現代アーティストのルーカス・サマラスが、マンハッタンの超高層ビルの中につくり上げた世界は、ニューヨークに住むどんなアーティストの住居とも違っていた

BY M. H. MILLER, PHOTOGRAPHS BY ANDREW MOORE, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

塔の上の「世界」【前編】はこちら

自画像や自分の手のドローイングなどを収めたバインダー

 サマラスは子ども時代を大勢に囲まれて過ごした。両親の第一子として生まれ、妹、父方の祖母、おば二人と同居し、家に男は自分だけというときが多かった。幼少期に住んでいたのはギリシャ北部マケドニア地方の町カストリアだ。本人いわく「誰でもある程度の年齢になったら、もっといい暮らしのために外国に出ていくような小さな町」だったが、たび重なる激動に見舞われた。最初は第二次世界大戦――1941年にドイツが侵攻してきた――で、次にギリシャ内戦だ。今のアパートメントの玄関に飾られた絵画の一枚には裸の人物が描かれている。黒い背景で、白い腕を上にまっすぐ伸ばした人物の絵は、ナチス侵攻後に近所でいくつも吊るされた死体を見た原体験によるものだ。父はこの頃は同居しておらず─アメリカのニュージャージー州に住み、ニューヨーク市で毛皮職人として働いて、家に送金していた─父と息子の関係は深まらなかった。美術批評家トーマス・マケヴィリーによれば、サマラスの幼少期は暴力と隣り合わせだった。内戦中に砲撃でおばがケガを負い、祖母が命を落とした。丘の洞窟に隠れなければならないときもあった。「今でも、ふとしたときに、飛行機が爆弾を落としに来るという考えが浮かんで怖くなる」と、本人が1976年に珍しく『Art News』誌のインタビューに応えた際に語っている。「夜中に飛行機の音を聞くだけでも、恐怖がよみがえってくる。消すことができないんだ」。一方で、幼少期は戦争のおかげで「楽しい」ものでもあったと語っている。「大惨事から逃れる日々は、ある種の高揚感があったよ」


ふたつあるキッチンのひとつ。もう片方は使用していなかった

家具も手がけた。この椅子は木と薄板とアクリルを使ったもので、椅子というより機能性のある彫刻

画像: カラフルなセロハンを使った食器も同様のことがいえる

カラフルなセロハンを使った食器も同様のことがいえる

 11歳のとき、家族で渡米しニュージャージー州で父とともに暮らし始めた。サマラスは父の仕事を手伝い、裁縫の技術を学んだ。最初は英語がしゃべれず、12歳で公立学校に入った際には3 年生のクラスに入れられるという屈辱を味わった。それでも学力は向上し、ラトガース大学に進学して芸術を学んだ。大学時代には射撃も覚え、芸術家仲間もできた。その中のひとりアラン・カプローは、1950年代後半のニューヨークで「Happenings」という前衛的なパフォーマンスアートの運動を立ち上げるのだが、サマラスもパフォーマーとして協力した(ペース・ギャラリーのグリムシャーによると、サマラスは彼に演技を教えた女優のステラ・アドラーに「あなたは賢すぎて俳優には向かない」と言われたという)。ただし20代のあいだはずっと実家暮らしだった。1961年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された『The Art of Assemblage』展に参加するなど、視覚芸術家として一定の成功を収めたあともそれは変わらなかったのだが、1964年に両親は家を売ってギリシャに戻ることにした。サマラスの最も人気を博した初期作品のひとつが生まれたのはこの頃だ。手放すことになった家の寝室を解体して、そっくりそのまま、当時の有名な画廊グリーン・ギャラリー内に再構築したものだ。かなり狭いとはいえ、彼がこのとき再現した空間は、晩年まで暮らしたアパートメントによく似ている。写真で見ると、ブラインドは下りていて、のちの住まいと同じく贅沢品は置かず、小さなベッドと机とランプのみ。壁には自身の作品のみだ。一枚だけ別の芸術家の作品があった。画家のチャック・クローズによる絵だ。描かれているのは、やはり、サマラスの姿である。

