ハンバーガーや日用品などありふれたモノを、見慣れない、ときに堂々としたサイズの彫刻作品に。彼はそれらを「コロッサル・モニュメント」と呼んだ。7月に世を去った偉大なポップ・アーティストの軌跡

BY MARTHA SCHWENDENER, TRANSLATED BY T JAPAN

画像: クレス・オルデンバーグ。ニューヨークの自身のスタジオにて2013年撮影 PHOTOGRAPH BY TODD HEISLER

クレス・オルデンバーグ。ニューヨークの自身のスタジオにて2013年撮影
PHOTOGRAPH BY TODD HEISLER

 スウェーデン生まれのアメリカ人ポップ・アーティストで、日用品をモチーフにした巨大な彫刻で知られるクレス・オルデンバーグが、7月18日、マンハッタンのソーホーにある自宅兼アトリエで死去した。93歳だった。

 彼の死は、ポーラ・クーパー・ギャラリーとともに彼の代理人を長く務めてきた、ニューヨークのペース・ギャラリーの広報担当者、アドリアナ・エルガレスタによって確認された。

 オルデンバーグは1950年代後半にニューヨークのアートシーンに本格的に参入し、当時流行していた観客参加型の「ハプニング」を取り入れ、道路標識や針金と石膏でできた服、パイの破片などを取り入れた展示でアートの境界を広げていった。日用品、パフォーマンス、コラボレーションに対する彼のアプローチは、何世代にもわたってアーティストに影響を与え続けている。

 初期のプロジェクト「ザ・ストア」(1961年)は、イーストビレッジの店舗で開かれ、漫画に描かれた靴やチーズバーガーといった日常のとりとめのない品々の複製を石膏で作り、抽象表現主義のドリップ(絵具の滴り)と即興的なダッシュ(絵具を塗りたくる)の手法で覆い、販売した。

 彫刻作品に取り組むにつれ、彼の作品はどんどん巨大化していった。ハンバーガー、アイスクリームコーン、家電製品などありふれたものを出発点として、それらを見慣れないほど巨大なサイズに拡大した。

 彼の代表的なインスタレーションの一つに、1976年に建造された《Clothespin》(洗濯バサミ)がある。それはアメリカ合衆国建国200周年を記念するもので、高さ45フィート、重さ10トンの黒い鉄の彫刻作品は、まさにそのタイトルが示す通りのもので、76という数字を連想させる金属のバネを備えている。この作品は、従来の公共彫刻とは全く正反対のもので、オルデンバーグは、市の役人になりすまし、「雄牛やギリシャ人、たくさんの裸の女たちを巻き込むはずだった」と語った。

 オルデンバーグは、フランス人アーティストのジャン・デュビュッフェの影響を強く受けている。デュビュッフェはいわゆるアウトサイダー・アートをギャラリーや美術館に持ち込み、制度的な芸術の体制を打破した。また他の多くのポップ・アーティスト同様、オルデンバーグはマルセル・デュシャンからもヒントを得ている。20世紀初頭のデュシャンのいわゆるレディメイド彫刻は、自転車の車輪や小便器など、大量生産されたありふれたオブジェであった。しかし、オルデンバーグの彫刻は、店で買ったものではなく、手作りだった。自ら語ったように、彼は作品が「自然のように神秘的」であることを望んだのだ。

「私の意図は、定義づけのできない日常的なオブジェを作ること」と彼は言っている。人物を描くことはほとんどなく、人間の欲求や欲望と密接に関連するものに焦点を当てた。「私は一貫して、人間を通してではなく、人間を参照するオブジェで表現してきたのです」。

画像: クレス・オルデンバーグはニューヨークの自宅で今年7月18日に死去。93歳だった。2013年撮影 PHOTOGRAPH BY TODD HEISLER

クレス・オルデンバーグはニューヨークの自宅で今年7月18日に死去。93歳だった。2013年撮影
PHOTOGRAPH BY TODD HEISLER

 1960年代初頭からオルデンバーグと仕事をしてきたアート・ディーラーのアーネ・グリムシャーは、直近のインタビューで、「彼の作品は精神分析的だった」と述べた。

 グリムシャーは、オルデンバーグの作品の基礎となったのは精密なドローイングであると指摘し、「彼はアングルやピカソに匹敵するデッサンの技術を持っていた」と述べ、「そして、それを台無しにする大胆さをもっていた」と続けた。

 彫刻に対するオルデンバーグの最も重要な功績は、彫刻をブロンズや木のような硬いものから柔らかいものへと変えたことだとグリムシャーは言う。彫刻がしぼんでしまうので、オルデンバーグがスタッフたちに「膨らませて」と指示していたと、グリムシャーは回想する。

