BY MICHAEL SNYDER, PHOTOGRAPHS BY PHILIP CHEUNG, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA

2階は研究者とスタッフが住むアパートメントとして使われている。この建物にはジョン・チェンバレンの絵と、フィンランド人家具作家のアルヴァ・アアルトの家具が置かれている。
JOHN CHAMBERLAIN, “TOUREIRO,” 1964, METAL AND LACQUER WITH REFLECTIVE FLAKE ON
FIBERBOARD © 2025 FAIRWEATHER & FAIRWEATHER LTD./ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK.
ジャッドはミズーリ州で生まれた。父はウェスタンユニオン(金融会社)に勤め、祖父母は農業を営んでいた。そんな彼の建築に対するアプローチは、中西部流の実用主義に基づいていた。「ドン(父・ドナルド)の美学とデザインはすべて、単一の倫理基準から生まれています」とフレイヴィンは言う。それは、「エネルギー、時間、資金は有限であり、どれかひとつでも無駄にしているならば、過ちを犯している」というものだ。ジャッドは1987年の『Art and Architecture(アートと建築)』というエッセイで次のように述べている。「『重要』『重要ではない』にかかわらず、建物はすべて同じように現在の姿を残すべきである」。チナティ財団の運営・保存担当ディレクターであるピーター・スタンレーが率いた再生プロジェクトの第二段階は、ジャッドのその考えに従った。
今秋、「ジャッド建築事務所」は再び公開される予定だ。新しい換気設備とリサイクルデニムの断熱材が採用され、上階は研究者とスタッフの居住スペースになっている。老朽化のため板でふさがれていた窓は覆いがはずされ、今はジャッドの建築─彼の好きな言葉のひとつである「理にかなっているかどうか」を思考軸とする─に対する新たな考察を歓迎しているかのようだ。
陸軍工兵司令部の一員として朝鮮半島に滞在していた1947年、ジャッドは自分が進むべき道を建築ではなくアートに定めた。「建築家は顧客や世間と向き合わなければならない。それが決定的な要因だった。そんなことは自分にできるわけがないと思った」。40年後、彼はそう記している。それでもなお、ジャッドはコロンビア大学で哲学を専攻するかたわら、ルネサンス建築および植民地化される以前のラテンアメリカ建築を研究し、均整の法則(これをのちに彼は「目に見える合理性」と表現する)、そしてアートと建築空間との自然な融合について貪(むさぼ)るように吸収した。ジャッドはアートと建築は明確に線引きする必要があると、長年主張しつづけていたが、制作においては「アートと建築のアイデアはつねに絡み合い、変化していた」と、チナティ財団のエグゼクティブ・ディレクターであるケイトリン・マレーは言う。

(ON WALL) JOHN CHAMBERLAIN, “UNTITLED,” 1964, METAL AND LACQUER WITH REFLECTIVE FLAKE ON FIBERBOARD © 2025 FAIRWEATHER & FAIRWEATHER LTD./ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; (ON FLOOR) DONALD JUDD BED © 2025 JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK
物語や構成、自己表現に着目するのではなく、フォルムや素材、色、そして空間に興味をもっていたジャッドは、プライウッドやプレキシガラス、ステンレススチールなどの素材で立体作品を作り、これらのアートが置かれた環境でどのように存在し、かつその空間に対してどう作用するのかについて探究した。立体作品の制作は第三者に依頼していたが、このやり方を始めたのは1960年代にさかのぼる。美術館やギャラリーは、かの有名な箱のオブジェをはじめとするジャッドの作品を、その周囲の空間から切り離して展示した。一方で、ソーホーのスプリングストリート101番地においては、既存環境への介入を最低限に抑える建築、そしてアートの恒久的な展示のあり方について、ジャッドは並行して思考を発展させることができたのである。5階建てのこのビルは、どの階もオープンフロアでそれぞれが単一の用途――寝る、客をもてなす、料理をするなど――を満たす専用の空間になっており、ここではアートが建物の規模と均整に呼応している。のちに彼はこのモデルを、マーファに所有するすべての建物に応用することになる。
ジャッドは亡くなったとき、すでに20世紀のアーティストのなかでもっとも崇拝される者のひとりであったが、経験主義に基づく明快な作風と示唆に富んだ硬質の筆致によって、不朽の名声が与えられた。だが、アトリエでの彼はむしろ「遊んでいる子どものよう」であったと息子のフレイヴィンは言う。美術史家たちはいまだにジャッドをミニマリスト(本人はこの言葉を嫌悪していた)に分類しているが、ジャッドが築いた空間にはビーダーマイヤー様式(註:19世紀前半にドイツとオーストリアで流行した文化様式)の家具やプエブロ陶器(註:ネイティブアメリカンであるプエブロ族の集落で作られる陶器)、レンブラントの銅版画などがふんだんに置かれ、調理器具がずらりと並び、彼の好みや興味の対象は実に広範であったことが窺(うかが)える。「ジャッド建築事務所」には、アルヴァ・アアルトの家具、そして自動車用のメッキ塗料とパール顔料で描かれたジョン・チェンバレンの作品を、ジャッドは対比させるように配置した。
1970年代の後半からジャッドはたびたび、10年にわたり制作のパートナーであり恋愛関係にあった建築家で研究者のラウレッタ・ヴィンチャレッリとともに設計の仕事を始めるつもりだと口にしていた。その計画は実現しなかったが、ふたりは実際に野心的な提案をいくつも共同で作成しており、クリーブランドの湖畔プロジェクトやロードアイランド州プロビデンスの公共広場などがその例である(どちらも建設されることはなかったが、「ジャッド建築事務所」に今も模型が展示されている。ジャッドは自分たちの提案が実現しなかったがゆえに、「プロビデンスのケネディ・プラザなんて誰も聞いたことがないし、プロビデンスという地名すら知られていない」と、例によって辛辣(しんらつ)な言葉で綴っている)。ジャッドとヴィンチャレッリは、目新しいものに忠誠を誓う米国文化と、ポストモダンの復活を軽々しくうたう時代の風潮─ジャッドはこれを「資本主義者のリアリズム」と呼んだ─のせいで古典的なフォルムが「切り絵細工」のような造形になり、神聖なままであるべき土地が収益化の手段になってしまったと断じた。

