人里離れたテキサス州マーファの町を文化的な巡礼地へと変えた芸術家、ドナルド・ジャッド。死去してから30年が経ち、彼の広大な遺産を保護する役割を担う財団は、今後どのように運営していくべきかという課題と向き合っている

BY HILARIE M. SHEETS, TRANSLATED BY T JAPAN

画像: テキサス州マーファの元大砲庫に配置されている、ドナルド・ジャッドのアルミニウム製の直方体の彫刻。しかし暑さと雨漏りにどう対処するか?それは、チナティ財団の修復プロジェクトの大きな課題だ JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; DOUGLAS TUCK/THE CHINATI FOUNDATION

テキサス州マーファの元大砲庫に配置されている、ドナルド・ジャッドのアルミニウム製の直方体の彫刻。しかし暑さと雨漏りにどう対処するか?それは、チナティ財団の修復プロジェクトの大きな課題だ
JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; DOUGLAS TUCK/THE CHINATI FOUNDATION

 テキサス州マーファでは、 ドナルド・ジャッドの彫刻が時を刻んでいる。高地にある砂漠では、ジャッドの注文通り、100個の全く同じ大きさの輝きを放つアルミボックスが、2つの元大砲庫の中に一糸乱れずに整列している。ジャッドが老朽化したガレージのドアの代わりに設計した巨大な窓から降り注ぐ光を反射させ、銀色に輝いている。どこまでも続く風景を映し出すこのインスタレーションは、ミニマルアートを嘲笑う人たちを虜にするものだろう。

 しかし、耳を澄ませば、金属製の彫刻が伸縮する音が聞こえてくるはずだ。温度調節機能のない建物で、卵が焼けるほどではないにしても、約50度まで室温が上昇して位置がずれてしまったものもある。ジャッドと、彼自身がこの辺境の町に招いた12人のアーティストの作品を管理するチナティ財団の担当者は、40年前にジャッドが綿密に計算したホリスティックな体験を損なうことなく、暑さを緩和する最善の方法を見極めなければならない。また、水はけをよくするために、ジャッドが小屋の上に設置した樽型アーチ状の金属製土台も取り替えなければならない。彼は建築家ではなかった。屋根はまだ雨漏りしている。

 時が過ぎる。雨は滴る。

 1971年に、ジャッドは、芸術、建築、風景を統合した独自のビジョンを構想し、それを実現する場所を求めてテキサス州西部へとやってきた。彼は、1960年代初頭に美術評論家として名を馳せたニューヨークのアート界から距離を置きたかったのだ。その後、色と形、そして工業素材で作られた幾何学的な作品とその周囲の空間を探求する実験的な彫刻家として広く知られることとなった。しかし、美術館が作品の設置や輸送を誤ることが多く、合板の箱の表面に輸送ラベルが無造作に貼られ、それ自体がアート作品なのに、梱包箱と誤解され返却されることもあった。

「私の作品の設置は、制作の一部である」と彼は1977年に表明している。「私の作品を取り囲む空間は、作品にとって極めて重要だ」。さらに、「どこかに、インスタレーションを行うのに相応しく、永続的な場所があるはずだ」と付け加えた。

 それが、人口1,800人、エルパソやミッドランドの空港から車で3時間の砂漠地帯にあるマーファだったのだ。

「父は地図を使って、アメリカ国内で最も人口の少ない場所を探していました」と、映画監督ならびに芸術家で、ジャッド財団の代表でもある娘のレイナー・ジャッドは言う(彼女の名前はダンサーのイヴォンヌ・レイナーにちなんで付けられた)。

 幼い頃、父親がマーファの空きビルの買い占めを始めたとき、彼女と弟のフレイヴィンも一緒だった。彼は2つの飛行機の格納庫と、それに隣接する旧陸軍事務所を家族の住居として改築し、自身の芸術、家具デザイン、1万3千冊の蔵書のための理想的な環境としたのである(ジャッドはマーファ周辺にある22の建物を住居や仕事場として購入し、現在はジャッド財団を通じて予約制で公開されている)。

画像: ジャッドの1982年から1986年にかけてのアルミニウム作品100点のうちの1点 JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; DOUGLAS TUCK/THE CHINATI FOUNDATION

ジャッドの1982年から1986年にかけてのアルミニウム作品100点のうちの1点
JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; DOUGLAS TUCK/THE CHINATI FOUNDATION

