イタリアン・デザインの流れを静かにーーしかし、果敢に変えたカルロ・スカルパの軌跡

BY NANCY HASS, TRANSLATED BY ASAHI INTERACTIVE

画像: 1978年当時のスカルパ PHOTOGRAPH BY LINO BETTANIN/CISA A. PALLADIO/REGIONE VENETO

1978年当時のスカルパ
PHOTOGRAPH BY LINO BETTANIN/CISA A. PALLADIO/REGIONE VENETO

 20世紀半ばのイタリアは、世界でもずばぬけて豊かなデザインと建築を生み出した。その特徴は真っ白な色と冷たいスチール、そして光沢のある色とりどりのプラスチック。なかでも魅力的だったのは、人々に愛され続けてきたイタリア古代の歴史に晴ればれと別れを告げた、その潔さだ。ジ オ・ポンティは1958年、スリムなピレリ・タワーでミラノの景観を様変わりさせた。家具メーカーのカッペリーニとカルテルは、「リニア・イタリアーナ」と呼ばれるスタイルの、フェリーニ的な斬新さを方向づけた。

 そこへ登場するのがカルロ・スカルパだ。ほかのモダニストたちが過去を投げ捨てたのに対し、戦後から1970年代の末にかけて彼が手がけたのは、過去を深く敬いつつ変容させた作品だった。スカルパの建築は、当時の無遠慮で派手な作風に対する解毒剤だった。これ見よがしの人工的な華やかさに、自然な繊細さで対抗した。個人の邸宅や公共の建物をいくつか一(いち)から建てたこともあるが、評判を呼んだのは何百年も前からあった美術館の改築だ。ほかの建築家なら、過去による制約が大きすぎるからと目もくれないような仕事だった。修復の過程で彼が描いたのは、歴史を尊重しながら、それを超えていくためのロードマップ。フランク・ロイド・ライトをこよなく愛し(ライトもまたスカルパを絶賛した)、モンドリアンやアルバース、ロスコ、ヨーゼフ・ホフマンからも着想を得た。

 日本を何度も訪れ、木材とコンクリート、錆びた金属、トラバーチンにガラスなど有機的な素材と無機的な素材の融合を、欧米で流行するより何十年も前から取り入れた。細部に強くこだわり、ねじやヒンジから手作りすることもあった。フィリップ・ジョンソンがかつて指摘したように、「ほんの小さな棒切れや石のかけらも詩にしてしまう」こともできた。友人の建築家、ルイス・カーンはスカルパについて書いた詩の中で、緻密な作業で形を工夫する彼の力を称賛し、「ディテールは自然への崇拝だ」とつづった。スカルパの没後40年近くたった今も、ミニマリスト的な家具や比類なきガラス細工など、寡作ながら強烈な作品の数々は、制作当時と変わらない破壊的な簡素さで見る者の心を打つ。

画像: ヴェローナにあるポポラーレ銀行の漆喰の壁。スカルパはブロックを組み合わせたような幾何学的な形が好きだったことがうかがえる PHOTOGRAPH BY VACLAV SEDY/CISA A. PALLADIO

ヴェローナにあるポポラーレ銀行の漆喰の壁。スカルパはブロックを組み合わせたような幾何学的な形が好きだったことがうかがえる
PHOTOGRAPH BY VACLAV SEDY/CISA A. PALLADIO

画像: (写真左上から時計回り)チューリヒのツェントナー邸からは、同じ形の繰り返しを好んだことがわかる。 ポッサーニョのカノーヴァ美術館では 窓を壁から切り離して天窓を造った。 ベネチアにあるオリベッティ・ショールームの壁は、イストリア石に真ちゅうとつや消しの金を使った装飾がよく合う (CLOCKWISE FROM TOP LEFT)PHOTOGRAPH BY KLAUS FRAHM/ARTUR IMAGES, LAUREN COLEMAN, JEAN-PIERRE DALBÉRA

