かを形にすることもなく、何週間もの時間を過ごす。経験上、想像の世界に宿るざらざらした不快な砂粒こそが、創造の種であることを知っているのだ。その状態を保ちながら、そこで何かが芽生えるのをじっと待つ。子どものときから、家庭の混乱と精神的暴力から自分を守るために秩序ある美しい世界を空想してきた彼は、“混沌と規律の関係”というものを随分前から理解している。インスピレーションの最初のきらめきが形となって現れるまで、高まる不安を抑えて精神を集中させ、じっと待たなければならないということも。

 最初にはっきり姿を見せるのは、色とファブリックだ。だがこの時点ではまだジェイコブスには、どこに向かっているかさえわからない。ふと彼は、ヴァレンティノやホルストンといったデザイナーに対して人々が抱く幻想について話し始めた。「とびきりシックな机に座って美しいデザイン画を描くとまずアシスタントに手渡し、さらにドレープ担当の女性かテーラー担当の男性に回す。彼らが立ち去るときにはトワル(註:仮縫いサンプル)が完成していて、製品に使う生地の反物をモデルにあてながらフィッティングをする。みんなこんなイメージをもっているかもしれないけど、とんだ見当違いだよ」。彼は語気を強めた。「少なくとも僕らはそんなふうじゃない」。

 ジェイコブスと彼のチームは、まず2週間から1カ月ほど、テーブルを囲んで話し合う。つづいてチーム全員が外に出て、ヴィンテージショップやオートクチュールの縫製工場から生地を収集する「コラージュ」の過程に入る。ジェイコブスからの指示はない。この段階では、彼自身にも何がよくて何がだめなのかはっきりしていないからだ。そのためメンバーそれぞれの観点が、彼の視点と同じくらい貴重である。「マークの頭の中にはビジョンがありますから」とダッフィー。「でもアトリエの誰にも伝えません。まだ彼自身の中でも明らかな形にはなっていないんでね。私には、彼がいろいろな要素を組み立てて、だんだんと完成に近づいていくのがわかるんですが」。

 ジェイコブスはこうした段階を経て、シルエットやテクスチャー、生地を決めていく。2020年春夏コレクションについていえば、彼はハイウエストの60年代風スリーピーススーツに夢中だった。ひとたびビジョンの輪郭が浮かび上がると、ミツバチの巣の女王蜂のように、ヘア、メイク、シューズといったそれぞれのチームを訪れる。こうしてジェイコブスの中に芽生えてきた感覚やイメージと、各チームの創造力とを結合させるのだ。コレクションにぶれない軸があるのは、アトリエ内に協働力がみなぎり、各チームの創意を巧みに織り交ぜているからだ。

 喜びと奔放さにあふれた2020年春夏コレクションについて、ジェイコブスが説明し始めた。「あるときライ(NY州北部の市。ここにあるフランク・ロイド・ライト設計の家を2019年に購入した)で目覚めたとき、『Prepare Ye the Way of the Lord』の歌が浮かんできてね。この歌が登場する『ゴッドスペル』(新約聖書のマタイ伝を題材にしたスティーブン・シュワルツとジョン=マイケル・テベラクによるミュージカル作品。1971年初演)のビデオを観たんだ。これがとにかく最高で。なにしろ登場人物みんなが仕事を辞めちゃうんだ。モデルはウィッグとポートフォリオを投げ捨て、バレリーナは通りへ駆けだしていき、別の男がそのそばを通りすぎていくって感じでね。そう、2020年春夏コレクションは『ゴッドスペル』のフィーリングだったんだ」

画像: 2020年春夏コレクションより。 帽子はマーク ジェイコブスのためにスティーブン・ジョーンズがデザインしたもの。 (左)ジャケット、パンツ、シャツ、ブーツ、帽子(すべて参考商品) (右)ジャケット¥372,000(参考価格)、パンツ¥172,000(参考価格)、スカーフ¥51,000(参考価格)、ベスト¥122,000(参考価格)、ボタンダウンシャツ ¥86,000、サンダル ¥86,000(参考価格)、帽子(参考商品)/マーク ジェイコブス

