ダニエル・ブラッシュの名を知る人は多くはないはずだ。だが、既存の枠の内に組み込まれることなく、驚くほど精緻な技で、独自の哲学を美に昇華させた唯一無二のその作品には、誰もが圧倒されるであろう。この知られざる巨匠の初の美術展が「レコール ジュエリーと宝飾芸術の学校」により、六本木「21_21DESIGN SIGHTギャラリー3」にて幕を開けた

BY MANAMI FUJIMORI

画像: ダニエル・ブラッシュ《スチール ポピー》ステンレス スチール、ダイヤモンド 2010 2010 Photo © Takaaki Matsumoto

ダニエル・ブラッシュ《スチール ポピー》ステンレス スチール、ダイヤモンド 2010

2010 Photo © Takaaki Matsumoto

 ダニエル・ブラッシュとは何者なのか。「彼は金属加工職人であり、宝石職人であると主張しているが、私は何よりも先に、彼の中には一種の魔術師がいると思う。」この展覧会の開催に尽力したひとり、ヴァン クリーフ&アーペルのプレジデント兼CEOニコラ・ボスは作品集『Daniel Brush:Jewels Sculpture』(Rizzoli Electa刊)の序文で、ブラッシュについてそのように記している。さらに付け加えれば、画家、彫刻家でもあり、エンジニアでもあり哲学者でもあり、ジャンルを超えて自らの創作を追究し続けた現代アメリカのアーティストである。

画像: ダニエル・ブラッシュ 1947年米国オハイオ州クリーブランド生まれ。カーネギー工科大学美術学校、南カリフォルニア大学に学び、ジョージタウン大学で芸術哲学を教える。1978年よりニューヨークに移り、ひたすらに制作に打ち込む。2022年没 PHOTOGRAPH BY NATHAN CROOKER

ダニエル・ブラッシュ
1947年米国オハイオ州クリーブランド生まれ。カーネギー工科大学美術学校、南カリフォルニア大学に学び、ジョージタウン大学で芸術哲学を教える。1978年よりニューヨークに移り、ひたすらに制作に打ち込む。2022年没

PHOTOGRAPH BY NATHAN CROOKER

 彼の類まれな作品は、2017年、「レコール ジュエリーと宝飾芸術の学校」による展覧会「Cuffs & Necks (カフス&ネックス)」展がパリにて、翌年にはニューヨークでも開催され、2023年は香港にて「DANIEL BRUSH AN EDIFYING JOURNEY(ダニエル・ブラッシュ 啓発の旅)」展として、世界の人々の目に触れるところとなった。2024年、東京におけるエキシビションでは、ふたつの章を設け、新たなアプローチと構成で、彼の世界と作品が紹介される。
 まず第一章として、ジュエリーから芸術作品、オブジェなどが展示され、ブラッシュの幅広い作品に見られる多様な素材や卓越した表現方法に焦点を当てる。

画像: ダニエル・ブラッシュ《ハンド ピース》純金、スチール1987-95 Photo © Takaaki Matsumoto

ダニエル・ブラッシュ《ハンド ピース》純金、スチール1987-95

Photo © Takaaki Matsumoto

“素材の詩人”とも称されるブラッシュ。そのジュエリーやオブジェには、貴金属のみならず、スチールやアルミニウムが使われ、錬金術にも似たその変容にまず驚かされる。表面の精緻な模様にも注目だ。細かな金の粒子で装飾された《ハンド ピース》には、古代エトルリアの金工芸にそのルーツをさかのぼる「グラニュレーション(粒金細工)」技法が使われ、無数の線が刻まれた《無限のリング》には、時計の文字盤やジュエリーの装飾などに用いられる「ギヨシェ彫り」が施されている。

画像: 《無限のリング 》純アルミニウム、ダイヤモンド 2009-10 Photo © Takaaki Matsumoto

《無限のリング 》純アルミニウム、ダイヤモンド 2009-10

Photo © Takaaki Matsumoto

 いくつもの歴史的な重みを持つ伝統技法に精通していることもさることながら、一切を手作業で行い、すべてをひとりで完成させるというブラッシュの超人的なものづくりにこそ、彼の芸術性が宿っている。その意味で本展の白眉ともいえるのが、第二章として展示される一連の彫刻作品「モネについて考える」である。

