「まず食べたいものありきで旅先を決める」という贅沢な視点がいま、観光や食のシーンで熱い注目を集めている。日本各地で脚光をあびる大人のためのデスティネーションレストランを、ガストロノミープロデューサー・柏原光太郎が厳選して案内。第5回は、この店のためだけに鎌倉を訪れる人が絶えないと評判のスペイン料理店「anchoa(アンチョア)」へ。

BY KOTARO KASHIWABARA

画像: タコのガリシア風、イベリコ豚の生ハム、シコイワシの酢漬け、ヒルダなどが並ぶピンチョス盛り合わせ

タコのガリシア風、イベリコ豚の生ハム、シコイワシの酢漬け、ヒルダなどが並ぶピンチョス盛り合わせ

 鎌倉は東京郊外の観光地としてはトップクラスの人気を誇る。2023年の観光客数は1228万人。鶴岡八幡宮や長谷寺、鎌倉大仏などの文化的遺産を旅し、七里ガ浜や材木座海岸などの自然景観を楽しみ、小町通りでショッピングするインバウンドの数もうなぎ上りだ。しかし東京からの距離が近いこともあって日帰り客が多いのが悩みの種。夜の営業にリスクがあるため、これまで飲食店経営はむずかしいという声が多かった。

画像: 「anchoa(アンチョア)」の外観。潔い佇まいが印象的だ

「anchoa(アンチョア)」の外観。潔い佇まいが印象的だ

 だがここ数年、素晴らしい店がいくつもできてきて、わざわざ鎌倉に食を楽しみにいくフーディーが増加していると肌感覚で感じている。四川料理「イチリンハナレ」や日本料理「鎌倉 北じま」などが代表格だが、私が注目しているのはスペイン料理「anchoa(アンチョア)」。代々木上原で8席のみのカウンタースペイン料理「アルドアック」を経営していた酒井涼シェフが、2021年に移転、鎌倉駅から徒歩3分ほどの場所にオープンさせたスペインレストランである。

画像: シェフの酒井涼さん。2012年、代々木上原に「アルドアック」をオープンの後、コロナ禍を経て鎌倉の地に移転した

シェフの酒井涼さん。2012年、代々木上原に「アルドアック」をオープンの後、コロナ禍を経て鎌倉の地に移転した

 酒井シェフとは6年ほど前に、友人の自宅パーティで出張料理人をされていた時に出会ったのが最初。「アルドアック」が美味しいという評判は聞いていたが、当時住んでいた場所から代々木上原がけっこう行きづらかったことから行けないままでいたら、鎌倉に移転したという情報が届いたのだ。

 そういえば以前、私鉄沿線にある本格的な日本料理店の料理長と話していたら、客が少ないというぼやきになり、「食いしん坊の方にとっては、うちより京都の方が近いんですよね」と言われたことがあった。鎌倉のように、東京都内から見ると中途半端な距離に感じられる場所があるということだ。

画像: 店内はカウンター席とテーブル席がある。シェフの手さばきを眺められるオープンキッチン

店内はカウンター席とテーブル席がある。シェフの手さばきを眺められるオープンキッチン

 今回、この店のことが気になっていたのは、店名の影響もある。アンチョアとはスペイン語だが、英語にすればアンチョビ、つまりシコイワシ(カタクチイワシ)のこと。私はスペイン料理店に行くと必ず、シコイワシの酢漬けを注文し、これが美味しい店はお気に入りになる。わざわざ店名にしたのだから、きっと美味しいに違いないと思ったわけである。

 1981年生まれの酒井シェフにとって、スペイン料理との出会いは渋谷「サン・イシドロ」。私も何度か訪れているが、店主のおおつきちひろシェフの作る伝統的なスペイン料理が美味しく、酒井シェフも8年間みっちりと基礎を叩き込まれた。その後、2012年に代々木上原に「アルドアック」を開店したのだが、その後のいきさつをこう語る。
「10年近く営業して、カウンターではなくテーブルのある店をやりたくなった。私は、シェフと話すより、お客様同士が楽しんでいただけるレストランにしたいと思ったんです」

画像: コカと呼ばれるパイに店名にもなっているアンチョビを載せたスターターのアンチョア・コカ

コカと呼ばれるパイに店名にもなっているアンチョビを載せたスターターのアンチョア・コカ

画像: 鱧のソテーにはあさりの出汁が隠し味

鱧のソテーにはあさりの出汁が隠し味

 当初は代々木上原近辺を探したが、コロナ禍であったことから海の近くで開業したくなり、神奈川方面を重点的に探し、鎌倉を選んだという。当初から前店の常連で来てくれるのは2割ほどと予想、実際もその程度で、今は近隣の客と観光客が中心で「最近、この店を目指して来てくれるお客様が増えてきた」と笑う。料理はクラシック寄りのスペイン料理だが、鎌倉食材を探しているうちに、ほとんど地産地消の料理になった。

