日本のクリエイティブを黎明期から牽引してきた小池一子。自らの役割を物理学の“中間子”になぞらえ、デザイナーやアーティストをつないできた。その熱量はどこからくるのか、話を聞いた

BY NAOKO ANDO, PHOTOGRAPHS BY YUSUKE ABE

 小池一子の仕事をひと言で説明するのは難しい。理由は主に3つある。
 ひとつ目は、「クリエイティブ・ディレクター」という肩書。この「クリエイティブ・ディレクター」こそ、コピーライターからスタートした小池の仕事が多岐に広がり始め、ひと言では説明できなくなったことに悩んだ小池自身が名付けた肩書なのだから仕方ない。現在では“プロジェクトの企画段階から制作工程全般における総責任者”といった意味で使用されるが、最初に名乗りを上げたのは、当然ながら小池である。この肩書での代表的な仕事が「無印良品」の立ち上げだろう。
 ふたつ目は、「クリエイティブ・ディレクター」として多忙を極めながらも「佐賀町エキジビット・スペース」を主宰したこと。日本で初めての、まだ評価の定まらないエマージング・アーティストの作品発表の場として国内外で大きな注目を集め、多くのアーティストを輩出した。ここから、小池自身の仕事も現代アートとの関わりが深くなっていく。
 3つ目に、上記に加えて執筆、翻訳、大学教授、美術館館長などの仕事を好んで同時進行してきたことが挙げられる。小池はこれを仕事の“ジャグリング(お手玉)”と呼ぶ。
 そんな小池の60年を超えるキャリアの俯瞰を試みる展覧会が、2022年1月に予定されているという。それは取りも直さず、“日本のクリエイティブ史のまとめ”ともいえるものになるだろう。準備中の小池を訪ねた。

画像: アメリカ・西海岸でキュレーターとして活躍し、イームズ夫妻と親交のあったデクストラ・フランケルが遺したラウンジチェアと。デクストラは小池の夫ケンの母で、小池の仕事の先輩でもあった。「イッセイ・ミヤケ」のワンショルダーパンツにインド綿のブラウス、手首にはケンお手製のロープ編みと、海中で発見された木材を使った中国人アーティスト作のブレスレットを重ねた

アメリカ・西海岸でキュレーターとして活躍し、イームズ夫妻と親交のあったデクストラ・フランケルが遺したラウンジチェアと。デクストラは小池の夫ケンの母で、小池の仕事の先輩でもあった。「イッセイ・ミヤケ」のワンショルダーパンツにインド綿のブラウス、手首にはケンお手製のロープ編みと、海中で発見された木材を使った中国人アーティスト作のブレスレットを重ねた

 展覧会のタイトルは『オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな文化創造に向けて』。自身の仕事と人生を表現する言葉として、小池は“オルタナティブ”を選んだ。「既存の価値観では規定されない、その時代ならではの新しい価値観を生み出す“もうひとつの選択肢”といった意味でこの言葉を使っています」と小池。1983年の「佐賀町エキジビット・スペース」開設当時も、小池はこの場所を“美術館でも商業ギャラリーでもない、もうひとつの美術の現場=オルタナティブ・スペース”と呼んだ。「アーツ千代田 3331」で行われる今回の『小池一子展』の展示のメインとなるのは、その「佐賀町エキジビット・スペース」で発表された作品群だ。

画像: 「佐賀町エキジビット・スペース」から世界に羽ばたいたアーティストのひとり、森村泰昌の、セルフポートレートをテーマとする初期作品を検品中。作品の中の森村に「久しぶり!」とにっこり 森村泰昌《肖像(黒)》1986年 発色現像方式印画 ©️ YASUMASA MORIMURA

「佐賀町エキジビット・スペース」から世界に羽ばたいたアーティストのひとり、森村泰昌の、セルフポートレートをテーマとする初期作品を検品中。作品の中の森村に「久しぶり!」とにっこり
森村泰昌《肖像(黒)》1986年 発色現像方式印画 ©️ YASUMASA MORIMURA

 仕事場を訪ねた際、小池は展覧会に展示する作品の検品中だった。梱包を解いて森村泰昌の作品を見れば「あら、久しぶり!」と笑顔になり、杉本博司の作品を前にすれば「暗部のディテールの焼き込みが素晴らしいのよ」と見入る。どちらも現在では世界的なアーティストの最初期の作品だ。20~30年ぶりに作品を目にした小池の喜びと興奮が、周囲の空気を温かく震わせている。小池がアーティストの名前を口にするとき、その声色にはすでに尊敬と愛が含まれている。「クリエイティブ・ディレクター」として時代の先端を切り開いて活躍する多忙な身でありながら、そして経済的に大きな責任を負いながらも、なぜアーティストを支援する場を作ることに身を投じたのかを問うと、「アートに惹かれて何かを始める人の動機にはいろいろあると思うけれど、私の場合は、現代アートに魅せられてしまった。それ以外、何もないの」と答えた。そうして、「海外には数多くある現代アートのギャラリーがなぜ日本にはないのかと義憤にかられて」突っ走ったのだという。

