真っ白な髪に艶のある肌、すっと伸びた背すじ。世界的ピアニストとしての才能と知性を、ユーモアとちゃめっ気が包む。こんなふうに年齢を重ねたいと憧れる人ーー高野耀子(こうのようこ)の軌跡と今を聞く。

BY NAOKO ANDO, PHOTOGRAPHS BY MASANORI AKAO

画像: 自邸で稽古をする高野耀子。父のアトリエだった天井高4mの空間。スタインウェイのピアノの脇には演奏中の姿勢をチェックするための鏡が。壁の絵画、左は父・高野三三男《掛合い》(1931年)、右は母・岡上りう《ダーリア》(1920/40年)。

自邸で稽古をする高野耀子。父のアトリエだった天井高4mの空間。スタインウェイのピアノの脇には演奏中の姿勢をチェックするための鏡が。壁の絵画、左は父・高野三三男《掛合い》(1931年)、右は母・岡上りう《ダーリア》(1920/40年)。

 高野耀子に会って、話を聞くことができた。高野は、パリ・モンパルナス生まれの現在93歳のピアニストだ。高野三三男(みさお)と岡上りうの画家夫妻の一人娘。ベル・エポックの残り香を感じさせるアール・デコの空気を吸って育った。4歳のときに「自分はピアニスト、作曲家、指揮者になる」と宣言したことをはっきり覚えているという記憶力の持ち主である。その記憶の中には、生の藤田嗣治や、20世紀を代表するピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが含まれているのだから、話が面白くないはずがない。
 父は、東京美術学校(のちの東京藝術大学)2 年生の秋、1924年にフランスに渡った。同級生の岡田謙三と高崎剛、そして将来妻となる、りうとともに横浜港から「箱根丸」に乗船。恩師の岡田三郎助による藤田嗣治宛ての紹介状を携えていた。「父は藤田とすぐに仲良くなって、"おやじ" なんて呼んで、ずいぶんかわいがってもらったの。油絵の具の上から墨をはじかれずに描く方法や、キャンバスに金箔を貼ったりする技法も教わった」

画像: 藤田嗣治からの絵手紙。高野三三男の長期不在時、はす向かいに住む藤田嗣治がアパートの窓から望遠鏡でのぞいたという体で、妻りうの様子を知らせたもの。(高野耀子所蔵) © FONDATION FOUJITA / ADAGP, PARIS & JASPAR, TOKYO, 2025 B0896

藤田嗣治からの絵手紙。高野三三男の長期不在時、はす向かいに住む藤田嗣治がアパートの窓から望遠鏡でのぞいたという体で、妻りうの様子を知らせたもの。(高野耀子所蔵)

© FONDATION FOUJITA / ADAGP, PARIS & JASPAR, TOKYO, 2025 B0896

画像: 寝室の壁に飾られている母の作品。「母は私が生まれると描かなくなったけれど、続けていたらいい画家になったと思う」。岡上りう《花瓶と窓と女性》(1930/40年)

寝室の壁に飾られている母の作品。「母は私が生まれると描かなくなったけれど、続けていたらいい画家になったと思う」。岡上りう《花瓶と窓と女性》(1930/40年)

 最初の住まいは、モンパルナスのアパート。父は、パリに着いた年からサロン・ドートンヌなどに出品し、1930年には《仮面舞踏会の夜》がフランス政府買い上げとなり、画家としての人気と地位を着実に高めていった。1931年に高野が生まれ、1933年、モンマルトルのオルドネール通りにある芸術家用集合住宅に入居を許可され、一家で転居。のちに、通りを挟んだはす向かいのアパートに藤田夫妻が移り住む。
「その頃、パリでは子どもが大人に挨拶をするときに、片足を引いてスカートの裾を持ってお辞儀をしたものだけれど、大人になってから藤田に会うと、わざとその頃の私のお辞儀をまねたりして、よくからかわれたわね」。

 高野が4歳の頃、同階の女性ピアノ教師がくれるアメ玉につられてピアノに触れたところ「お嬢さんには才能があります!」となったという。同じアパートに住む大指揮者のピエール・モントゥーにも紹介された。初弟子入りは、7歳のとき。ブラジル出身で90代までフランスで活躍した名ピアニスト、マグダ・タリアフェロの弟子となることができた。
「戦争がなければ、両親は日本に戻らず、私は大人になるまでフランスで育ったでしょうね」。第二次世界大戦でパリが陥落した1940年、引き揚げ船「伏見丸」で日本へ。藤田夫妻も一緒だった。

画像: 「伏見丸」の船内で描かれたスケッチ。左は三三男が描いた藤田、右は藤田が描いた三三男。(高野所蔵) © FONDATION FOUJITA / ADAGP, PARIS & JASPAR, TOKYO, 2025 B0896