画像: 鎌倉で採れる色鮮やかな野菜たち

鎌倉で採れる色鮮やかな野菜たち

「食材は肉も魚も野菜も想像していた以上にいいですね。でも、東京のようになんでもあるわけじゃないから、東京ではメニューを決めてから食材を仕入れていましたが、いまは食材に合わせてメニューを考えるようにと、仕事のやりかたがまったく変わりました」

 中でもこの店の特徴は、店名にあるように魚介類にある。8割ほどの魚を長谷川大樹さんから仕入れているのだ。長谷川さんは神奈川長井漁港を中心に仕事をする仲買人で、彼が神経締めと呼ばれる処理をした魚は、通常の魚とはまったく違う味わいになるという。
「クリアな味で持ちもいい。魚が有名ですが、キノコや山菜も扱っているので、いつしか彼から調達する食材が中心になっています」

 この日、私がいただいたのも、長谷川さんの魚を数多く使った相模湾魚介スペシャルコース「コース・マリスコ」。茄子や赤玉ねぎを使ったスペイン風ピザ「コカ」にいわゆるアンチョビを乗せた「アンチョア・コカ」でスタート。ピンチョスと呼ばれる美食都市サンセバスチャン特有の前菜盛り合わせには、私の好きなシコイワシの酢漬け、タコのガリシア風、マッシュルームの生ハム詰めオイル焼き、アオリイカの墨煮など8品が乗る。シコイワシの酢漬けは完全に私の好み、タコのガリシア風も気に入った。

画像: 長井の漁師さんがモリで突いて仕留めたメカジキを仲買人の長谷川さんから仕入れたもの。レアのカツにしてニンニクの白いソースでいただく

長井の漁師さんがモリで突いて仕留めたメカジキを仲買人の長谷川さんから仕入れたもの。レアのカツにしてニンニクの白いソースでいただく

画像: 赤ピーマンの中にイバラガニを詰めたピキージョ

赤ピーマンの中にイバラガニを詰めたピキージョ

画像: 子イカの墨煮・チピローネスに凍ったイチジクを散らして

子イカの墨煮・チピローネスに凍ったイチジクを散らして

画像: キジハタはロメスコソースで

キジハタはロメスコソースで

 その後も、鱧やメカジキ、イバラガニのピキージョ、チピローネス(子イカ)、キジハタなど、相模湾の新鮮な魚をスペイン風に仕立てた皿が続く。私は40年ほど前からスペイン料理が大好きなのだが、ピキージョやチピローネスといった郷土料理を洗練した皿に昇華させるシェフの腕前に舌を巻いた。

画像: 一週間分の魚のあらや骨を使ったソースのパエリャ

一週間分の魚のあらや骨を使ったソースのパエリャ

画像: パエリャはアイオリソースをつけて味変しても美味しい

パエリャはアイオリソースをつけて味変しても美味しい

 そしてメインはパエリャ。日本ではスペインを代表すと思われているが、もともとは南部バレンシア地方の郷土料理で、現地ではバルでは出されない。メニューに載せない店も多いため、日本のスペイン料理人にはパエリャ賛成派と反対派がいるが、酒井シェフは「美味しければいいと思っているので」賛成派。私も米好きの日本人に出さない手はないと思っているから賛成だ。

 アンチョアのパエリャは、店で使った魚の骨やあらをふんだんに使ったスープだけで炊いたもので、具の乗らないシンプルなもの。しかし、魚介類の味を米がしっかり吸って、芳醇な旨みになっている。また、アイオリと呼ばれるニンニク風味のマヨネーズが抜群で、途中からこれを混ぜ込むとさらに味わいが深くなる。私は普段、あまり炭水化物を取らないほうだが、お代わりしてすべてを平らげてしまった。

画像: 自家製のバスク風チーズケーキ

自家製のバスク風チーズケーキ

画像: 八木下農園のバレンシアオレンジをアイスクリームに添えて

八木下農園のバレンシアオレンジをアイスクリームに添えて

 最後にデザート2種でコースは終了。アンチョアには、ほかにもコースはあるが、せっかく行くのなら、長谷川さんの魚をたっぷり使う「コース・マリスコ」がおすすめ。スペインワインに精通したベテランソムリエと相談しながら時間をかけてディナーを楽しみ、近辺で一泊。翌日も鎌倉周辺のデスティネーションレストランを回っていただきたい。

 最後にとっておきの情報を。私が一番好きな天ぷら職人がいま、独立を目指してこの周辺で物件を探していると聞いている。鎌倉のガストロノミーツーリズムはますます面白くなっていきそうだ。

anchoa アンチョア
住所:神奈川県鎌倉市御成町2-14
公式インスタグラムはこちら

柏原光太郎
ガストロノミープロデューサー。文藝春秋で「文春マルシェ」創設を経て、「日本ガストロノミー協会」会長、「食の熱中小学校」校長、「Luxury Japan Award 2024」審査委員などを務める。近著に『ニッポン美食立国論 ―時代はガストロノミーツーリズム』。

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