ALVAR AALTO CHAIR © 2025 ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/KUVASTO, HELSINKI. ALVAR AALTO FURNITURE © 2025 ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/KUVASTO, HELSINKI
解体は必要な場合のみ行う。周囲の環境に配慮する。未開墾の土地にはなるべく建てない─。これらの原則は今や当たり前になっているし、世界を見渡せば、合理的な設計を行うチリの建築事務所ペゾ・フォン・エルリッヒスハウゼンや、バングラデシュの伝統的な素材を大胆な発想で建築に活かすマリーナ・タバスムなど、かつてジャッドが心を砕いた美へのこだわりは、至るところにはっきりと見てとれる。ジャッドは嫌いな建築に言及するときは、ことごとく「ファシスト」という言葉を用いた。彼がこの言葉を度が過ぎるほど連発していたことですら、今年1月に新古典主義を米国政府の建築様式とする、第1次トランプ政権時代に署名された大統領令が復活したことを受け、とても適切な振る舞いであったと今さらながら感じられる。1991年に開催された自身の建築展の目録に寄せたエッセイで、ジャッドは湾岸戦争に対する批判も展開し、次のように述べている。「ファシスト建築の中核をなす性質は攻撃性ではなく、浅はかさである」
ジャッドはマーファの建築を救おうと心血を注いだが、自分がマーファの中心地を買い占めたことがこの町の社会構造を変容させるとは予想だにしていなかった。彼自身はマーファを芸術家のコロニーにするというアイデアを嫌悪していたが、結果的にこの町は彼のレガシーのおかげでそうなってしまった。「現在のマーファを見たら、彼は驚いて心臓発作を起こすでしょう」。そう話すのは、ジャッドのきわめて初期のデザインの家具をいくつか制作し、長年彼のアート作品の手入れをしていたアルフレード・メディアーノだ。ジャッドは職人たちを高く評価していたが、彼自身の方向性と相いれないときは職人たちの知識と経験をまったく尊重しなかった。たとえば日干しレンガの囲いの場合、素地のままの日干しレンガをモルタルで接合することにジャッドはこだわったが、それは日干しレンガ職人であれば誰も推奨しないやり方である。今年3月に吹き荒れた非常に強い風の影響で、壁の東側約46mが崩れ落ちたが、その原因の一端はジャッドのこうした独断にある。土地が本来もっている資源を守り、責任をもって管理していくという父の意思を受け継いだレイナーは、ジャッド財団が保有する土地のすべてに在来種の植物の種を蒔き直すというプロジェクトを実施した。「今ある課題を生じさせた原因は自分たちにもあるのだから、私たちにはそれらに積極的に取り組む義務があるのです」と彼女は言う。ジャッドが認識していたとおり、芸術をその周囲の環境から切り離すことなどできないのである。
ジャッドの芸術には調和と均衡が表現されているが、レイナーによると彼自身は「渡り鳥のよう」で、本やスケッチブックを広げる場所を次々と変えていたそうだ。正式な開業に至らなかった「ジャッド建築事務所」は、その当時の様子を伝えるエフェメラ(註:チラシやパンフレットなどの印刷物)であふれており、彼が抱いていた未来への希望とともに、彼が過去に築いたものについても、多くを教えてくれる。ジャッドの最晩年をとらえた写真のなかに、日焼けしたその事務所で撮影された一枚がある。設計プランを片手に歩きだそうとしている彼は、ようやく今、フレームに収まったばかりである。
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