画像: 1958年に描いた一枚は、彼が育ったギリシャの町が第二次世界大戦中と戦後に体験した暴力を表している

1958年に描いた一枚は、彼が育ったギリシャの町が第二次世界大戦中と戦後に体験した暴力を表している

 サマラスの世界は小さかった。人生最後の20年間でさらに顕著に小さくなった。身体も痩せていて、食事はスープ程度。グリムシャーが彼にとって一番信頼できる外界との接点だったが、会話は意見の不一致で終わることが多かった。サマラスは自分が正しく評価されていないと感じていた。セロハンを使った幾何学的な立体を発表したが、これに影響を受けた彫刻家ドナルド・ジャッドがたちまちサマラスよりも有名になってしまった。友人だったアンディ・ウォーホルよりも先にポラロイドカメラを取り入れたのに、美術館の売店に並ぶのはウォーホルの作品ばかり。カラフルなクロスハッチングを用いた絵もサマラスが先に描いていたのに、だいぶあとに同じ手法を取り入れた画家のジャスパー・ジョーンズのほうがずっと有名になり、サマラスは憤っていた。「私はそのたびに『そんなことはどうでもいんだよ』と言ったものでした」とグリムシャーは語る。
「『アートっていうのはそういうものだから。きみが最初にやったかどうかは重大ではないんだ』と。決まって大反論を受けました。その一方で彼はとてもやさしい人物でね。本気で怒ったりなんかしませんでした」

画像: サマラスは2戸をつなげて使っていたので、行き来するためにつくった通路

サマラスは2戸をつなげて使っていたので、行き来するためにつくった通路

画像: 玄関の壁にも多数の自画像

玄関の壁にも多数の自画像

 晩年のサマラスは言葉を発しづらくなっていた。グリムシャーいわく、言いたいことは自分でわかっているのに、うまくしゃべれないのだ。コンピュータを使うのもおぼつかなくなった─亡くなる前の数年は創作活動にコンピュータを活用し、とりわけPhotoshopを駆使していたというのに。コンピュータが使えなくなったら生きていたくない、とサマラスはグリムシャーに言ったという。そしてある日、言葉を発することを完全にやめてしまった。次に食べることもやめた。「死ぬことを決意したんです」とグリムシャーは言う。「はっきりわかりました。彼は自分で死ぬことにして死んだのです。創作活動ができないなら、もう生きている理由がなかったのです」

画像: サマラスのベッド。ヘッドボードの裏に靴を収納し、足もと側のガラス棚には自作の彫刻作品を並べていた

サマラスのベッド。ヘッドボードの裏に靴を収納し、足もと側のガラス棚には自作の彫刻作品を並べていた

画像: サマラスはチープで日常的な素材を好んだ。椅子の座面は毛糸の束と透明なビニールでつくっている

サマラスはチープで日常的な素材を好んだ。椅子の座面は毛糸の束と透明なビニールでつくっている

 サマラスはスタジオに置いた介護ベッドで息を引き取った。今、グリムシャーがトライベッカの画廊125 Newburyで開いている展覧会で、サマラスのパステル画とブロンズ像が展示されている。自室の棚にヒントを得たインスタレーション《Cubes and Trapezoids》(1994-95)は、現在ニューヨーク州北部の美術館ディア・ビーコンで展示中だ。アパートメントに残された作品についてはペース・ギャラリーで回顧展を企画中だが、まだ目録作成の途中である。すべてが終わったら、ニューヨークでひとつの時代が終わりを迎える。アパートメントは売却され、やがて別な人が住み始めるだろう。ずっとサマラスの世界だった空間が、そのとき初めて、彼以外の誰かの場所になる。

画像: マッチやつまようじなどの素材でつくったミニチュア家具

マッチやつまようじなどの素材でつくったミニチュア家具

自画像(1956-57)

PHOTO ASSISTANT: RYAN RUSIECKI. ALL ARTWORKS © LUCAS SAMARAS, COURTESY OF PACE GALLERY, NEW YORK

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