 オルデンバーグの代理人も務めたアート・ディラーのポーラ・クーパーは、彼の彫刻作品について次のように語っている。「ファンキーだが常に形式的な強度があり、時とともに作品は壮大になっていった。彼はシンプルなアイデアを膨らませることができたのです」。

画像: ニューヨークのホイットニー美術館で2009年に開催された展覧会にて、自身の作品の間に立つオルデンバーグ PHOTOGRAPH BY EVAN SUNG

ニューヨークのホイットニー美術館で2009年に開催された展覧会にて、自身の作品の間に立つオルデンバーグ
PHOTOGRAPH BY EVAN SUNG

 オルデンバーグは、1929年1月28日、ゴスタとシグリッド・エリザベス(リンドフォルス)夫妻の子としてストックホルムに生まれた。外交官であった父は、ロンドン、ベルリン、オスロ、ニューヨークで勤務した後、1936年にシカゴのスウェーデン総領事に任命された。クレスはシカゴで育ち、ラテン語学校に通った。

 その後、1946年から1950年までイエール大学で文学と美術史を学ぶと、1950年代前半にはシカゴ美術館附属美術大学で学ぶために中西部へ戻り、バウハウスでパウル・クレーの教えを受けた画家ポール・ウィーガルトに師事する。オルデンバークは美術学校在学中にシカゴ市報道局に勤務したが、その職務のひとつにはコミックストリップ(マンガ)を描くことが含まれていた。ポップ・アートの代表的な作家の中で、コミックを専門的に描いていたのは彼だけだ。

 1953年にアメリカ国籍を取得すると、1956年にニューヨークへ移住。1959年5月、ジャドソン・ギャラリーでの最初の展覧会は、ドローイング、コラージュ、張り子のオブジェなどであった。

画像: 2013年にMoMAに展示された、《Floor Burger》(1962年) ほかオルデンバーグの作品群 PHOTOGRAPH BY SUZANNE DECHILLO

2013年にMoMAに展示された、《Floor Burger》(1962年) ほかオルデンバーグの作品群
PHOTOGRAPH BY SUZANNE DECHILLO

 ニューヨークでの最初の重要な展覧会は、段ボールと麻布で作った車や道路標識、人物などを展示した「ザ・ストリート」(1960年)と、当時ローワー・イーストサイドの店舗にあったスタジオを訪問者に開放し、芸術と商業を結びつける芸術家のアトリエとした「ザ・ストア」(1961年)である。販売されたのは、ワイヤーと石膏で作られ、抽象表現主義を思わせるドリップ(絵具の滴り)スタイルで塗られたサンドイッチ、パイの切れ端、ソーセージ、衣服などであった。彼の作品はすぐに規模を拡大した。

 1960年、オルデンバーグはパティ・ミュシャと結婚する。パティは彼の最初の共同制作者となり、彼の作品にも出演している。オルデンバーグが彫刻にしたいオブジェ(たとえばキャンバスや、後にビニール素材に詰め物をした有名な「ソフト」彫刻のような)のドローイングを描き、ミュシャがそのほとんどを縫製した。1962年の《Floor Cake》 と《Floor Burger》は、1969年にニューヨーク近代美術館(MoMA)に設置された 《Giant Toothpaste Tube》と《Bathroom》へとつながった。

 彼はまた、ジム・ダイン、ロバート・ホイットマン、シモーヌ・フォルティなどの「ハプニング」にも参加した。

画像: 2011年3月、サンフランシスコで展示されたオルデンバーグの彫刻《Cupid's Span》(2011年) PHOTOGRAPH BY PETER DA SILVA

2011年3月、サンフランシスコで展示されたオルデンバーグの彫刻《Cupid's Span》(2011年)
PHOTOGRAPH BY PETER DA SILVA

 しかし、オルデンバーグはもっとスケールの大きなことを考えていた。「自由の女神に代わる扇風機」「鼻の形をしたトンネルの入り口のデザイン」「ワシントン記念塔に代わる動くハサミ」など、皮肉を込めたモニュメントの提案をスケッチしていた。

 彼が初めて実現した「コロッサル・モニュメント」(この種の作品を彼はこう呼んだ)は、《Lipstick(Ascending) on Caterpillar Tracks》である。1969年、ベトナム戦争への抗議と学生運動が全米の大学を揺るがしていた頃、ビニールで作られた巨大な口紅のチューブがトラクターの車輪に取り付けられ、明らかに男根と軍隊を連想させる作品は、イエール大学のキャンパス内へと進軍した。

