バレンシアガを手がけるデムナの、挑発的で、カルチャーの根幹を揺るがすようなクリエーションは、彼自身を映しだす自伝でもある。ときおり姿を隠そうとしても、その服は彼の過去と現在をありのままに物語る。故郷グルジア(現ジョージア)の避難生活で味わった困難さと痛み、そして青年時代のさまざまな出逢いもそこに映し出されている

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY LISE SARFATI, STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

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 11歳だったデムナは、もうすぐ自分は死ぬのだと思っていた。1991年にソビエト連邦が崩壊し、その約1年後、グルジア(現ジョージア)西北部アブハジアで、グルジアにおける独立を求めたアブハズ人と、統合を主張したグルジア人の間で内戦が起きた。この紛争のせいで、デムナの生まれ故郷であり、黒海に面した亜熱帯の人気リゾート地だったスフミは破壊されてしまった。それから数カ月の間、毎晩夜7時に空襲警報が鳴り響くと、デムナは自動車修理工場の経営者であるグルジア人の父グラムと、専業主婦だったロシア人の母エリヴィラ、父と同じグラムという名の弟と地下のガレージに降り、父方の祖母、叔父2人とその子どもたち4人に合流した。デムナは破裂弾の爆音をかき消すために音楽を演奏した。

 あたり一面が瓦礫と化す前に、一家は、食料、防寒着、アルバム、護身用の武器など必要最低限のものを車に詰め込んで自宅を離れた。推定24万人といわれたグルジアのほかの避難民と同様に、彼らはコーカサス山脈を越え、親戚がいるグルジアの首都トビリシに向かった。車で行けるところまで行き着いたあとは、持てるだけの荷物を手に歩き始めたが、デムナの祖母が道半ばで力尽きてしまう。だが交渉上手な母親エリヴィラのおかげで、機関銃と引き換えに馬を手に入れることができた。

 一家は、ほぼ3週間にわたって村から村へと移動し、大抵は野外か、乗り捨てられたトラックの荷台で夜を過ごした。避難前のデムナは、家族の前でミュージカルを披露したり、祖母の服をコーディネートしてあげたり、ミス・ユニバースの出場者たちの絵を描いたりするのが好きな、温厚な少年だった。だが避難後、彼の頭に浮かぶのは「チェチェン・タイ」という名の、舌か何かを切断するという非常に残虐な処刑のことだけになった。そんなある晩、叔父と父親が話していたところに出くわし、そのとき元兵士だった父親がつぶやいたことをデムナは耳にしてしまった。今も彼はその言葉を覚えている。自分たちが人質になったときのことを考えて、父親は「手榴弾を確保している」と言ったのだ。それはつまり父親が“敵に捕まって拷問されるくらいなら、自分はもちろん息子たちも殺すほうがましだ”と考えていたことを意味した。

 デムナ(仕事とプライベートのペルソナを分けるために、仕事では名字のヴァザリアを使わないことにしている)は避難生活の話をしているとき、まるで戦争映画の筋書きを伝えているような口ぶりだったが、「手榴弾を確保している」と言ったとき、突然その声色が変わった。冷静な物言いのなかに刺すような痛みが隠れているのが伝わってきた。おそらく彼の父親もあの当時、同じ苦しみを感じながらこの言葉を発したのだろう。デムナは「ただ父親が……」と言いかけ、言葉を詰まらせた。「実際には父はそうできなかったと思う。でもあの話を聞いてから父のことが怖くなって。それまでそんなふうに思ったことはなかったのに」

 デムナと家族たちは無事にトビリシに着いたが、すでに無一文だった。到着したその晩、指が隠れるくらい袖の長い、だぶだぶのお下がりを着ていた(このシルエットがのちにデムナのアイコンになる)デムナは、弟と一緒にようやく一枚のマットレスの上で眠ることができた。「久々にベッドで寝たあの夜のことはきっと一生忘れない。人生で、ベッドで眠りにつけること以上に大事なことなんて、ほかにはないんだ」。ちょうどそのときバーのウェイターが飲み物を運んできて、デムナを現実の世界に引き戻した。蒸し暑い5月の午後、私たちはマンハッタンのウォール街のバーにいた。店には、金めっき時代(註:南北戦争後のアメリカの好景気や金銭崇拝を風刺した表現)風のウッドパネルが張り巡らされている。彼はこのインタビューの翌日にショーを控えていた。どうやらデムナはニューヨーク証券取引所のトレーディング・フロアをショー会場として使う、史上初のデザイナーとなるらしい。「なんだか、こんな話ばかりして悪いなと思って」。彼はきまり悪そうに笑った。「君を心理カウンセラーか誰かと勘違いしてるわけじゃないんだけど」

