BY MARI HASHIMOTO, PHOTOGRAPHS BY KENSHU SHINTSUBO
2022年2月24日。国連の安全保障理事会での緊急会合が続く中、ロシアのプーチン大統領がウクライナ東部ドンバス地方での特殊軍事作戦の実行を宣言。キーウ、ハルキウ、マリウポリなどの主要都市を対象とする電撃的なウクライナ侵攻は、世界を震撼させた。細川護煕も固唾を呑んでテレビに見入っていた一人だ。
参議院議員、熊本県知事、衆議院議員と、政治家としてキャリアを重ね、1993年に第79代内閣総理大臣に就任。98年、60歳を機に政界を引退してからは、陶芸や書画の制作に打ち込んできた細川が、画面の向こうの戦争に、「いてもたってもいられない」焦燥に駆られて選んだのは、絵を描くことだった。
「遠く離れた国、と他人ごとのように受け流していいことではありません。何かサポートしなければ、と思い立ちましたが、やはり私もアーティストの端くれなので、すぐに絵筆をとりました。この《百鬼蛮行ー私のゲルニカー》は、侵攻開始後、本当にすぐ描き始めました」
世の中では、新聞やテレビの報道が追いつかないスピードで、SNSを介して戦場の様子を伝える写真や動画が、フェイクも含めて大量に出回る「情報戦」の様相を呈していた。モチーフには事欠かない状況だが、そういった材料を並べて描こうとは思わなかった、と細川は言う。
「残念ながらこれまで訪れる機会に恵まれませんでしたが、私にとってウクライナといえば、チェルノブイリ原発です。あの『石棺』にもろもろの邪悪をすべて封じ込める、という構想はすぐに固まりました。武器や戦車、兵士だけでなく、よく見ると鬼や龍のような、日本的、あるいは仏教的なモチーフも構わず描いています。一方、大地には金色の麦畑、上空には青空をと、ウクライナ国旗が象徴するものを背景にしました」
平行して、以前から交流のあったポーラ・オルビス ホールディングス社長の鈴木郷史に声をかけ、同グループが運営するポーラ ミュージアム アネックス(銀座)のスケジュールを調整。6月4日から12日まで同ギャラリーで、「細川護熙展『明日への祈り』」として、《百鬼蛮行―私のゲルニカー》を中心に、急遽個展を開催することになった。
会場では2019年に奈良・薬師寺慈恩殿に奉納された障壁画大下図や、今年の5月13日に京都・龍安寺に奉納された襖絵の下図などの展示、また漆絵や書など、過去に制作された作品の一部の販売も行い、収益はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に寄付した。同時に開催していた自身の陶芸作品の個展会場や、龍安寺での記者発表の場など、人が集まるタイミングを捉えては、募金箱を設置。6月24日現在、450万円を超える寄付が集まっているという。
この9月21日〜24日には、東京美術倶楽部で開催される入札会に作品120点を出品。こちらの収益もUNHCRに寄付することにしている。
茶陶を中心とした陶芸作家のイメージが先行している細川だが、「筆」をとるようになったのは、熊本県知事時代の1983年頃だという。知事としてさまざまな機会に揮毫を求められるようになったことから、県庁OBの書家の指導を受けはじめたが、紙を求め筆を選び、古墨に胸を高鳴らせるようになるまで、そう時間はかからなかった。今では箒のような巨大な筆で、屏風に大書するのも堂々とこなす。
東洋美術の基本は詩書画一致。書も画も区別をしない。それゆえだろうか、ようやく「絵筆」を握ったのは陶芸から遅れること10年、しかも油絵からだったが、楽しんで描いているうちに格好がついてきた。油絵も水墨画も区別なく楽しむ中で、細川家ゆかりの寺、京都市西京区の地蔵院(南北朝時代、室町管領細川頼之が開基となって建立)の襖絵の傷みを見かねて制作を申し出たのが、本格的な「画家」デビューの端緒だった。
何面もの襖絵の制作は広い場所がないと難しい。当時は広いアトリエがなかったため、建仁寺に場所を借りて作業をしていたという。
「たまたま建仁寺に用があって訪ねて来られたお坊さんが、私が作業している部屋にも顔を出されるのです。するといつの間にか、『ウチの寺にも』というお話になる」
2012年、地蔵院への『瀟湘八景図襖絵』8面の奉納を皮切りに、2014年に建仁寺正伝永源院に『四季山水図襖絵』24面、19年に奈良・薬師寺慈恩殿に障壁画66面、21年は再び建仁寺に『瀟湘八景図襖絵』24面、22年に京都・龍安寺に『雲龍図襖絵』32面……と、次々障壁画を描き続けることになった。
中でも下絵の一部をポーラミュージアムアネックスにも展示した『雲龍図』は、この5月に奉納したばかりということもあり、苦楽ともに制作中の記憶は鮮やかだ。
「日本でも中国でも、いいと言われる龍の絵は片っ端から見ましたが、どれもあまりピンと来ませんでした。多くの龍は笑いすぎている。かといってシリアスな龍となると怖い顔で、これもしっくりこない。唯一といっていいほど気に入ったのが、北京の故宮博物院で見た、南宋の画家・陳容の『六龍図』です。私が一番好きな中国の画家は同じ南宋の梁楷ですが、残念ながら彼は龍図を残していません。彼が得意の減筆体で描いていたらどんな絵だったろう、と想像したくなります」
龍安寺の『雲龍図』には角も生え揃わない幼い龍から宝珠を掴む壮年の龍、老いて歯の抜けた龍まで、その一生を物語のように描き出した。実はこうした画題は、類例がほとんどなく、細川の「創作」だ。
「初めから肝に銘じていたのは、『描きすぎない』ということでした。雲の間からちょっと身体が見えているくらいでいい。細かい鱗なんか描き込んでいると、筆勢が止まってしまう。大きな筆で練習にバーッと描いたのが案外よかったりするのですが、本番の絵でそれを再現するのは難しいですね」
これまで年2回、定期的に開催してきた陶芸の個展のペースを落とし、少しゆっくりするつもりだ、と細川は言う。だがウクライナ支援活動もあれば、今年は京都・南禅寺の襖絵の制作も控えている。政界を引退したら晴耕雨読の生活に、といいながら、その後の25年間も創作者として疾駆してきた「龍」の一生は、その果てにどんな姿を見せるのだろう。