 1978年にDiaアートファンデーションの資金援助を受けて、ジャッドは340エーカー(東京ドーム約30個分)の敷地にさらに34棟の建物を取得し、郊外にある旧陸軍基地のフォートD.A.ラッセルとダウンタウンにある3つの建物で、自身の作品と、友人でアーティストのダン・フレイヴィン(ジャッドの息子の名前の由来ともなった)や、自動車部品を粉砕して組み立てた作品を作ることにより使い捨て文化を示唆するジョン・チェンバレンの作品を展示した。1983年には、チェンバレンの23点に及ぶ巨大な彫刻作品を展示するために、リノベーションした最初の倉庫をオープンし、同時に、彼自身の100個のアルミボックスの作品を元大砲庫に、15個のコンクリート製の彫刻作品を砦の敷地に設置する作業を進めていった。

 Diaアートファンデーションが多額の資金提供を撤回すると、ジャッドは契約違反で訴えると言い出し、弁護士による和解交渉を経て、すべての美術品、建物、土地をジャッドが所有することになった。Diaとの関係を断とうとしないダン・フレイヴィンとは、二度と口をきかなかったという。1986年、ジャッドは、常設展示とテンポラリーなプロジェクトのためのキュレーションの場として、チナティ財団を設立した。それは芸術家が最優先される一種の“美術館に対抗する場所”のようなものだ。

 彼は、美術館や芸術の商品化に対する強い反感を示し、1987年に「芸術は作られると同時に征服される」と表明している。「一般大衆は芸術を、買うことができ、そして持ち運びできるものとしか考えていないのだ」。それに対抗して、クレス・オルデンバーグ、コーシャ・ヴァン・ブリュッゲン、リチャード・ロング、ロニ・ホーン、デイビット・ラビノビッチ、イリヤ・カバコフ、インゴルフール・アーナーソンなどのアーティストに、チナティに作品を置き、永久に保存するよう呼びかけた。また、ロバート・アーウィン、カール・アンドレ、ジョン・ウェスレイといったアーティストたちもチナティにアートを設置した。

 ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)のディレクターであるマイケル・ゴーヴァンは、1990年代初期にグッゲンハイム美術館の副ディレクターだった時にマーファを訪れたという。当時、グッゲンハイム美術館はミニマリズムとコンセプチュアル・アートからなるパンザ・コレクションを所蔵したばかりで、その中にはジャッドが放棄した作品も含まれていた。ゴーヴァンは、ジャッドとのコミュニケーションのきっかけを作る仕事を任された。「美術館がアーティストのためにできることをしていないと感じていた若者だった私は、彼の味方だったのです」とゴーヴァンは語り、この経験が人生を変えることになったという。

「ジャッドは一部の人々には支配的な人物でしたが、彼の理念がマーファを特別な場所にしました。アメリカの見捨てられた工業用建物の風景を再生して、芸術にとって誠実で適した場を作り、空間と光の感覚を取り入れ、流行に左右されない長期間にわたるインスタレーションへの取り組みです」

 ジャッドは1994年、リンパ腫と診断された直後に、65歳で突然この世を去った。彼は、家族や恋人たち、彼とそのビジョンに深く傾倒した信奉者たちに、無数の未完のプロジェクト、芸術と建築に関する多数の著作、そしてアメリカ現代美術史上で最も重要とされるインスタレーション作品のひとつ ──マーファという場所── を残した。そこは、世界中のアーティスト、建築家、コレクター、美術関係者、カルチャー志向の観光客の巡礼地となった。現在、彼の作品を保存する役割を担っている財団は、今後どのように運営していくべきかを議論している。

 遺産を解釈するのは難しい。「ドナルド・ジャッドならどうするだろうか?」という問いかけ(かつて町でよく見かけたバンパーステッカーに書かれていたフレーズ)が常につきまとう。「父が亡くなった時、私は23歳、フレイヴィンは25歳でした」と52歳になったレイナーは言う。「父から遺された試みを続けるべきかどうか、かなりの時間をかけて考えたものです」。

 ジャッドの遺言は、彼の作品を研究と鑑賞のために「設置された場所に保存する」ことを指示した。しかし、ジャッドには莫大な借金があり、それを子供たちが清算するのに何年もかかった。2006年にクリスティーズで行われたジャッド作品のオークションでは、2800万ドルが寄付金として集まり、現在の価値は6000万ドルとなっている。

