BY MARI SHIMIZU
まもなく二十歳の誕生日を迎える若き歌舞伎俳優が、歌舞伎座の「二月大歌舞伎」で大役に挑んでいる。片岡千之助さんだ。演じるのは十三世片岡仁左衛門二十七回忌追善狂言として上演される『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の苅屋姫である。
「びっくりしました。まさに十代最後の試練です」
本人だけでなく驚いたのは父・片岡孝太郎さんも同じだった。「父、つまりこの子の祖父にとっても思いがけないことだったようです」孝太郎さんの父、そして千之助さんの祖父とは、この連載初回にご登場いただいた、人間国宝の片岡仁左衛門さんのことだ。
仁左衛門さんはこの演目で、物語の要である菅丞相を演じる。歌舞伎俳優の家にはそれぞれ大切にしている作品や役があるが、仁左衛門さんがその父である十三代目から受け継いだもののなかでも、菅丞相は“別格”なのだそうだ。孝太郎さんはこんなエピソードを語る。
「この役を勤めるとき、父は稽古に入ってから千穐楽を迎えるまで牛の肉を口にせず、外出も控えます。楽屋には天神様のお軸を祀り、手厚く礼拝。普段の生活から少しでも役に近づこうと日々、勤めているのです」
菅丞相とは学問の神、天神様として崇められる菅原道真のこと。『菅原伝授手習鑑』でも、人智を超えた特別な存在として描かれる。その養女が苅屋姫だ。道真公が九州大宰府に左遷されたという史実をもとにした物語は、苅屋姫と帝の弟を相思相愛の仲に設定した。その恋が政敵に利用され、菅丞相は謀反の濡れ衣を着せられてしまうのである。
何度も苅屋姫を演じた経験のある孝太郎さんは、「非常に辛い役」だと語る。
「物語の発端となる大切な役で、自分のせいで菅丞相は無実の罪を着せられてしまうのですから、毎日毎日本当にいたたまれないんです。苅屋姫は養女。実の親でないからこそ、よけいに申し訳ないという気持ちが強くなります。役が決まってから千之助にはプレッシャーをかけているんです。きみ(苅屋姫)がデートにいってしまったせいで、さまざまな不幸が起こるんだからね、と」
千之助さんはつい最近、ある役を通して同じような感情に苛まれた。
「やはり自分の行動を悔やむ役でした。日を重ねるにつれてせりふがどんどん重く響くようになっていったんです。本当に苦しくて辛くて」。千穐楽では裏で泣いてしまったと語る千之助さんの言葉に、孝太郎さんが優しく微笑んで、こう続ける。
「私自身、祖父や父から厳しく言われてきたのは『役になりきる』ということです。ですが、ひとつひとつのせりふやしぐさの意味を理解して気持ちが連動していないとそれは難しい。歌舞伎は様式的な演劇ですが、大切なのは心です」
舞台のうえで役の人物を生きる。その生きている実感が人物造形を深くする。稽古だけでは得られない境地だ。だからこそ、千之助さんは抜擢された大役を真正面から受け止めることにした。
千之助さんにとって心強いのは、苅屋姫経験者である孝太郎さんが一緒に出演していることだ。苅屋姫は「デート」の後、孝太郎さん演じる姉の立田の前によって匿われるのである。孝太郎さん自身も、初めて苅屋姫を勤めたときは、伯父にあたる人間国宝の片岡秀太郎さんが立田の前を演じていたという。
「伯父の存在は、役の上だけでなく役者としても自分にとって大きな支えでした。今度は自分が支える立場。そういう意味で世代交代を意識させられる公演でもあります」
菅丞相が流罪地への船を待つ「道明寺」の場面では、仁左衛門さん、孝太郎さん、千之助さんが顔を揃えることになる。孝太郎さんは、「十三代目仁左衛門は、私にとって尊敬する大好きな祖父。その追善に、父と息子と、三代で出演できるのは嬉しいですし何よりありがたいことです。今の千之助に苅屋姫は荷が重いでしょうけれど、代々が大切にしてきた芝居です。ここからまた新たな未来へとつなげていかなければと思います」
立役の仁左衛門さんと女方の孝太郎さんと、幼い頃からそれぞれの舞台に接して来た千之助さんはごく自然に歌舞伎俳優の道に進んだ。
「祖父が演じるカッコイイ役や、父が演じる可愛らしい役を目にすると、自分もやってみたいと素直に思いました。踊りでは十八代目(中村)勘三郎のおじさまの影響も大きいです。小さい頃から楽屋にもよく行っていましたから、自分にとって芝居は日常。当たり前のようにそこにあるものだったんです」
舞台を離れれば、現在は青山学院大学の比較芸術学科へ通う大学生でもある。
「西洋と東洋それぞれの音楽、美術、演劇映像をさまざまな角度から勉強しているのですが、西洋の古典に歌舞伎に通じるものを感じることがあります。そうするとこれは歌舞伎にできるなと考えたりします。そういう時間がとても楽しいですね」
進学をせず舞台に専念して経験を積んだほうがいいという考え方もあるが、学業と両立させたいという千之助さんの意志を孝太郎さんは尊重している。
「役者の世界はこの先いくらでもどっぷりと浸かることができます。が、大学生活はいまだから経験できること。芝居のなかだけにいたのでは知り得ないことをたくさん学べるチャンスです。彼には広い視野でものごとを見られる人になってもらいたいと思います。うちは歌舞伎のなかでは、どちらかというと“守り”が強いファミリーなのですが、息子たちの時代には新しい方向性があってもいいのではと思っています」
祖父や父の稽古は「舞台よりも緊張する」という千之助さんにとって、試験シーズン真っただ中の大役はまさに「十代最後の試練」。そしてどうそれを乗り越えるかに未来を拓く鍵がある。取材後、帰路につく車の中で、親子の稽古はさっそく始まったという。