BY TAKAKO KABASAWA, PHOTOGRAPHS BY YUKO CHIBA

自家菜園の朝採れ野菜をはじめ、“東京”の食材にこだわるフレンチレストラン「L’Arbre(ラルブル)」
《EAT》「L’Arbre(ラルブル)」
未知なる“東京の恵み”を一皿に描く

地元の牧場で健やかに育った子山羊は、稲藁焼きで新鮮な旨みを味わう
無為自然な万緑に包まれながら車を走らせ、到着した有形文化財の空間で料理を味わう。大人の旅の目的は、それだけで十分に心満たされる。今回、そんな想いで訪れたのは2023年10月にオープンした「L’Arbre(ラルブル)」だ。オーナーシェフの松尾直幹さんは、あきる野に隣接する西多摩郡瑞穂町の出身。帝国ホテルで長きにわたりフランス料理に携わり、同「レ セゾン」ではスーシェフを担い、パリの三つ星レストランでも経験を重ねた。

取材に訪れた時季は滋味豊かな山菜が盛りを迎えていた
多くのシェフ仲間が都心で独立をのぞむなか、松尾さんは「はじめから地元に戻るつもりでいました」と語る。山の幸に恵まれた西東京エリアで育ったこともUターンを決めた所以だが、前職で料理を手がけながら「東京のホテルなのに“東京の食材”にこだわっていないことが不思議でならなかった」という。独立したら“東京出身”の食材でもてなしたい、いつしかそんな構想が地層のように心に積もる。ノラボウ菜やスズノダイズといった在来種野菜、江戸前鮎、平飼い烏骨鶏卵、山羊チーズにワサビ、日本酒からワインまで、魅力溢れる地産の食材が手に入るあきる野は、松尾さんにとって願ってもない土地だった。

築150年を経た有形文化財「小机家住宅」。ローマン・ドーリア式の円柱や両開窓が西洋の息吹を漂わせて

広い玄関の正面には、「鏝絵(こてえ)」と呼ばれる漆喰を用いた左官彫刻で兎を創出
21年勤めた帝国ホテルを離れ、松尾さんが最初に取り組んだのは、物件探しではなく菜園である。土地に根付いた野菜を育てるうちに地元の人との交流が生まれ、食に限らず陶芸や木工芸、染織など、この地の文化背景を知ることに。料理をふるまう器、室内の装飾、自らが纏うコックコートに至るまで。小さな出合いのすべてがレストランのアイディアへと繋がりはじめた頃、東京都指定の有形文化財「小机家住宅」の縁が巡ってきた。

個室は3室。それぞれのランプシェードを「月」「大地」「星」のテーマでデザイン

釘隠しにも兎の彫金細工が用いられて
江戸時代後期に山林業で財をなした小机家は、文明開花のエッセンスに彩られた明治8年(1875年)築の擬洋風様式。1階には洋風列柱廊を、2階にはバルコニーを模したデザインを施し、エクステリアの随所に曲線を取り入れた。それでいて、内部は伝統的な田の字形に部屋が並ぶ四間取の構造をなす。細部に和風の意匠が施され、古今東西の空間美が交差する。
レストランとして利用するにあたり、文化財エリアは最低限の手を加えるのみで建物の趣はそのままに。玄関で出迎えられた兎の鏝絵から想起し、月をイメージしたペンダントライトを誂えるなど松尾さんならではの物語をさりげなく秘めた。そのシェードに用いた和紙は、もちろん地元の軍道和紙(ぐんどうわし)だ。

ランチ、ディナーのコースともにふるまわれている温前菜の「山羊の稲藁焼き」
取材では、同店のスペシャリテ「山羊の稲藁焼き」をいただく。主役は、レストランからさらに山間部に分け入った「養沢ヤギ牧場」で育まれた生後9〜11カ月の子山羊。「牧草がほのかに香る鮮度の高い肉は、表面のみを稲藁で燻しタタキで味わうのが最も贅沢」と松尾さん。添えられた新ジャガのブーランジュールとヴァンジョーヌソースが心躍る変化をもたらす。薪窯で焼かれたブリオッシュやワインといった名脇役もあきる野ブランドだ。
増築エリアを改装したオープンキッチンでコース料理を堪能したフィナーレは、文化財エリアへと移動し、デセールをいただく。軽やかなジャズが流れるモダンな空間から、人工的な音を遮断した歴史的な空間へ。未知なる“東京”を味わい尽くした余韻が、薫風によって運ばれた樹々の囁きのなかに静かに溶けていった。

文化財エリアから増築された空間は、モダンなオープンキッチンへと改装。松尾さんがまとうコックコートには、一箇所だけあきる野の黒八丈染めのボタンが飾られている
住所:東京都あきる野市三内490
電話:042-596-0068
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《STAY&EAT》「風姿 FUSHI(ふうし)」
緑風わたる山水画のなかで一昼夜を過ごす