(写真左上から時計回り)チューリヒのツェントナー邸からは、同じ形の繰り返しを好んだことがわかる。
ポッサーニョのカノーヴァ美術館では 窓を壁から切り離して天窓を造った。
ベネチアにあるオリベッティ・ショールームの壁は、イストリア石に真ちゅうとつや消しの金を使った装飾がよく合う
(CLOCKWISE FROM TOP LEFT)PHOTOGRAPH BY KLAUS FRAHM/ARTUR IMAGES, LAUREN COLEMAN, JEAN-PIERRE DALBÉRA

 スカルパの知名度が同時代の建築家たちに比べて低いとしたら、それはたぶん、ほとんどの作品がベネチア周辺ばかりに集中しているからだろう。前衛的な街ミラノに対し、ベネチアはイタリアの大都市の中で、今も深く伝統が息づく街だ。だが知名度が低い理由はもうひとつある。彼の作品はすべて、自我を埋もれさせることによって作られた部分があるという点だ。スカルパを知る人の多くが、彼は地味で几帳面で、大変な読書家だったと口をそろえる(友人たちは彼の膨大な蔵書をいつでも自由に読むことができた)。スカルパは自分が後世に何を残すか、作品は汚されずに守られるのか、などと思いわずらうような人物ではなかった。2013年にスカルパについて研究論文を書いたロバート・マッカーターによると、彼は「未完成の美」を信奉し、「自分の作品に将来何かが加えられることを恐れず、万物は移り変わるものだということを理解していた」という。

 スカルパにとって、ベネチアはいわば文明発祥の地だった。1906年にここで教師の息子として生まれ、子ども時代も市内やその周辺で過ごした。ベネチアの芸術学院を卒業したのち(スカルパは一度も建築士の資格試験を受けようとせず、建築家に使われる「アルキテット」ではなく先生を意味する「プロフェッソーレ」の敬称で呼ばれることが多かった)、そのキャリアのうちの15年間をムラノ島のガラスメーカー、ヴェニーニで過ごし、デザイン部長を務めた。スカルパがこの間ずっと、ほとんど宗教のように信じ続けていたことがある。それは、自分のモダニストとしての感 受性を、ベネチアに伝わるゴシック様式の歴史や、かすかにずれた対称性の魅力とうまく融合させることができるであろうということだった。

画像: 木と革でできたメリタリア社の618チェアは、異なった風合いと素材の対比が特徴 PHOTOGRAPH BY LAUREN COLEMAN

木と革でできたメリタリア社の618チェアは、異なった風合いと素材の対比が特徴
PHOTOGRAPH BY LAUREN COLEMAN

 建築分野に戻ってからスカルパが手がけた建物は、その建物本来の統合性が保たれるという特徴が際立っていた。ヴェローナに築かれた14世 紀の要塞に建つカステルヴェッキオ美術館は、それまで何度も改修が繰り返されていたが、スカルパは壁の美術品をイーゼルや頑丈なスチール枠のガラスケースに移した。床を壁から離して間に溝を造り、かつて城を囲っていた堀を表現した。16世紀の邸宅を改修したケリーニ・スタンパリア財団の庭園には、コンクリートとモザイクを組み合わせ、石こうとイストリア石を迷路のように配した階段状の銅製の池を設けた。そこからは荒涼とした空気とともに、なぜか古代の雰囲気が漂う。

 彼が使う素材は常に幾何学的な強弱を醸し出す。それが部屋を優美に縁取り、見る者の目は元からのディテールとともに、彼が新たに設けた巨大な円形に近い窓やドア、吹き抜けの天井、外から差し込む自然光、めまいのするような階段へと引きつけられる。ベネチアにあるオリベッティ・ショールームでは、大理石の板で造った中央階段が宙に浮いているように見える。新古典主義の彫刻家、アントニオ・カノーヴァの作品陳列館に増設されたカノーヴァ美術館では、コーナー窓と天窓を兼ねた箱状のガラスから入る陽射しが石こう像を照らし出す。