 チナティ財団とジャッド財団は、老朽化した建物の保存とジャッド亡き後の完成を目指した長期間のプロジェクトを遂行しており、その費用はチナティ財団が4000万ドル、ジャッド財団が3000万ドルと推定される。今年4月、チナティ財はその第一段階として、約2,100㎡のチェンバレン棟の修復を270万ドルかけて完了した。屋根のふき替え、ジャッド設計のピボット窓とドアの改良、ロゼット型のソトルを格子状に植えたジャッドの庭、中庭を囲む独特の日干しレンガ塀の復元などである。このスペースは、米国障害者法に対応したアクセシビリティが確立されており、予約なしで訪れることができる初の施設だ。

画像: 1983年に建てられたジョン・チェンバレン棟の日干しレンガ塀と中庭などがこの春修復された ALEX MARKS/THE CHINATI FOUNDATION

1983年に建てられたジョン・チェンバレン棟の日干しレンガ塀と中庭などがこの春修復された
ALEX MARKS/THE CHINATI FOUNDATION

画像: 1983年にマーファに建設され、修復されたジョン・チェンバレン棟にある22点の金属製の彫刻のひとつ。1972年から1982年にかけて制作された、塗装とクロムメッキを施したスチール製のチェンバレンの作品のうち、最大の常設作品を所蔵している PERMANENT COLLECTION, THE CHINATI FOUNDATION. FAIRWEATHER & FAIRWEATHER LTD/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; ALEX MARKS/THE CHINATI FOUNDATION

1983年にマーファに建設され、修復されたジョン・チェンバレン棟にある22点の金属製の彫刻のひとつ。1972年から1982年にかけて制作された、塗装とクロムメッキを施したスチール製のチェンバレンの作品のうち、最大の常設作品を所蔵している
PERMANENT COLLECTION, THE CHINATI FOUNDATION. FAIRWEATHER & FAIRWEATHER LTD/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; ALEX MARKS/THE CHINATI FOUNDATION

「チェンバレン棟の完成は、財団がジャッドの建築物を模範的に改修できることを示すものです」と、チナティの長年の評議員で、ロンドンのテート美術館の元ディレクターであるニコラス・セロータは言う。

 しかし、この成功の陰で、チナティの理事会は、9年間務めたジェニー・ムーア館長との契約を更新しないことを決めた。2016年にロバート・アーウィンの最大級となる常設作品を完成させるために500万ドルを集め、財団のマスタープランの先頭に立ち、チェンバレン棟の修復を監督したムーアはこの夏退任した。

 新しいリーダーを決定するため、「財団が目的を遂行する活力を維持することをテーマに、難しい議論が行われた」と、著名な建築家でチナティの評議員であるアナベル・セルドルフは述べている。

 ムーアは、要注意人物として認識されるようになった。批評家たちは、観客動員数、指標、ブランディングが、芸術のケアよりも優先されることに懸念を表明した。理事会はその1年前、チナティ財団で長年にわたり副館長を務めたロブ・ワイナーとの契約更新を拒否しムーアを支援したが、この行動は世間から大きな反発を受けることとなった。ジャッドのアシスタントとしてマーファにやってきたワイナーは、ジャッドの死後も残り、ジャッドのガールフレンドであったマリアンヌ・ストックブランド(チナティの初代館長)が財政難から施設を救うための手助けをした。彼は、フレイヴィン(ストックブランドに説得され、蛍光灯のインスタレーションを完成させた)をはじめ、多くのアーティストたちと仕事をした。ワイナーの解雇は、チナティに所属していた多くのアーティストを奮起させ、ジャッドの財団創設時の使命を見失った指導者を非難する彼らの連名の投書が、「The Big Bend Sentinel」紙に掲載された。

 批判者の一人は、マーファの住人であり、チナティの理事を7年間務めた唯一のアーティストであるクリストファー・ウールだ。ウールはこの激動の時期に辞めた数名の評議員の一人でもある。「理事会は組織の知見に背を向け、自分たちの経験上という理由だけでチナティを企業モデルで運営するよう主張しました」と彼はメールで語った。「正式な美術館とは異なるという事実は、弱点ではなく、最も重要な強みだったのです」

