BY NAOKO ANDO, PHOTOGRAPHS BY YUJI ONO(OBJECTS), STYLED BY YUKARI KOMAKI(OBJECTS)
兼高かおるの名前を目にすると、鈴を転がすような美しい声の山の手言葉や、「兼高かおる世界の旅」(TBS系)のテーマソング「Aroundthe World in 80 days(80日間世界一周)」が自然に浮かぶという人も多いことだろう。同番組は、日本における海外旅行自由化以前の1959年から1990年まで放送された。兼高が、自身の視点、自身の言葉で伝えたのは、未知の世界を旅する喜びと、他国の文化を知ることの愉しさ、大切さだ。それらは31年にわたって無数の人々の人生に影響を与え続けた。
兼高かおる(本名 兼高ローズ)は、2019年1月、90歳で惜しまれながらこの世を去った。パンデミックにより世界が閉ざされた今こそ、彼女の声を聞き、彼女の意見を仰ぎたい。実際に会うことはかなわないが、著書をひもとき、生前の兼高を知る人々に話を聞いた。
兼高は、自著『わたくしが旅から学んだこと』(小学館)で、こう書いている。“人生。最初の3分の1は、あとで世の中の役に立つようなことを習う。次の3分の1 は、世のため、人のために尽くす。残りの3分の1は、自分で好きなように使う”。
彼女の人生における“最初の3分の1”は、1928年に神戸で誕生してからロサンジェルス市立大学留学後までだろう。自由な気質の母のもとでのびのびと育つも、学んだ女学校にはなじめなかったという。明るく前向きな雰囲気の留学先では一転、水を得た魚のように勉学に打ち込めたが、度がすぎて体を壊し、卒業前に帰国。東京でジャーナリストとして歩み始めた。ラジオ東京(現TBS)の番組出演をきっかけに、のちに「世界の旅」に発展する日本初の海外取材番組の話が舞い込んだ。
そこから“次の3分の1”が始まる。31歳のことだ。その後の31年間は「世界の旅」の番組作りに捧げられた。兼高は、プロデューサー、ディレクター、ナレーターなどを兼任。取材交渉から予算の管理までこなし、多くの場合、カメラマンとスタッフを加えた3名で海外取材を行なった。前例がないため、仕事の仕方を教えてくれる人は誰もいなかったという。当時のTBSの担当者で取材にも同行した多賀敬二は、彼女の様子を「まるで龍のように強く、天に飛んで行きそうな勢いだった」と振り返る。「それでいてエレガントな物腰と聡明なマナーを備え、見聞きしたことをそのまま受け入れる大きな器があった」とも。
多賀は、番組が500回を数え、軌道に乗った折に兼高とともに制作会社「教育文化制作」を設立し、独立。続く1,000回分は、同社で完成させた番組をTBSに納品する形をとった。負う責任は増大したが、前もってストーリーを決めず、現地で取材を進めつつ番組の方向性を決めていくスタイルの兼高にとって、自身の判断でテーマをより深く掘り下げられる体制を整えたのだ。兼高の口癖「“これしかない”、と考えない」を旨としてあらゆる可能性を追求して徹底的に取材し、練り上げた30分番組の濃密さ、上質さは、色褪せることがない。
“旅と映画が好きな人募集”。新聞の求人広告に惹かれ「教育文化制作」に入社した新井明徳は、初出張のペルー往復の機内を一張羅の礼服で過ごした。「正装のパーティ取材などの際に着用するため必ず持ってくるように言われた礼服をスーツケースに入れ、ジーンズで空港に向かったところ、飛行機に乗る前に兼高さんから“着替えなさい”と言われたのです」。「世界の旅」の取材は、協賛の航空会社の計らいでスタッフもビジネスクラスでの移動だったため、兼高は機内でもきちんとした服装でいることを求めたのだった。
兼高に常に降り注がれた“エレガント”という称賛の言葉は、“マナーとTPOを徹底して守る”ことからきていると語るのは、秘書を一年間務めたのち、生涯にわたり深い交流のあった長内恵子だ。「着飾った自分を見てほしいという気持ちは、本人には一切なかったでしょう。周囲に失礼にならないように、あるいは取材相手からきちんとした対応を引き出すために、という気配りを常におもちでした」。
