BY THESSALY LA FORCE, PHOTOGRAPH BY RENEE COX, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
東アジア、アジア太平洋地域、南アジアに祖先をもつあらゆるアメリカ人は、ひとまとめに〈アジア系アメリカ人〉と呼ばれてきた。だが80年代初期、NYモード界に十数名のアジア系デザイナーが出現して新風を吹き込み、このステレオタイプの枠組みを打ち壊した。彼らの台頭によって、モード界の名ばかりの“平等主義”、つまり表層的なジェスチャーでしかなかった“ダイバーシティ”は、一歩実現に近づいた。
その最初のステップを踏み出したのは、アナ・スイ、ヴィヴィアン・タム、ヴェラ・ウォン、キモラ・リー・シモンズといった、アジア系アメリカ人デザイナーたちだ。彼女たちは、カルバン・クライン、ビル・ブラス、ラルフ・ローレン、マイケル・コース、ダナ・キャラン、マーク・ジェイコブスたちが君臨していた当時のNYモード界に、彗星のごとく現れ、それぞれが独自の美学を謳った。アナ・スイはペザントブラウスやフラウンシースカート(ひだ飾りのスカート)を提案し、ヴィヴィアン・タムは伝統的なチャイナドレスを現代ふうにアレンジ。キモラ・リー・シモンズは、ボディコンシャスなベロアのトラックスーツをデザインし、ヴェラ・ウォンは従来のウェディングドレスをクリーンでミニマルなスタイルに変えた。
2000年代には〈新世代のパイオニア〉と呼べるような、アジア系アメリカ人デザイナー(アジア系アメリカ国民だけでなく、アメリカをベースに活躍するアジア人も含む)がブランドを立ち上げた。フィリップ・リム、リチャード・チャイ、アレキサンダー・ワン、ピーター・ソム、ビブー・モハパトラ、デレク・ラムなどがその代表だ。彼らのスタイルはコンテンポラリーという点以外、特に共通点はない。オリエンタリストたちが心酔する〈アジア全体に共通する表現形式〉など実在しないのである(フィリップ・リムはデビューして間もない頃、複数の記者から、なぜドラゴンモチーフや赤のシルクブロケード〔金銀糸入り紋織物〕を使わないのかと問われたそうだ)。
彼らが頭角を現すと、誰をどんな基準でアメリカのファッションデザイナーと呼ぶか、その定義が拡大した。またアジア人をはじめ、白人以外のモデルをショーやキャンペーンに起用したことをひとつのきっかけに、多様性は認めて当然という風潮も広まった。彼らは絶賛され、ジェイド・ライ、ヨーリー・テン、メアリー・ピンなどのコンセプチュアルなスタイルが人気を博したこともあって、アジア系アメリカ人デザイナーは強い存在感を確立する。2008年の金融危機以降、多くのインディペンデントブランドが、ラグジュアリー・コングロマリットの勢いに押されて消えたが、そのなかで生き延びたジェイソン・ウー、ジョセフ・アルトゥザラ、プラバル・グルンなどが、次世代の先導役となった。
2018年には〈80年代後半~90年代のベトナムと韓国のスタイリッシュな女性〉をテーマにしたブランド「コミッション」が誕生。デザイナーは、ジン・ケイ、ディラン・カオ、フイ・ルオンのトリオだ。それぞれ、フィリップ・リムやプラバル・グルンのレーベルや、グッチのようなビッグブランドで働いた経験がある。フィービー・ファイロ時代のセリーヌでキャリアを築いたピーター・ドゥも、「コミッション」とほぼ同期にNYでレーベルを立ち上げた。「ガントレット・チェン」のジェニー・チェン、サンディ・リアンなど、90年代のグランジをインスピレーションソースにしたデザイナーもいる。サンディ・リアンのシグネチャーアイテムは、NYのローワーイーストサイドのクラブキッズが着そうな、レイヴパーティに最適なカーゴパンツだ。
