BY AIMEE FARRELL, PHOTOGRAPHS BY HENRY BOURNE, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

フォン・デア・ベッケ邸。サロンにあるルドルフ・イバッハ・ゾーン社のグランドピアノは、滞在客のひとりが残していったもの。ほかの部屋へと続く出入り口には、ベルンハルトの複製版画のコレクションがさりげなく飾られている。18世紀の暖炉の上にあるミクストメディア作品と、窓辺のワイヤ製のランプシェードは、南アフリカ出身のアーティスト、ヘレナ・プリチャードによるもの。
WORK ABOVE FIREPLACE: HELENA PRITCHARD,“APERTURE PAINTING,” 2021 © HELENA PRITCHARD, COURTESY OF THE ARTIST; SCULPTURE ON FLOOR, REAR RIGHT: HELENA PRITCHARD, “EPHEMERAL ASSEMBLAGE,” 2023 © HELENA PRITCHARD, COURTESY OF THE ARTIST
1975年2月、版画専門のアートディーラーであるドイツ人、ベルンハルト・フォン・デア・ベッケは、イギリスの新聞をめくりながら、ある不動産広告に目を留めた。掲載されていたのは、ロンドンから南西へ約80㎞、サウスダウンズの丘陵地帯にある、六つの寝室を備えた大邸宅。当時はミュンヘンを拠点にしていたが、その数年前までロンドンに住んでいた彼は、イギリスの田園生活に特別な憧れを抱いていたのだ。1690年頃に建てられたというジャコビアン様式(註:17世紀英国の、ゴシックと古典装飾が混在する建築様式)の邸宅をひと目見た瞬間、彼は即座に心を決めた。長い私道の先にひっそりと隠れ、農地に囲まれたその家は、壮麗でありながら牧歌的な薫りを漂わせていた。その年の終わりには、妻のブランカと二人の幼い子どもたちを伴って、念願の移住を果たした。「父はこの家にひと目惚れしたんです。当時はこんな大きな屋敷には誰も見向きもしなかったんですが」と語るのは、この家で生まれ育った末娘のカーラ・フォン・デア・ベッケ(47歳)。2021年に母親を亡くしてから、カーラは認知症を患っていた父、ベルンハルトを支えるためにこの家に戻ってきた。しかしベルンハルトも同じ年の12月、92歳で静かに息を引き取った。

書斎の床やスツールに積まれているのは、20世紀前半のドイツを代表する芸術家、ケーテ・コルヴィッツの複製版画。マントルピースにはアンティークの狩猟用ホルンが、長椅子の上部にはヨーロッパの古地図が飾られている。
ミュンヘンにいた頃のベルンハルトは、美術商だった父親のアレクサンダーが1931年に創設した版画制作工房「A・フォン・デア・ベッケ&サン」を受け継ぎ、妻のブランカとともに、国際色豊かな都会暮らしを満喫していた(工房は1970年代に閉鎖したが、古くからの顧客にはその後も長く版画の販売を続けた)。だが人里離れたサセックスの田園地帯に移ってから、一転してボヘミアンスタイルの田舎暮らしを謳歌するようになった。カーラは今でも、トラクターを運転し、チェーンソーを当たり前のように使いこなしていた父親の姿を覚えている。彼がランドローバーで約9ヘクタールの広大な敷地をひと回りするとき、カーラはそのルーフに座らせてもらえたという。鶏やガチョウを飼い、ラズベリーやカシス、グーズベリーやブドウを育て、子どもたちはサンダンスと名づけたシャイア種の馬に、ウエスタン調の大きなサドルをつけてまたがり、田園の中をさっそうと駆け巡った。
敷地内にはいくつかの離れがあり、食器洗いや料理の下ごしらえをする小部屋や厩舎のほか、ベルンハルトが実験的なデザインの家具やモダニスト風ツリーハウスのパーツをつくる木工工房もあった。ツリーハウスが完成すると、カーラはよくそこで夜を過ごしたそうだ。母親のブランカは、この木工工房と同じ建物に絵画スタジオを構えていた。またメインハウスの2階にはベルンハルトが設けた暗室がある。ここで彼は外出先で撮りためた数多くの家族写真や風景写真を現像した。プラハで生まれ育ったブランカは、軽やかなロングドレスに花をあしらった帽子を合わせ、石張りの床のキッチンで、よくチェコ風のシチューやハンガリーの煮込み料理「グヤーシュ」をつくっていたそうだ。キッチンは今もセントラルヒーティングがなく、巨大なレンガ張りの暖炉で暖められている。

キッチンのダイニングテーブルの上には、農具を使ったプリチャードのモビール・オブジェが吊るされている。
MOBILE: HELENA PRITCHARD, “ELEMENTS OF DANGER,” 2021 © HELENA PRITCHARD, COURTESY OF THE ARTIST. OPPOSITE: SCULPTURE: HELENA PRITCHARD, “FREE-FORM VERTICAL SCULPTURE 54,” 2021 © HELENA PRITCHARD, COURTESY OF THE ARTIST
2階にあるバスルームの壁は、ペールグリーンの羽目板で覆われ、ところどころに古風なバラが描かれている。これもブランカがアンティークのティーカップの絵柄をもとに描いたものらしい。「両親は、自分たちだけの小さな島と呼べるような独創的な世界を築き上げていました。当時とても保守的だったこの地域で、この家はまさに"別世界" でしたね」とカーラが回想する。彼女は2015年から、ロンドンを拠点にするPR会社、アルバニー・アーツ・コミュニケーションズのディレクターを務めている。「囲の人々がどう思っていたのかは知りませんが、私にとってはこの世界こそがスタンダードでした」

2階のバスルーム。羽目板張りの壁を彩るのはブランカが手描きしたバラのモチーフ。
>時に身を委ねた家②へ続く
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