画像: ダニエル・ブラッシュ《モネについて考える》スチール、ダイヤモンド 2014-2018 Photo © Takaaki Matsumoto

ダニエル・ブラッシュ《モネについて考える》スチール、ダイヤモンド 2014-2018

Photo © Takaaki Matsumoto

 手のひらにすっぽり収まるほど小さなタブレットの数々は、いわば「掌の美」。細かな波状の線が幾重にも刻まれ、ある厳密な法則を秘めた小宇宙のようだ。また、細かな線はそれぞれ微妙に異なる角度で彫られているため、光の入射角によって多彩な色の光を紡ぎ出す。そう、窓からの光や照明、あるいは鑑賞者の立つ位置によって、スチールの表面は朝靄の淡いピンクや日没の金色に輝き、まさに印象派の画家モネの連作「積みわら」に見るような色と光の響宴が生まれている。

画像: ダニエル・ブラッシュ《モネについて考える》スチール、ダイヤモンド 2014-2018 Photo © Takaaki Matsumot

ダニエル・ブラッシュ《モネについて考える》スチール、ダイヤモンド 2014-2018     

Photo © Takaaki Matsumot

 ブラッシュはモネの淡いピンク、セルリアンブルー、カドミウムイエローの光に満ちた色彩に興味をそそられてきた。その色使いを理解するため、妻のオリビアと何度もヨーロッパを訪れた。だが、ジヴェルニーの野原で積みわらを実際に見たとき、彼の油絵具への嫌悪は決定的なものになる。「古典的なグレーズ技法を駆使しても、私たちが野原に見に行ったあの実際の積みわらを包んでいた自然光の差は荘厳さは感じられなかった」と。
 その後、マンハッタンのスタジオで、友人が手にいれたモネの絵のエイト・バイ・テンのカラー・ポジフィルムを手にとる機会に恵まれた。その透明なポジ・フィルムを光にかざした瞬間、ブラッシュはモネの絵を理解する。「光が差し込む透かし絵として見たとき、私はモネの作品が好きになった」。
 ブラッシュはモネの見た光に魅了された。光の本質と科学に迫り、光が生み出す反応を深く理解し、宝石の原石のなかの光や、スチールやアルミニウムから、独自の手法で“光”を引き出すことに没頭する。モネが光と色のドラマを絵の中に表現することに力を注いだように、ブラッシュは色と光のドラマを、彫刻を用いて体現することに集中した。

「日本での展覧会開催が決まった頃、モネのシリーズのカタログ制作が始まりました。100点以上ある中から65点が展示されます。ダニエルはこの連作を日本の人々に見てもらいたかったのです」
 こう語るのは、大学の同窓で共に美術を学び、半世紀以上にわたってブラッシュの制作を支えてきた妻オリヴィアである。1978年、ふたりはニューヨークに移り住む。その住まい兼工房である広大なロフトには、収集していたという古い工作機械が所狭しと並んでいる。創作に用いていた、手彫りの彫金に欠かせない鏨やノミの数々や大小さまざまな刃をつけた道具類が、ケースのなかにずらりと揃って収められている。

画像: ブラッシュが使用していた、大小さまざまな刃をつけたアンティークの道具セット。これ以外に自作の道具も多数そろえていた。2023年10月、ニューヨークのブラッシュの工房にて撮影 PHOTOGRAPH BY FUMIHIKO SUGINO

ブラッシュが使用していた、大小さまざまな刃をつけたアンティークの道具セット。これ以外に自作の道具も多数そろえていた。2023年10月、ニューヨークのブラッシュの工房にて撮影

PHOTOGRAPH BY FUMIHIKO SUGINO

 生前、ブラッシュの日課は、毎朝のロフトの床を掃き清めることだった。あたかも禅僧の修行のひとつである「掃除」により精神を集中し、内観するかのように。また、ブラッシュは日本の文化、とくに能や禅に深く関心を抱いていたという。本展には、「ダニエルの鼓動―呼吸―彼の声を描き留めたもの」とオリヴィアが形容する、ブラッシュの絵画作品も登場する。単色によるシンプルな筆使いの作画のようであるが、驚くべきことに一本一本の線から成っている。なるほどブラッシュの息づかいや集中力が立ち上がり、見えてくる。