画像: 杉本博司は1988年と1991年に「佐賀町エキジビット・スペース」で個展を開催した。写真の保存状態を確認しながらも、つい見とれてしまう 杉本博司《MARION PALACE, OHIO》1980年、《CANTON PALACE, OHIO》1980年 ゼラチンシルバープリント ©️ HIROSHI SUGIMOTO

杉本博司は1988年と1991年に「佐賀町エキジビット・スペース」で個展を開催した。写真の保存状態を確認しながらも、つい見とれてしまう
杉本博司《MARION PALACE, OHIO》1980年、《CANTON PALACE, OHIO》1980年 ゼラチンシルバープリント ©️ HIROSHI SUGIMOTO 

画像: シェラ・キーリーのアーティストブック シェラ・キーリー《hand-made folding book》1987年 ©️ SHELAGH KEELEY

シェラ・キーリーのアーティストブック
シェラ・キーリー《hand-made folding book》1987年 ©️ SHELAGH KEELEY

「佐賀町エキジビット・スペース」が入居したのは、1927年に建てられ、かつて米市場として使われていた「食糧ビル」。瀟洒(しょうしゃ)な洋風建築だが、取り壊しを待っているかのような古い建物だった。高度経済成長期のスクラップ&ビルドを目の当たりにしてきた小池には、都市が備えている近代遺産を生かして再活用したいという思いがあったという。このビルの中の天井高5mにも及ぶ広い講堂を「佐賀町エキジビット・スペース」の場として選び、底上げされたビニールタイルの床をはがして元のコンクリートをあらわにするなど、建物本来の姿に近づけるかたちで再生した。新進気鋭のアーティストが存分に個性を発揮する展覧会の評判が高まり、多くの人が集まるうちに、次第にこの「食糧ビル」に現代アートを扱う若いギャラリストが入居し始め、さらに活況を呈するようになった。

 現在、周囲を見渡してみると、この「佐賀町エキジビット・スペース」で小池が行なったことの多くが、今につながっているのがわかる。現代アートを紹介するギャラリーは、今では数多く存在する。古い建物をなるべく本来のかたちで再生するリノベーションも盛んに行われるようになった。複数のギャラリーが同じビルに同居する“アート・コンプレックス”と呼ばれる形態も少しずつ増えている。

 小池が“オルタナティブ”という言葉に出会ったのは、1960年代に訪れ大いに刺激を受けたロンドン・キングズロードだという。「マリー・クヮントが発表したばかりのミニスカートや古着を自由に着こなした若者たちが街を闊歩していて、彼らが集まるカフェがあって、エネルギーに満ちていました。これが、“オルタナティブ・ロンドン”。既存の英国の価値観に対しての若者による異議申し立てとして、もうひとつの価値観が生まれたということよね」。当時の日本には、ファッションからテーブルマナーまで、欧米のあらゆるハイスタンダードが流入していたという。「私たちはこぞってそれらを手に入れ、学んだけれど、ただまねするのではない、“オルタナティブ”なもうひとつの人生の楽しみ方、もうひとつの選択肢が“見つかった!”と思ったの」

画像: フロッタージュ手法で「佐賀町エキジビット・スペース」の床の表層を鉛筆で刷りとった岡部昌生の大作 岡部昌生《STRIKE-STRUCK-STROKE AT SAGACHO Stroke-on the floor, June 28―July 5, 1986》1986年 フロッタージュ、オイルチョーク、布 ©️ MASAO OKABE

フロッタージュ手法で「佐賀町エキジビット・スペース」の床の表層を鉛筆で刷りとった岡部昌生の大作
岡部昌生《STRIKE-STRUCK-STROKE AT SAGACHO Stroke-on the floor, June 28―July 5, 1986》1986年 フロッタージュ、オイルチョーク、布 ©️ MASAO OKABE

 1983年に開設した「佐賀町エキジビット・スペース」を「オルタナティブ・スペース」と呼び、2022年に行う自らの展覧会にも、小池は“オルタナティブ”を冠した。約40年間で、“オルタナティブ”という言葉そのものもよく聞かれるようになった。この言葉が表す考え方や行動が徐々に浸透して既存の価値観にとらわれない新たな道を作り、私たちの日常をよりよく更新していくのだろう。“オルタナティブ”をベースとした小池の考え方は、実父・矢川徳光からの影響が大きいという。「1920年代のソビエトの教育理念から入ってコミュニストになり、“すべての人が幸福でなければ自分の幸福はない”という理想主義者でした。私は父の考えとは少し違うけれど、いつでも社会の変革に力を注ぐことが、私にとっての理想だと思っています」

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