 イエール大学の建築学者で 《Lipstick》を支持したヴィンセント・スカーリーは、後にその光景を「1917年のサンクト・ペテルブルグのようだ」と表現している。その後、「リップスティック」は1974年に鉄で製作され、イエール大学のモース・カレッジの中庭に設置された。

画像: 《Plantoir》(2001年)。アイオワ州デモインに設置されたオルデンバーグとヴァン・ブリュッゲンの作品 PHOTOGRAPH BY DANIEL ACKER

《Plantoir》(2001年)。アイオワ州デモインに設置されたオルデンバーグとヴァン・ブリュッゲンの作品 
PHOTOGRAPH BY DANIEL ACKER

 ニューヨークに移り住んだ初期に、オルデンバーグはアラン・カプロー、ジョージ・シーガル、ロバート・ホイットマンらと知り合い、後にパフォーマンス・アートとして開花する「ハプニング」に参加するようになった。1962年にスタジオを「レイガンシアター」と改名し、週末に公演を行うようになる。1965年にはヘルスクラブのプールを借りて「ウォッシュ」と題するハプニングを行い、色とりどりの風船と人々をプールに浮かべた。

 その20年後も、オルデンバーグは芸術と演劇を結びつける試みを行なっていた。1985年、オランダの評論家でキュレーターのコーシャ・ヴァン・ブリュッゲン、建築家のフランク・ゲーリーとともに、ヴェネツィアで「The Course of the Knife」と題する、スイス製のアーミーナイフのような形の船を中心とした、水陸のスペクタクルを上演した。

 オルデンバーグは、1970年にミュシャと離婚した後に、コーシャ・ヴァン・ブリュッゲンと知り合った。当時、ヴァン・ブリュッゲンはアムステルダム市立美術館のスタッフで、1976年にオランダのオッテルローにあるクレラー・ミュラー美術館に設置された特大の庭道具《Trowel(スコップ)I》の最終バージョンで、オルデンバーグと最初の共同制作を行った。

画像: ミネアポリス彫刻庭園に設置された《Spoonbridge and Cherry》 PHOTOGRAPH BY BEN GARVIN

ミネアポリス彫刻庭園に設置された《Spoonbridge and Cherry》
PHOTOGRAPH BY BEN GARVIN

 1977年に二人は結婚。1985年から1988年までミネアポリス彫刻庭園に設置された《Spoonbridge andCherry》、カリフォルニア州ベニスにあるゲーリー設計のチアット・デイ・ビルに組み込まれた《GiantBinoculars(巨大双眼鏡)》(1991)など40以上のプロジェクトで共同制作を行った。

 彼には、2人の継子、パウルス・カプテインとマールティエ・オルデンバーグ、そして3人の孫がいる。ヴァン・ブリュッゲンは2009年に乳がんのため66歳で死去。弟のリチャード・E・オルデンバーグは、1972年から1994年までMoMAの館長を務め、2018年に84歳で死去した。

画像: ポップ・アートの父として知られるクレス・オルデンバーグと、娘のマールティエ・オルデンバーグ。2019年5月、ニューヨークのスタジオにて撮影 PHOTOGRAPH BY KATE OWEN

ポップ・アートの父として知られるクレス・オルデンバーグと、娘のマールティエ・オルデンバーグ。2019年5月、ニューヨークのスタジオにて撮影
PHOTOGRAPH BY KATE OWEN

 オルデンバーグは1969年のMoMAでの個展をはじめ、多くの個展を開催した。1995年には、ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートとニューヨークのグッゲンハイム美術館が共同で回顧展 「クレス・オルデンバーグ: アンソロジー」を開催。彼とヴァン・ブリュッゲンの作品は、米国とヨーロッパの主要な近代美術館のほとんどに収蔵されている。

 オルデンバーグの作品は、1960年代のポップ・アートと結びつけられることが多いが、彼は、ありふれたものを記念碑的に表現した作品を、単なる日常的な祝祭以上のものと考えていた。

「このようなオブジェのカタログを作れば、それは神々や、現代の神話的思考が投影された物のリストのように読めるだろう。私たちはモノに宗教的な感情を抱いている。日曜版の新聞の広告で、いかに美しく物が描かれていることか」という彼の発言を引用しよう。

 グリムシャーはインタビューで、オルデンバーグはアメリカ文化の観察者であったと述べ、アメリカ文化では電話やハンバーガーやアイスクリームコーンといったありふれたものでさえ、何かを意味するものとして支持されているという。オルデンバーグの彫刻を、グリムシャーは「予言的でした」と語った。「それらは社会学的な発言だったのです」。

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