画像: (写真左)ベネチアのバルボーニ邸に設けられた曲線的なラサ大理石の階段。(写真右)1970年代の大理石テーブル (FROM LEFT)PHOTOGRAPH BY KLAUS FRAHM/ARTUR IMAGES, PIASA, PARIS

(写真左)ベネチアのバルボーニ邸に設けられた曲線的なラサ大理石の階段。(写真右)1970年代の大理石テーブル
(FROM LEFT)PHOTOGRAPH BY KLAUS FRAHM/ARTUR IMAGES, PIASA, PARIS

画像: 1978年、トレヴィーゾ近郊に建てられたブリオン家の墓。丸窓の向こうに瞑想の東屋が見える PHOTOGRAPH BY TYLER PORTER

1978年、トレヴィーゾ近郊に建てられたブリオン家の墓。丸窓の向こうに瞑想の東屋が見える
PHOTOGRAPH BY TYLER PORTER

 スカルパは実際、ベネチアに不足しがちな明るさを常に招き入れようとした。日本への度重なる訪問では、水を味方につけることの大切さを学んだ。太鼓橋を設けたり、床を一段下げて水を流れ込ませ、建物の一部として扱ったりする。これは運河沿いの街で建築に取り組むスカルパにとって、きわめて重要な意味をもっていた。彼のお気に入りのモチーフの中でも、閑寂の趣と均衡、不要なものをそぎ落とす美意識、わざと未完成の状態で残した障子の格子などは、日本からヒントを得たものだ。彼はまた、数霊術にも興味を抱いた。自分の名前のナンバーとされる(本人による正式な説明は一切なかったが)11という数字は彼の建物や、驚くほど美しい印象派的な完成予想図の至るところに埋め込まれていた。スカルパは自身のことを、欧州人でありながら東洋を目指したビザンチン帝国の航海士によくなぞらえていたとおり、まさに「心はビザンチン人」だった。

画像: (写真左)ブリオン家の墓には丸窓や計画的に配置された小さな窓、コンクリート打ち放しの手法など、スカルパの特徴的なモチーフがすべてそろっている (写真右)ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館。スカルパが14世紀の建物に光と空気を招き入れた PHOTOGRAPHS BY KLAUS FRAHM/ARTUR IMAGES

(写真左)ブリオン家の墓には丸窓や計画的に配置された小さな窓、コンクリート打ち放しの手法など、スカルパの特徴的なモチーフがすべてそろっている
(写真右)ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館。スカルパが14世紀の建物に光と空気を招き入れた
PHOTOGRAPHS BY KLAUS FRAHM/ARTUR IMAGES

 彼の作品の頂点に位置するのは、トレヴィーゾ近郊にあるブリオン家の墓かもしれない。電機大手ブリオンベガ社のオーナー一族から、家族の墓地兼庭園として建築を依頼され、10年近くかけて完成させたものだ。ブリオンのすべてにスカルパらしさが表れている。ジュゼッペ・ブリオンと妻オノリナの墓石の上に、典型的なアーチ型の歩道橋。二つの墓石は幾何学的な配置を崩すように、互いの方向へ傾いている。コンクリート製の巨大な建物の中には、吹き抜け天井のある広大なタイル張りの礼拝堂。計画的に配置された小さな窓にはガラスでなく極薄の大理石が使われ、そこからやわらかな光が差し込む。二つの円の一部を重ねた形の大きな丸窓の向こうには、瞑想の東屋(あづまや)が見える。丸窓の形はブリオンの愛の本質を示すヴェン図か、あるいは永遠の象徴だろう。

 11という数字のいわれの最後はスカルパ自身だった。最盛期を迎えていた72歳のとき、訪日中にコンクリートの階段から転落した。時は11月、病院で過ごした亡くなるまでの11日間に、彼は友人たちへ贈る挿絵入りの本を作った。話すこともできず、裏返しの文字しか書けなくなった状態で、ほとんど最後の瞬間まで作業を続けた。遺体は本人の遺志に従って、質素な白い麻シーツで中世の騎士のように包まれ、立った姿勢でブリオンに埋葬されている。

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