 あの少年時代と、あの頃の経験は、彼の頭から決して離れない。今年3月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まって10日後、2022年冬のバレンシアガのショーがパリから数キロ離れた郊外の複合展示施設で催された。ランウェイは会場内に設置されたガラスドームの中。ストレッチ素材のドレスや、ビッグシルエットのフーディを着たモデルたちは、ゴミ袋を思わせるレザーバッグを手に、吹きつける風と人工雪に立ち向かい一歩一歩進んでいった。ファッションエディターやセレブリティたち(カーダシアンはキャットスーツの上に、“立ち入り禁止用”みたいなバレンシアガの黄色いテープを巻きつけていた)は、まるで昔の公開手術室の観察者のように、その苛酷な状況をガラス越しに眺めていた。デムナは当初このコレクションで、遅々として対策が進まない温暖化問題について提起するつもりでいた。だが結果的にこのショーは、戦争開始後1週間の間にヨーロッパの近隣諸国に避難した、女性と子どもを中心とした約100万人のウクライナ人の苦難を示唆するアレゴリーになった。デムナはショーノートに、一枚のレターを添えた。「ウクライナ戦争は私に苦しみの記憶を蘇らせます。母国で戦争が起き、私が“永遠の難民”になった1993年以来ずっと抱えてきた、深い心の傷を疼(うず)かせるのです。恐怖、絶望、自分が誰にも必要とされていないと感じること──こうした傷は“永遠に”消えないのです」。デムナは再び口を開いた。「だから僕にとってファッションは不可欠なものじゃない。もちろん大好きだけど、正直言って、どうでもいいものだとも思ってしまうんだ。ファッションなんて無意味なんじゃないかって感じてしまう経験をたくさんしてきたから」

画像: 趣向を凝らしたコンセプチュアルなショーを得意とするデムナ。写真はバレンシアガのショー。2022年冬はガラスドーム内をランウェイにし、モデルたちは吹きつける風と人工雪に立ち向かった COURTESY OF BALENCIAGA

趣向を凝らしたコンセプチュアルなショーを得意とするデムナ。写真はバレンシアガのショー。2022年冬はガラスドーム内をランウェイにし、モデルたちは吹きつける風と人工雪に立ち向かった
COURTESY OF BALENCIAGA

 デムナはよく、嘲笑めいたユーモアのある服を創る、破壊的で遊び心のあるデザイナーと呼ばれる。だが実のところ、彼のクリエーションは真実を伝えている。ショーを見ただけではわかりづらいかもしれないが、デムナは今のモード界の誰よりも自分自身について語るデザイナーなのだ。毎シーズン披露される皮肉に満ちたコレクションは、現在進行形の自伝の一章なのである。2016年にヴェトモンで発表した、270ドルのDHLのロゴTシャツは、批評家たちに「単純すぎる」あるいは「アンチファッション」とたたかれた。だがデムナはこう説く。「毎日荷物を届けてくれる配達員を見ていたし、DHLには結構な額の利用料金を払ってもいた。それに仕事場での日常の中に、DHLのビジュアルイメージがしっかり刻み込まれていたんだ。何かを得たら、それをもとに何かを創る、というのが僕流の創作のプロセスだから」。バレンシアガの2023年春コレクションでは、ラテックスのボンデージスーツに、ウールのコートやスパンコールのドレスを重ねたルックを披露した。ほかのデザイナーにとって「SM」の要素を取り入れることは、強烈なインパクトを与えるための手軽な手段なのかもしれないが、デムナにとっては特別なものだ。「個人的に大事なテーマだよ。僕自身の性教育の一環だったから」

画像: 2019年夏はカナダ人アーティスト、ジョン・ラフマンによるLEDスクリーンパネルのトンネルを設置 COURTESY OF IMAXTREE

2019年夏はカナダ人アーティスト、ジョン・ラフマンによるLEDスクリーンパネルのトンネルを設置
COURTESY OF IMAXTREE

 自らのセクシュアリティについて語るとき、デムナの声は悲しげに響く。若い頃、近所の友人とつき合っていたが、ふたりでいるところに鉢合わせた家族から会うのを禁じられ、突然その少年には会えなくなった。初めて恋に落ちた男性には、風俗店やクルージングスペース(註:男性同性愛者が出会いと行為を目的に集う場所)について教わった。「彼のおかげで人を愛することは学んだけど、あいにく自分の愛し方はわからないままだった」。幸い最悪の事態には至っていないが、彼の自尊心を踏みにじる弾圧はいまだ続いている。「一部の人から、お前がジョージアに戻ったら殺すって脅されていて国には帰れないんだ……。叔父もそのひとりだから」

 25歳で恋人ができたが、両親にカミングアウトしたのは32歳になってからだった。トビリシ国立大学で国際経済学を学ぶようになってからも、服のデザイン画はよく描いていた。当時、デムナが親しくしていたのは「チンピラみたいな仲間」で、彼がゲイであることに薄々気づきながら、そんなことには構いもせず、同性愛を嫌う人たちから守ってくれたのだという。「オープンにゲイとは言えない国だったから。僕は、自分が住んでいたようなエリアでもたくましく生きていたタフガイたちを見倣って、それっぽい格好をしていたよ。心の中はまるで違ったけど」