一幅の絵画のようなラウンジ
秋川を臨む山間の宿と聞き、胸中に期待を膨らませ玄関に立つ。扉の先には坪庭が広がり、支配人に導かれるままに数段の階段を降りると、思いがけない景色に目を奪われた。床からの1.5mの高さに極めて深い軒を据え、23mに及び柱や壁で遮られることのないオープンラウンジからは、深緑に包まれた目前の岩瀬峡が一幅の山水画のように横長に切り取られている。目の前に広がる山々の全景をパノラマで見せるのではなく、計算されたフレーミングで抑制するように設計。中央に配したジャグジーに映り込む景色と重層的な色彩を奏で、息を呑むほど美しい。

深くせり出した軒が昼間の輝く陽光を軒裏に映し、柔らかな光を室内に運んで

左官仕上げによる墨色の浴槽を、樹々の緑が幻想的に満たす
ここ「風姿 FUSHI」は、2024年3月にオープンした一客一亭の宿。川に沿って100mほど下ったところに位置する、地元の老舗日本料理店「黒茶屋」の別邸として誕生した。訪れる人を一瞬にして虜にする仕掛けは、ランドスケープ建築を得意とする建築家・手塚貴晴氏によるもの。
ラウンジに据えたジャグジーしかり、バスルームもまた絶景を引き込む装置といえる。左官仕上げの墨色の浴槽は、水を満たすとまるで一石の巨岩となり、谷の樹々を投影し無限の幻を編むようだ。隣り合うベッドルームやリビングは細木をわずか1mmの隙間を開けてはぎ合わせ、数寄屋建築などに見られる隠し釘の技も冴える。その繊細な空間には、オリジナルの家具をはじめ、オーナーの審美眼で集められた骨董品やヴィンテージの調度品が個性を添えている。

南米由来の重厚なサペリの一枚板をテーブルに設えて。キャンドルを灯したダイニングは、料理をドラマティックに演出する舞台のよう
COURTESY OF FUSHI

食事とともに味わいたい地元の銘酒「喜正」
宿の満足度を左右する食事は、同社の総料理長が一組だけの特別な空間の中で、旬の山里料理を振る舞う。その時々に竹林の竹を器として切り出し、技巧的な料理ではなく、あるがままの自然の恵みを何よりのご馳走として、都心の料亭にはない趣向を凝らしている。初夏からは鮎やジュンサイが清らかな風味を運ぶだろう。
さらに「風姿」のチェックインは13時、チェックアウトは翌日の15時。2日目の軽い昼食まで含め、通常の宿泊に比べると“1.5泊分”ともいえる滞在時間を過ごすことができる。何もしない贅沢を堪能するもよし。ゲストの希望に応じ要予約のオプションにて、ラウンジを舞台に見立てた能楽師の舞の鑑賞や立礼茶会、禅師が誘う座禅体験も叶う。1泊2名で¥550,000〜という金額を、果たして高額に感じるか否か。1人¥44,000〜の食事だけのプランもあるため、まずは格別な非日常の空間と究極の里山料理を存分に満喫していただきたい。

テラスでの朝食は渓流の涼風に包まれて

一見するとコンパクトな平屋造りのようだが、230平米の空間を独り占めできる
住所:東京都あきる野市小中野177-1
TEL:042-588-5311
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【CAFE】「黒茶屋〜野外テラス 水の音」
納涼に浸る水辺のカフェ

渓流のBGMが間近に感じられる
「風姿 FUSHI」の滞在とともに訪れたいのが、1968年創業の地元では老舗の日本料理店「黒茶屋」内にある「野外テラス 水の音」だ。渓谷の斜面に増築された古民家が軒を連ね、民話の世界にタイムスリップしたような風景が広がる。ゆったりと母屋で旬の味覚を楽しむもよし、敷地内を散策がてらテラスで納涼に身を委ねるなど、思いのままに過ごすことができる。モダンな佇まいの「風姿 FUSHI」と、日本古来のノスタルジーを誘う世界観とのコントラストも旅の記憶を豊かに彩る。

柚子の爽やかさが薫るあきる野メイドのサイダー
COURTESY OF KUROCHAYA

清閑な山居を巡るように敷地内を散策するのも一興
COURTESY OF KUROCHAYA
住所:東京都あきる野市小中野167
TEL:042-596-0129
公式サイトはこちら

樺澤貴子(かばさわ・たかこ)
クリエイティブディレクター。女性誌や書籍の執筆・編集を中心に、企業のコンセプトワークや、日本の手仕事を礎とした商品企画なども手掛ける。5年前にミラノの朝市で見つけた白シャツを今も愛用(写真)。旅先で美しいデザインや、美味しいモノを発見することに情熱を注ぐ。
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