BY MOMO MITSUNO
いつもの気分で夏を過ごし、窓いっぱいに枝をひろげた白木蓮の大木が、金色の葉を光のようにまき散らしはじめた頃、ハッと気づいた。着るものがない!
服のデザインも形も、素材や色も、みんな変わってしまった。何と言う早業だろう。こんなに周到に、ファッション界はいつから準備していたのだろう。
どう変わったのか、といえば、ひとつは「形がはっきりしていないようなもの」の台頭。
たとえばアシメトリーのシャツやプルオーバー、コートなどが洗練度を増してきた.
二つめは、前シーズンから続いているビッグシルエットが、古着の力などを借りながら、グッとこなれた着やすいものになってきたこと。もう古着は若者だけのものじゃない。
そして三つめは、スポーツウエアが街着としての存在感を放ち始めたこと。どれも新鮮でわくわくする。

長い糸やチェーンに好きな石などを留めつけ、輪にしないで紐状のまま、ふわりと肩にかける。輪にしない分、軽量で、一つのイメージに捉われない印象。気分も軽やかに
コロナ禍が、着るひとに、おしゃれがより一層自由であることを教えたのだろうか。
あらゆるものの「うち外」で、締めつけ感の強いファッションの鉄輪がはずれようとしているのか。
しかしそんな中で、取り残されているものがある。バッグと靴とアクセサリーだ。
靴は、とりあえずスニーカーのほかに、定番のバイカーブーツやウイングチップなど、ベーシックなデザインのものを持っていれば事は足りそうに思える。バッグは思い切って冬も籠を持つ。重衣料の季節に、案外すっきりしたバランスになると思う。
アクセサリーはどうだろう。
今までつけていたコンサーヴァティブなジュエリーは、いまひとつ前時代の「飾る心」を感じて、重い。と言って何もつけないのは、ちょっと寂しい。
わたしは最近、ジャージのような、肌に優しい楽な服しかほとんど着ないのだが、さすがにスポーツウエアに似合うアクセサリーは難しく、せいぜい小さな罌粟パールのピアスをひとつだけ、とか、ゴールドかシルバーのイヤーカフを片耳だけ、といったものしか思いつかなかった。
ところが最近、遊びに来た同世代の友達の胸元に、強く惹きつけられた。
それは、長い長いベージュのポリエステル糸に綺麗な色の小さな天然石をアトランダムに留めたものだった。普通のネックレスと違うのは、その長い糸がラリエット型で、丸く繋がれていないこと。一本の糸を肩周りにふわっとのせている感覚が、軽やかでとても新鮮だ。
留められた石は、5ミリほどの真っ赤なサルデニア珊瑚、ターコイズのかけら、2ミリくらいの水晶やカーネリアン、瑪瑙(めのう)など何種類ものオールドビーズ、深いチャコールグレーや、夜空のようなミッドナイトブルー(群青色)のガラスのアンティークビーズ。そして、それら一見バラバラに見えるビーズを包み込んで、全体の印象を渋い大人っぽさにまとめているのは、直径1センチほどのさまざまな平たく丸い形の琥珀である。この赤茶色の琥珀が、甘すぎず辛すぎない、色のリズムをまとめている。
白いシャツの上で、ネックレスはゆったりと息づいているように見えた。

この秋冬は、いままであまり目にしたことのない新しい素材がたくさん登場している。長年続いた、自然素材=上質、人口素材=安いモノ、といった関係性も変わりつつある
PHOTOGRAPHS BY MOMO MITSUNO
つけ方は人の数だけある。マサイ族の女たちのように何重にも首に巻いたり、あるいは巻かずに肩から垂らしたり。片方の手首にぐるぐると巻き付けても大人っぽい。美しいエネルギーの出入口があるということは、つけるひとを新鮮な気持ちにすることだろう。
鏡に映った自分の姿にタイトルをつけてみる。たとえば「休憩するひと」とか。
見せるためでなく休むためのおしゃれも、これからは必要になってくるのかもしれない。

光野桃(みつの もも)
1956年、東京生まれ。クリエィティブディレクターの小池一子に師事、その後、ハースト婦人画報社に勤務し、結婚と同時に退職。ミラノ、バーレーンに帯同、シンガポール、ソウル、ベトナムで2拠点生活をおくる。著書に『おしゃれの幸福論』(KADOKAWA)『実りの庭』(文藝春秋)『妹たちへの贈り物』(集英社)『白いシャツは白髪になるまで待って』(幻冬舎)など多数。