「世界の旅」で出演者も兼ねていた兼高は、衣装も自分で用意した。基本は、ワンピース。放送一回分の取材時は同じ服装で通し、ホテルで毎晩洗濯したという。乾きやすく、かさ張らないことから、薄手の素材のものを愛用した。30日間休みなしの海外取材を終えると、次の30日間は日本で編集とナレーション収録、次の取材準備という多忙な日々。空路は香港経由が多かったため、取材先で求めた布地を帰路、香港のお気に入りのテーラーに預けてオーダーしておき、次の取材に向かう際に立ち寄って受け取り、取材先でそのまま着用するという“技”も駆使した。「晩年まで、椅子に座る際も膝が常に揃っていました。いわゆる“運動”はなさいませんでしたが、足腰の筋力は相当だったと思います」と長内。オフィスでお茶を淹れ、スタッフに振る舞う所作も惚れぼれするほど美しかったという。
そのオフィスは兼高の実家の敷地に建てたマンションの2階にあり、7階に住む兼高は、エレベーターで出勤。別フロアには母と兄夫妻の住まいもあった。新井は「ママさん(兼高の母)が"電球を替えて"と顔を出すこともあった」と回想する。オフィスで忘年会を開いたことも。「酔っ払ったスタッフが暴れて、兼高さんのデスクのそばの壁に穴をあけてしまったことがありました。兼高さんはまったく怒らなかったのですが、その穴は、修理をせずに長い間見せびらかされていました」。胆力とユーモア。知性とエレガンスにこれらが加われば、魅了されない人などいないだろう。
「世界の旅」終了後から、“残りの3 分の1”が始まった。秘書を辞してからは夫の海外駐在先で暮らしていた長内の家を、兼高はよく訪れたという。「ハバロフスクに住んでいた2005年には、シベリア鉄道でモスクワまで旅をしました」。長内の夫がラトビア大使として赴任した際は、ロシアのサンクトペテルブルクで待ち合わせて観光したあと、ラトビアの首都リガへ。私的な旅でも常にメモを取り、時刻表などを調べていたそうだ。
その頃、新たに親しくなったのが、親子以上に年の離れた森繁牧子だ。「パリ留学中、知人の家に滞在していたのですが、夏休みに一時帰国する際、入れ替わりに兼高さんをお泊めすると伝えられたのです。“あの兼高さんが!”と、夢中で掃除しました」。そのときに森繁が残したベッドメイクを兼高が気に入り、「この娘(こ)に会いたい」と食事に誘われたという。親交を深めるうち森繁の母とも親友になり、さらに兼高と旧知だった森繁の祖父、俳優の森繁久彌を含めた家族ぐるみの付き合いが続いた。
兼高は、晩年まで日々新聞を読み込み、戦争と環境破壊がやまない世界を「このままでは地球がだめになってしまう」と憂えた。そのために何かしなければと、2014年、「一般財団法人兼高かおる基金」を設立。長内が代表理事の一人、森繁が理事の一人を務めている。まずは“医学に関わる学生を支援したい”と、2016年に関西看護医療大学にて給付型の奨学金制度を設けた。ほかに、国公立の医科大学でも同様の制度を準備中だ。今後も多種多様なサポート活動を続けていく。また、2021年度から中学の道徳の教科書、2022年度からは高校の英語の教科書に兼高の言葉や人生が紹介される。加えて、放送大学の講義として「世界の旅」が採用され、兼高の“世界の見かた”を学問とする話が進行中である。
“世界を旅すると、日本のように一つの言語で話が通じ、比較的同じような価値観で生活している国民というのはごく少ないことがわかります。広く世界を知るとは、「他者」というものを理解することにつながります。世界にはさまざまな人がいることを知れば、簡単に人を見下すこともなくなります”(『わたくしたちの旅のかたち』(曽野綾子との対談集/秀和システム)より)。
「これからは、私たちが学び、世に尽くす番です」と長内。兼高が「世界の旅」を通じて撒いた種が、今後さまざまな場所で花開いていく。そして結実し、また種を残すだろう。