 ジャッドとアーウィンの作品制作に携わったジェフ・ジェイミソンも、理事会に懸念を表明した。「ドナルドがやったことは全て、彼のアートを見に来るという経験を、可能な限り最高の状態で設定するためでした」と言い、小道の形や屋根のラインが変わると、「その経験が損なわれる」ことを指摘した。

「チナティは、常に新しいことやガラが行われるようなタイプの美術館ではありません」と続ける。「屋根を良い状態に保ち、作品を大切にするだけで、この場所に対して本当に質の高い仕事ができるはずです」

 キャリアの初期にチナティでインターンをしたことのあるムーアは、ジャッドを個人的に知らない最初のディレクターであった。「創業者からの移行期間というのはいつも難しいものです」と彼女は言う。「しかし私は自分の理解に従い、優先順位を決め行動しました。それは建物の修繕計画を立て、組織とスタッフの専門性を高めることでした」。

 創設初期の頃は、チナティの門をくぐると誰かが鍵を渡してくれた。ムーアの時代には、2013年に11,300人だった入場者数が、パンデミック前には50,000人近くにまで増加した。トイレを増やし、交通の便を良くし、高級住宅化したマーファから追い出されたスタッフのためにチナティの敷地内に手頃な価格の住居を作る必要があるとムーアは言う。しかし、こうしたことはすべて物理的な変化を必要とするものだ。

「公共施設なのですから、芸術家が設立した場所だからといって、ただ奇をてらうだけではダメなのです」と。

 “霊廟”と“生きた施設”のバランスをとることが目下の課題である。セルドルフは「チナティの理念とユニークな存在感をいかにして維持するか、同時に、世界中のすべての美術館が対処しなければならない歓迎、包括、公平の感覚を、私たちにも適用できるようにするか」と語る。

画像: ブロックと呼ばれる西棟の南側の部屋にあるジャッドの彫刻。2021年にマーファのジャッド財団にて展示 JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; ALEX MARKS/JUDD FOUNDATION

ブロックと呼ばれる西棟の南側の部屋にあるジャッドの彫刻。2021年にマーファのジャッド財団にて展示
JUDD FOUNDATION/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK; ALEX MARKS/JUDD FOUNDATION

 アーティストのシアスター・ゲイツが、リビルド財団でシカゴのサウスサイド地区の建物を文化的な空間に変え始めたとき、彼は非公式にそのプロジェクトを「ブラック・マーファ」と呼んだ。これは、ジャッドの「芸術のあり方に対する尽きることのない野心」に影響されているとゲイツは言う。しかし、チナティ財団とジャッド財団が直面する問題から、ゲイツは人々が永久に自分のアイデアに支配されることをどれだけ望んでいるのかについて考えさせられたと言う。

 マーファにあるジャッド財団の図書館で、ゲイツは、誰も動かしたことのない本が重なり合ってできる一部分が太陽の光によって白く変色していることに気づいた。

「この本が決してここから動かないことがアーティストの意図なのだろうか? それとも、本が読みこまれて、破損したら製本し直し、本が生きたものであることを受け入れた方がいいのか?」と問いかけ、「これは明らかに保存の問題である」と付け加えた。

 一方で、ジャッドの彫刻は大砲小屋の中でジリジリと音を立てている。これは、チナティのマスタープランにおける次の主要な修復プロジェクトである。未解決の問題は、ジャッドの窓にフィルムを貼るか、複層ガラスに変えて建物を冷やすかだが、これだと外を眺める景色に色がつく可能性がある。

 さらに、雨漏りする屋根の修理にも頭を悩ませる。ジャッドは、樽型アーチ形屋根のスケッチに、端部をガラス張りにするよう記している(眺望を確保するため)。しかし、彼は端部を閉じて金属製にした建物を完成させた。1984年からある建物をそのまま再現するのか、それともジャッドの意思を反映させるのか。ジャッドならどうするだろうか?

 ジェイミソンは言う。「もしドナルドが何かを完成させて、『これはいい』と言ったとしたら、私の考えは、できることならそのままにしておこうということです」。

 チナティの評議員であるセロータは、端部の処理はジャッドの一時的な解決策だったのではないかと考えており、先に進む前に注意を促した。「ジャッドの模倣品を捏造しないことが重要だと、私たちは強く感じています」と彼は言う。「もし作るのであれば、何が新しいのか、何がジャッドのものなのかを明確にする必要があります」。

 セルドルフは、理事会で開かれている審議についてこう語っている。「少々主観的で、結論は出ていません」。

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