こうしたデザイナーが台頭した背景には、まずモード界のプロを養成する学校に通う、アジア系の学生が増えたことが挙げられる。マンハッタンの「パーソンズ・スクール・オブ・デザイン」のファッション学科と「ファッション工科大学」の状況を見れば一目瞭然だ(2010年の『ニューヨーク・タイムズ』紙に、パーソンズの留学生の約70%はアジア出身、ファッション工科大の学生の23%がアジア人かアジア系アメリカ人とある)。また、アジア系デザイナーの活躍ぶりを目にしたアジア系の親たちが、ファッションデザインを有望な職業として認めるようになったのもひとつの理由だろう。ほかには、ユダヤ系アメリカ人デザイナーと同様、家族が服飾産業に関わっていたために、ファッションの道に進むケースも多い(デレク・ラムの華人の祖父母はサンフランシスコでウェディングドレスの大型縫製工場を経営。フィリップ・リムの母親は中国からの移民で、ロサンゼルスで縫製工として働いていた)。彼らをファッションに惹きつけるようになったきっかけはまだある。フィリップ・リムの場合、南カリフォルニアで過ごしたティーン時代に観ていたMTV〈米音楽専門チャンネル〉が、もっとも直接的な引き金になったそうだ。「あの世界に加わりたいと思ってね」と彼は当時を振り返る。
だがアジア系アメリカ人がこれほどファッションに夢中になった〈明確な〉理由はわからないままだ。このところランウェイやレッドカーペット以外でも、映画やテレビに出る、広義での〈華やかな業界〉で活躍するアジア系アメリカ人が増えてはいる。だが数にしたらわずかなものだ。2018年の国勢調査によるとアメリカのアジア系人口は約6%だが、アジア系俳優やモデルの比率はそれを下回る。つまり現実の人種の割合を反映していないことになる。アジア系アメリカ人に対する壁が取り払われないのは、いまだにその存在が薄いからだ。人種的なダイナミクスといえば白人と黒人が主体で居場所がなく、われわれアジアの国々の歴史はないがしろにされるか、無視されている。いま成功しているアジア系デザイナーたちは苦労の末に勝利を得たのだ。
ファッション界では、スポンサーもバイヤーもエディターも本質的には数十年前から何も変わっていない。そもそも長年の修練を積み、多大の労力を注がなければブランドなど設立できない。アジア系アメリカ人デザイナーの活躍が目立つのは、ファッションの要が“見栄え”にあるからかもしれない。デザインとは、職人技という文化的価値と、贅沢な素材をつなぐ架け橋であり、アジア各国の歴史に根づいたものだ。またアジア系という分類に付きまとう“固定観念”(特にモデルマイノリティ〔社会・経済的地位が相対的に高いとされる模範的少数民族〕の印象)から、ゲートキーパー〔商品等を選択し販促する人。バイヤー、エディターなど〕たちはリスクを覚悟で、彼らを歓迎するのかもしれない(現在、米ファッション評議会の500名以上の会員のうち、アフリカ系アメリカ人は19名、ラテン系は31名、アジア系は48名いる)。
商業的に見ると、アジア系アメリカン・デザイナーは海外で高く評価されている。フィリップ・リムやアレキサンダー・ワンは、ヨーロッパだけでなく、ここ20年来、消費購買力が上昇している中国、韓国、日本でも人気だ。またこれは感覚的なことだが、アジア系デザイナー(川久保玲、山本耀司、渡辺淳弥、三宅一生なども含めて)がここ半世紀に遂げてきた偉業のおかげで、“アジア系=アヴァンギャルド”というイメージが定着し、それが付加価値になっている。アメリカにおけるアジア系の存在はいまだに控えめなままだが、これらのデザイナーたちの活躍は、装いと着こなしにまつわるわれわれの共通意識に、消えることのない光をもたらした。その存在は時とともにさらに大きくなっていくだろう。私はプラバル・グルンに「アジア系アメリカ人のデザイナーがこんなに多く活躍しているのはなぜでしょう」と尋ねた。「え、本当に多いと思う?」と聞き返してから彼は言った。「アジア系デザイナーが活躍する余地なら、まだまだたくさんあるはずだよ」
SET DESIGN: TODD KNOPKE. HAIR AND MAKEUP: LAURA DE LEON AT JOE MANAGEMENT USING CHANEL LES BEIGES. HAIR AND MAKEUP FOR PRABAL GURUNG: VAN TRUONG AT MAC. HAIR AND MAKEUP ASSISTANTS: ROBERT REYES AND ANNA KURIHARA