画像: ダニエル・ブラッシュ《赤い呼吸 ― 女性を主人公とした能楽の曲目のためのカントゥス〔詩編〕》 Photo © Nathan Crooker

ダニエル・ブラッシュ《赤い呼吸 ― 女性を主人公とした能楽の曲目のためのカントゥス〔詩編〕》

Photo © Nathan Crooker

「彼の作品を見て、こんなことは不可能だと考える人もいるでしょう」と、ヴァン クリーフ&アーペルのプレジデント兼CEOニコラ・ボスは述べる。想像を絶する精緻な技で表される光と色、科学、詩、哲学…。様々なものが境界を越えて融合する。
 これほどの才能と技、唯一無二の崇高な作品を生み出しながら、ブラッシュは美術界のマーケットを敬遠し、隠遁者のように工房にこもり、ひたすらに自身の創作に打ちこみ続けた。ヴァン クリーフ&アーペルの支援のもと、宝飾文化を広く一般に伝えることを目指す「レコール ジュエリーと宝飾芸術の学校」はこの孤高の作家に注目し、敬愛の念を持って見守り、作品の紹介に努めてきた。

 2024年1月19日、ついに日本で初となる彼の展覧会がその幕を上げた。六本木の 21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3。足を踏み入れて、まず出会うのはブラッシュの絵 画作品である。日本に深い関心と憧憬の念を抱いていた彼の世界観、そして、まさに息 遣いに触れることができる。歩を進めると、ケースのなかに端然とジュエリーやオブジ ェなどの芸術作品が配されている。写真で見たときは彫金を施したように見えていた作 品は、極限まで精緻な象嵌(モザイク)であった。こんなことが人の手で成されたのか と息を呑む。

画像: ラヴェンナで見た、聖堂の天井から着想を得たという作品。《老成 ― モザイク》純金、スチール 1991-93 COURTESY OF VAN CLEEF & ARPELS

ラヴェンナで見た、聖堂の天井から着想を得たという作品。《老成 ― モザイク》純金、スチール 1991-93

COURTESY OF VAN CLEEF & ARPELS

画像: 静かに羽根を休めているかのように見える黄金の蝶。マグネットが用いられ、蝶を岩肌から移すことも可能。《山》 純 金、スチール、希土類磁石 1990-93 COURTESY OF VAN CLEEF & ARPELS

静かに羽根を休めているかのように見える黄金の蝶。マグネットが用いられ、蝶を岩肌から移すことも可能。《山》 純 金、スチール、希土類磁石 1990-93

COURTESY OF VAN CLEEF & ARPELS

 百聞は一見に如かず。それを実感するのは、細く長いケースに「モネについて考え る」シリーズ作品が並ぶ圧巻の光景であろう。着色も焼成も一切施されておらず、光線 の屈折率と反射により生み出される色と輝き。ひたすらに手で彫られたスチールは、ブ ラッシュが好んだという“幽玄”の美を宿す。目の前の小片は、視点を少しずらすだけ で、さっと表情を変える。その色と輝きは、立つ位置を変えても時間帯によっても異な り、同じものはひとつとしてない。まさに一期一会の邂逅なのである。

画像: 巨大な鉄板の屋根が地面に向かって傾斜し、自然光が多方面から入る。安藤忠雄の設計によるこのギャラリーは、「モネに ついて考える」シリーズを楽しむには最適の場である COURTESY OF VAN CLEEF & ARPELS

巨大な鉄板の屋根が地面に向かって傾斜し、自然光が多方面から入る。安藤忠雄の設計によるこのギャラリーは、「モネに ついて考える」シリーズを楽しむには最適の場である

COURTESY OF VAN CLEEF & ARPELS

 朝の光のなかで。また、あるときは黄昏の光と影のなかでーー。季節によっても見る 人の心持ちによっても異なる、その瞬間だけの唯一無二の色と輝き。そこに作家との対 話や自らの心と向き合うひとときが映し出されるであろう。ぜひ、何度か足を運んでみ てほしい。

『ダニエル・ブラッシュ展 ー モネをめぐる金工芸』
会期:2024年1月19日(金)~4月15日(月) 予約不要
   ※1月30日(火)、2月13日(火)、3月11日(月)は休館
開館時間:10:00~19:00 
会場:21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3
住所:東京都港区赤坂9-7-6 東京ミッドタウン ミッドタウン・ガーデン内
問合せ:0120-50-2895 (レコール事務局)(平日11:00~19:00)※2024年1月4日より開通

公式サイトはこちら

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