「伏見丸」の船内で描かれたスケッチ。左は三三男が描いた藤田、右は藤田が描いた三三男。(高野所蔵)

© FONDATION FOUJITA / ADAGP, PARIS & JASPAR, TOKYO, 2025 B0896

アンファン・テリブル、日本にあらわる

 現在も住む大田区馬込の家での暮らしが始まった。地元農家の子が通う小学校に、きれいな洋服を着て革靴を履き、ついフランス語が口をつく高野がやってきた。「父が深川出身で、私の日本語はべらんめえの江戸弁。いじめっ子に何かされたって、倍の勢いでやり返してやったわ」。両親が行く末を案じたのか、白百合女子学園に転校。しかし、「ごめんあそばせ」と言いながら校舎の階段の手すりをまたいで滑り降り、シスターたちを驚かせるおてんばぶりは健在だった。

水晶の小さな蓋物。帰国したばかりの8歳の頃、フランス大使館でピアノを演奏したご褒美に、大使夫人から贈られたもの。今もダイニングルームの棚に飾られている。

日本人初、国際コンクール優勝者に

 15歳で白百合女子学園から東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に入学し、終戦からわずか4年後の1949年、再びパリへ。「その頃のコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)は、科目別に受験できる年齢に制限があったの。ピアノ科は18歳まで。だから日本の学校を中退して、またパリに行ったわけ」。そこで恩師のジョセフ・ベンヴェヌーティに出会った。「彼はそれほど有名ではなかったけれど、教え方がよくて。それにほら、イケメンでしょう?」。在学中、月刊『音楽の友』で「パリー通信」を連載。むろん音楽の話が中心だが、友人の母親を通じてクリスチャン・ディオールに会ったことやコレクションについてなど、パリの最新モードのリポートも書いた。卒業後、顔見知りのドイツ人ヴァイオリニストの実家に招かれた際に居合わせたハンス・リヒター=ハーザーのベートーヴェンを聴き、即座に弟子入りを志願。ドイツで学び始めてから1年半後の1954年にイタリアのヴィオッティ国際音楽コンクールに出場、ピアノ部門で1位を獲得した。日本人初の国際コンクール優勝という快挙だった。

画像: イタリアでの演奏会(1954年)。この頃の衣装はすべて自分で縫った COURTESY OF YOKO KONO.

イタリアでの演奏会(1954年)。この頃の衣装はすべて自分で縫った

COURTESY OF YOKO KONO.

ミケランジェリのもとで音楽修業

 そこから演奏依頼が殺到し、国内外での演奏活動を約10年間続けるが、徐々に旅続きの生活に嫌気がさしてきた。疲れきってもいた。そんな折、あのミケランジェリが初来日を果たした。1965年のことだ。直前にコンサートをキャンセルすることも多かったという完璧主義者。「どうしても聴きたかったから、全部の日程のチケットを買ったの。そうすればどれかは聴けるでしょう?」(余談だが、2023年に亡くなった坂本龍一は、ドビュッシーやショパンの最高の演奏家として、ミケランジェリの名前を挙げている)。
 演奏を聴き、東京文化会館を出る頃には「この人に弟子入りしよう」と決意を固め、滞在するホテルを訪れ直談判。演奏テープを送り、返事を待たずにイタリアに向かった。OKの返事がその後自宅
に届いたという。人里離れたドロミテの家で、ほかの日本人女性二人とともに、住み込みの弟子生活。「食事はミケランジェリ先生が全部作ったの。バターなんかを使わないヘルシーな料理だったけれど、塩やハーブの使い方と火加減なんかが絶妙なのでしょうね、びっくりするくらいおいしかった」。指導を受けるにはコツがいり、「明日の何時にお稽古してくださいなんてお願いして待っていると、きっと面倒になっちゃうのね、部屋から出てこないの。だから庭仕事から戻ったりするときにつかまえて"ここ教えてください" とやると、"どれどれ" なんて見てくれた」。師は実に、よく練習する人だった。
「メロディを分解して、一音ずつ掃除して組み立て直して、ボロン、ボロン、ボロンと何べんでも繰り返すの。それを私たちは、洗濯なんかしながら聴いていた。ものすごく勉強になりました」。たまにご褒美のような時間もあった。「ピアノの横に座らせて、ふだんは演奏しない曲を聴かせてくれるの。でも私、とても貴重な機会なのに、"おなかが空いたから早くごはん作ってください" なんて言っちゃって。"そんなこと言う人はいないよ" とあきれて笑っていたわね」