2020年春夏コレクションより。 帽子はマーク ジェイコブスのためにスティーブン・ジョーンズがデザインしたもの。
(左)ジャケット、パンツ、シャツ、ブーツ、帽子(すべて参考商品)
(右)ジャケット¥372,000(参考価格)、パンツ¥172,000(参考価格)、スカーフ¥51,000(参考価格)、ベスト¥122,000(参考価格)、ボタンダウンシャツ ¥86,000、サンダル ¥86,000(参考価格)、帽子(参考商品)/マーク ジェイコブス

画像: (左)オークル色のジャケット、スカート、スパンコールをあしらったインナー、帽子、靴(すべて参考商品) (右)カナリアイエローのジャケット、ベスト、パンツ、パープルのブラウス、帽子、靴(すべて参考商品)/マーク ジェイコブス マーク ジェイコブス カスタマーセンター TEL. 03(4335)1711

(左)オークル色のジャケット、スカート、スパンコールをあしらったインナー、帽子、靴(すべて参考商品)
(右)カナリアイエローのジャケット、ベスト、パンツ、パープルのブラウス、帽子、靴(すべて参考商品)/マーク ジェイコブス
マーク ジェイコブス カスタマーセンター
TEL. 03(4335)1711

 こうして生まれたのは、色とノスタルジーが空一面に炸裂したようなコレクションだった。かぎ針編みの白い花をちりばめたオレンジ色のドレスや、イエローのストッキング。70年代風フロッピーハット(つば広帽)に、赤のボウラーハット(山高帽)。赤やピンク、オレンジのダリアで飾ったソフトオーガンザの美しいカクテルドレス。メイクは、ラガディ・アン(註:毛糸の髪と赤い三角の鼻が目印のキャラクター)風のアイラッシュや、コガネムシのようなシャイニーグリーンのアイシャドウ。エルトン・ジョンを思わせるチョウの羽根型メガネもインパクトを添えていた。それはまさに狂喜乱舞の春。サンバの女王カルメン・ミランダ(註:40~50年代に活躍)が海底散歩に出かけ、ペチコートに海綿動物やウミユリ、イソギンチャクをくっつけて地上に戻ってきたような多幸感が、ぎゅっと詰め込まれていた。

 だが、話題がデザイナーの存在意義や“寿命”に変わると、ジェイコブスは悟ったような顔つきになった。デザイナーという仕事のキャリアサイクルについて「先行きは暗い」と言う。クリエイティブな人間には誰しも栄光の瞬間があって、おそらく自分にとってのそうした瞬間はすでに過ぎ去ってしまったのだろうと彼は感じている。

「誰もが、新しい人が運んでくる新しさを望んでいる。今の自分はもう、ペリー・エリスで夢のようなポジションを得た25歳の若者じゃない。グランジ・コレクションを手がけた自分とも、90年代のバッドボーイだった自分とも違うって自覚しているよ」。「僕はただ、今もコレクションを手がける幸運に恵まれた56歳の人間ってだけなのさ」。

 その声には、経験の深さと、現実を達観したような穏やかさが感じられた。おそらく少年期に母親から受けたトラウマのせいで、彼には“ペルソナ”の力に惹かれ、仮想の自分という逃げ場に隠れようとする傾向がある。

「自分自身の一部に、名役者になれる素質があったと思う」。人生の傍観者のような口調で彼は言った。「アイデンティティをつくりだして、役を演じるっていう発想は好きだね。自分の人生という映画の中で役を演じるっていう考えにはすごく惹かれるよ」。ジェイコブスのクリエーションは、しばしば明確な特徴がないと批判される。だがそれは間違っている。ブランドのシグネチャーは彼自身なのだ。アメリカのゲイカルチャーの発展に伴う、ジェイコブスの内なる成長こそが、彼のクリエーションに貫かれたメインテーマなのである。

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