 大学卒業後、デムナはベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーについて書かれた新聞記事を偶然目にした。80年代初頭に「アントワープ・シックス」(ダーク・ビッケンバーグ、アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ドリス・ヴァン・ノッテン、ダーク・ヴァン・セーヌ、マリナ・イーの、6名の影響力をもつファッションデザイナーの総称)を輩出したことで知られるこの名門校に、デムナは母親の意に反して願書を送った。当時、同アカデミーのファッション科では、ヴァン・ベイレンドンクが教鞭を執っていた。「キンク」(註:性倒錯的な嗜好)をテーマにした遊び心あふれるクリエーションで知られているが、生徒だったデムナに自分と似たものを感じたという。ベイレンドンクのメールにはこう綴られていた。「ふたりとも頑固で、声高に夢を語るタイプだ。僕らにとって大切なのは、批判的な視点と政治的なステートメント、皮肉やユーモアを服に織り込むこと。そして完璧なテーラリングと美しいファブリックを愛すること」

画像: (左)2016年の米大統領選に出馬したバーニー・サンダースのロゴに似たポリティカルキャンペーンキャップ(2017年) (中)クロックスとのコラボレーションアイテム、ピンクのラバープラットフォームシューズ(2017年) (右)ソックスのようなリサイクルニットを用いたスピードスニーカー(2016年)¥107,800/バレンシアガ バレンシアガ クライアントサービス フリーダイヤル:0120-992-136

(左)2016年の米大統領選に出馬したバーニー・サンダースのロゴに似たポリティカルキャンペーンキャップ(2017年)
(中)クロックスとのコラボレーションアイテム、ピンクのラバープラットフォームシューズ(2017年)
(右)ソックスのようなリサイクルニットを用いたスピードスニーカー(2016年)¥107,800/バレンシアガ

バレンシアガ クライアントサービス
フリーダイヤル:0120-992-136

 アカデミー卒業後、デムナが最初の定職として見つけたのは、アヴァンギャルドファッションを先導し、モードの実験場とも呼ばれる「メゾン・マルジェラ」での仕事だった。採用担当者に提出期限1週間の課題を出された彼は、10種類のルックを描き、そのデッサンを油ぎったピザの箱に入れて送った。2週間後、彼はパリで暮らし始めていた。そこで数年ほど経験を積み、2013年に「ルイ・ヴィトン」へ移籍する。当時、同メゾンのアーティスティック・ディレクターだったマーク・ジェイコブスは、スティーブン・スプラウスと「モノグラム・グラフィティ」のバッグを創ったり、草間彌生と水玉模様のコレクションを展開したりと、モードとアートを融合する多様なコラボレーションを手がけていた。間もなくジェイコブスは退任したため、一緒に仕事をしたのは短期間だったが、インフルエンサーの時代が来る前にいち早くインスタグラムを活用し、ポップカルチャーをラグジュアリーメゾンに取り入れたジェイコブスのもとで、彼は多くを学んだ。たった3日間で全コレクションを完成させる離れ業など、数々の貴重なスキルも体得したというデムナは、「マークのことが大好きだよ」と微笑む。とにかくマークとの仕事は楽しかったそうだ。「マークは夜中だっていうのに、仕事しながらバーブラ・ストライサンドをカラオケで歌うような人だったんだ」。数カ月後、ジェイコブスのあとを継いでニコラ・ジェスキエールが着任すると、アトリエのムードはずっとシリアスになった。それでもデムナは、自分の世界観とはまるで違う、ジェスキエールの洗練された未来的なラグジュアリーに触れたことは価値のある経験だったと感じている。ジェスキエールのもとで数シーズンの間、複雑なつくりのアウターウェアのデザインを任されていたデムナは、以前の仕事では見たこともないとびきり高価な服も手がけた。「実はクロコダイルのコートのおかげで、生まれて初めて飛行機のビジネスクラスに乗ったんだ。コートは折りたたむことすらできなくて、コートもエアチケットを持っていたよ」

MODELS: SHIVARUBY AT STORM MANAGEMENT, TONI SMITH AT ELITE, BLESSING ORJI AT IMG MODELS AND BARBARA VALENTE AT SUPREME. HAIR: GARY GILL AT STREETERS. MAKEUP BY KARIN WESTERLUND AT ARTLIST USING DR. BARBARA STURM. SET DESIGN BY GIOVANNA MARTIAL. CASTING BY FRANZISKA BACHOFEN-ECHT

PRODUCTION: WHITE DOT. MANICURIST: HANAГ GOUMRI AT THE WALL GROUP. DIGITAL TECH: DANIEL SERRATO RODRIGUEZ. PHOTO ASSISTANTS: FRANВOIS ADRAGNA, JACK SCIACCA. HAIR ASSISTANTS: TOM WRIGHT, REBECCA CHANG, NATSUMI EBIKO. MAKEUP ASSISTANT: THOMAS KERGOT. SET ASSISTANTS: JEANNE BRIAND, VINCENT PERRIN. STYLING ASSISTANTS: CARLA BOTTARI, ROXANA MIRTEA. ALL PRODUCT IMAGES IN THIS STORY COURTESY OF BALENCIAGA

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