イタリア北東の山間部のドロミテにある家でのミケランジェリ。子猫のときに拾い、溺愛した愛猫と。

COURTESY OF YOKO KONO

画像: 高野の自邸の レッスン室の一角にある、恩師を偲ぶコーナー。左はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、右はジョセフ・ベンヴェヌーティの若かりし頃と晩年の写真。中央は親交のあったジュエリーデザイナー、ジルベール・アルベールによるオブジェ。

高野の自邸の レッスン室の一角にある、恩師を偲ぶコーナー。左はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、右はジョセフ・ベンヴェヌーティの若かりし頃と晩年の写真。中央は親交のあったジュエリーデザイナー、ジルベール・アルベールによるオブジェ。

毎朝、起きたらすぐにピアノに向かう

 1970年、母危篤の報を受けてイタリアを離れ一時帰国し、1979年から本格的に日本で暮らし始めた。1940年に父が近所の棟梁と建てた平屋に、2 台のグランドピアノを置くレッスン室を増築したり、本棚を造りつけたりと、高野が手を加えながら今も住み継いでいる。演奏会や指導は、自然体で続けてきた。頭の中で仏語、独語、伊語、英語、日本語が混ざり合い、本もそれぞれの言語で読む。最近のお気に入りは、YouTubeで古いフランス映画を観ること。そしてもちろん、毎日ピアノに向かう。「朝起きてすぐに"指の練習" から始めて脳と指の動きをつなげるの。脳トレにもなるわね」

画像: ダイニングルームにて。テーブルは棟梁と父・三三男の共同製作で、三三男が表面を削って仕上げた。後ろの棚の右端に置かれた鉄瓶は「近所のゴミ置き場から拾ってきたの。でも、いいでしょう?」。右の絵画は高野三三男《赤子(耀子四ヶ月)》(1932年)。

ダイニングルームにて。テーブルは棟梁と父・三三男の共同製作で、三三男が表面を削って仕上げた。後ろの棚の右端に置かれた鉄瓶は「近所のゴミ置き場から拾ってきたの。でも、いいでしょう?」。右の絵画は高野三三男《赤子(耀子四ヶ月)》(1932年)。

画像: ダイニングルームの造りつけの棚には、骨董の小さな仏像や彫刻、かんざしなどとともに、食べたあとのアサリの殻など、さまざまなものが飾られている。

ダイニングルームの造りつけの棚には、骨董の小さな仏像や彫刻、かんざしなどとともに、食べたあとのアサリの殻など、さまざまなものが飾られている。

デザイナーのジルベール・アルベールから毎年誕生日に贈られたジュエリーの数々と、彼が収集した貝殻。プレゼントは彼が亡くなるまで届いた。

家の至るところにある造りつけの本棚。仏語、独語、伊語、英語、日本語の本がきちんと分けて並べられている。

朝起きるとまずピアノに向かう。毎日の練習を欠かさない。

「結婚はいいものよ。毎日笑ってばかりいたわ」

 ところでプライベートはというと、結婚は、日本人男性と3回。
「結婚はいいものよ。あなたも3回くらいしてみたら?」とちゃめっ気たっぷりにアドバイス。特に60歳で入籍したパートナーは3年前に他界したが、「亡くなるまで、毎日笑ってばかりいたわ」

画像: コーヒーはイタリア仕込み。キッチンの収納をはじめとし、整理整頓が大好き。

コーヒーはイタリア仕込み。キッチンの収納をはじめとし、整理整頓が大好き。

画像: 高野耀子(こうの・ようこ) 1931年、パリ生まれ。1940年第二次世界大戦の戦況悪化により日本へ。1946年東京音楽学校入学。1949年パリ・コンセルヴァトワールに入学し、プルミエ・プリ(首席)で卒業。1953年ドイツ・デトモルト音楽院入学。1954年ヴィオッティ国際音楽コンクールで優勝。1965年ミケランジェリに弟子入り。1979年より日本に居住。

高野耀子(こうの・ようこ)
1931年、パリ生まれ。1940年第二次世界大戦の戦況悪化により日本へ。1946年東京音楽学校入学。1949年パリ・コンセルヴァトワールに入学し、プルミエ・プリ(首席)で卒業。1953年ドイツ・デトモルト音楽院入学。1954年ヴィオッティ国際音楽コンクールで優勝。1965年ミケランジェリに弟子入り。1979年より日本に居住。

『ピアニスト高野耀子氏を迎えて〜パリの藤田嗣治、高野三三男に想いを馳せたトークと演奏のひととき〜』
藤田嗣治と高野家の思い出を語るほか、プーランクなど当時のフランスの作曲家による曲を演奏。特別展示室では「藤田嗣治と高野三三男 戦時下における交友の記録 ~高野三三男旧蔵コレクションより」も開催される。
開演時間: 8月2日(土)14時 
場所:軽井沢安東美術館「サロン ル ダミエ」
公式サイトはこちら

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