現代美術史に名を刻むアートディーラー、ジャン・エンツォ・スペローネ。スイスの山あいの小さな村にある、彼の家を訪ねた

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY RICARDO LABOUGLE, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

アートと人生の記憶が織りなす家①

画像: 1階のプライベートギャラリーには、アルド・モンディーノのブロンズ作品《Eiffel Tower》(1989年)のほか、ノット・ヴィタルによる複数の彫刻作品―石膏の《Piz Ajüz》(2007年)、黒大理石の《His Master’s Voice》(1992年)、大理石の《Moon》(2004年)などが展示されている。アーチの下に佇むのは、イタリア人彫刻家アントニオ・カノーヴァによる石膏胸像(1795年)。 ARTWORK,FROM LEFT: ALDO MONDINO, “EIFFEL TOWER,” 1989 © 2025 ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/SIAE, ROME; NOT VITAL, “PIZ AJÜZ,” 2007, “HIS MASTER’S VOICE,” 1992 AND “MOON,” 2004 © NOT VITAL

1階のプライベートギャラリーには、アルド・モンディーノのブロンズ作品《Eiffel Tower》(1989年)のほか、ノット・ヴィタルによる複数の彫刻作品―石膏の《Piz Ajüz》(2007年)、黒大理石の《His Master’s Voice》(1992年)、大理石の《Moon》(2004年)などが展示されている。アーチの下に佇むのは、イタリア人彫刻家アントニオ・カノーヴァによる石膏胸像(1795年)。
ARTWORK,FROM LEFT: ALDO MONDINO, “EIFFEL TOWER,” 1989 © 2025 ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK/SIAE, ROME; NOT VITAL, “PIZ AJÜZ,” 2007, “HIS MASTER’S VOICE,” 1992 AND “MOON,” 2004 © NOT VITAL

 約20年前、ノット・ヴィタルの代理人を務めていたスペローネは、スイス出身のヴィタルのアトリエがある、ここセント村を訪れた。その際、ヴィタルとその弟で建築家のドゥリ・ヴィタル(68歳。スペローネの家の近くに住んでいる)からこの邸宅のことを聞いた。アルプスを見渡せる、クリーム色の漆喰の外壁とグレーのシャッターが印象的なこの16世紀築の邸宅が、売却され複数のアパートメントに分割されてしまう恐れがあるという話だった。「エンガディン渓谷屈指の美しさと歴史を誇るこの建造物が、短絡的な利益のためだけに壊されるなんて考えられないことでした」とドゥリ。この建物は1709年に一度改築され、ヴァルテッリーナ地方(註:現在のイタリア・ロンバルディア州。この地方は中世から近世にかけて多様な勢力に統治されていた)の総督邸として使われていたこともあるという。ドゥリは、イタリア・リグーリア州出身の当時のオーナー一家に、きちんとした買い手を見つけるので、改築プロジェクトは思いとどまってほしいと懇願した。その後、スペロネが購入を申し出たわけだが、契約を締結するには村長の承認が必要だった。幸い、スペローネは言葉で人を動かす術すべに長けている(2007年、NYバワリー地区に新しい「スペローネ・ウェストウォーター」ギャラリーを開くため、イギリスの建築家ノーマン・フォスターに設計を依頼したのだが、その際「ギャラリーの所属アーティストたちみんなが、レンゾ・ピアノよりあなたを推している」と、まことしやかに語った。だが実際は誰にも意見など聞いていなかった)。「村長は、農業を営まれているとても聡明な方で、私は彼に、ここで毎年文化的な活動を行うと約束したんだ。そしてもちろんその約束を守っている」とスペローネ。メインハウスの地下にあった、古い貯蔵室と干し草置き場を公共の展示スペースに生まれ変わらせ、最近はブルックリンを拠点に活躍する中国人画家のデン・シーチンや、アメリカ人アーティストのトム・サックスの展覧会などを催している。ドイツ人アーティスト、ヴォルフガング・ライプがミツロウでコーティングしたタイルで壁と天井を覆った、常設の没入型インスタレーションも設けられている。

 歴史的建造物に大がかりな改修を施すには、厳正な審査を通らなければならない。だが白いヒゲを短く整え、青いフレームの眼鏡をかけた独特の存在感を放つスペローネは、エレベーター設置の許可さえも見事に勝ち取った。そもそも彼が最上階のメインベッドルームとほかのフロアをつなぐエレベーターがほしいと思ったのは、あるときアメリカ人の作家ゴア・ヴィダルと深酒したせいだと言う。「飲みすぎて一週間も体調を崩してしまってね。ヴィダルはすでに車椅子で生活していたし、自分もいつか車椅子が必要になるかもしれないと思ったんだ」。改修工事には2 年ほどかかったが、これを監督した建築家ドゥリは、建物の歴史的な価値と審美的な統一感を何より重視したと言う。最も頭を悩ませたのは、屋敷の東側で生じた水害の問題だそうだ。新たな浸水を防ぐためにドゥリのチームは、6mの溝を掘について話を始めた。映画のストーリーは、邸宅での晩餐会に集った客たちがなぜか外に出られなくなり、それぞれが本性を露わにして争い合うというもの。「結局、あれは悲劇さ」と彼は言う。「でも私の場合、あそこまでは悪くない。この家で日々を過ごし、散歩をし、山々を眺めていられるのだから」

画像: ダイニングルームを飾るのは、フェルナン・レジェ、ウィリアム・ウェグマン、ロレンツォ・ディ・ニッコロ、マリオ・シローニ、アンドレア・アッピアーニ、フランソワ=ジョゼフ・キンソンの作品

ダイニングルームを飾るのは、フェルナン・レジェ、ウィリアム・ウェグマン、ロレンツォ・ディ・ニッコロ、マリオ・シローニ、アンドレア・アッピアーニ、フランソワ=ジョゼフ・キンソンの作品

 1 階のギャラリーにも、ノット・ヴィタルの彫刻が数点並んでいる。なかでも目を引くのは、シルバーの球体が二列に並んだ作品だ。それぞれの球体は西アフリカのニジェールのトゥアレグ族の職人が手作業で成形したもので、ヴィタルいわく、内部にラクダの遺骸が収められているそうだ。スペローネは2階に上がった。フレスコ画の床とゴシック様式のアーチ天井が印象的なベッドルームを過ぎ、廊下の先にあるリビングルームに入ると、ヴィタルが手がけたスペローネのポートレイトが飾られている。だがポートレイトと言っても、伝統的な肖像画ではなく、スペローネの指、耳、鼻だけをブロンズで鋳造した立体作品だ。また、家のあちこちには、彼をこれまで支えてきた人々、また彼自身が支えてきた人々の記憶の断片がちりばめられている。たとえば、1965年にトリノで開催したアンディ・ウォーホルのシルクスクリーン展のフライヤー、ジュリアン・シュナーベルが「G.E.S.」(註:ジャン・エンツォ・スペローネ)宛てに献辞を添えた写真。そして2002年に逝去した、エイズ活動家でありアメリカ人画家のフランク・ムーアの葬儀の式次第。スペローネが静かに言葉を紡いだ。
「こうしたものに囲まれていると、自分は、国家などという枠組みを超えた、もっとずっと普遍的な共同体の一員だと実感できる。生きていると感じられるんだ」

画像: メインベッドルーム。ベッドの奥に飾られているのは、クリストファノ・アローリによる16世紀の作品《The Tale of Cyparissus》など、複数の絵画。手前に見えるのはアレッサンドロ・トゥオンブリーの絵画(2012年)と、ドメニコ・マネーラ・カノーヴァによる石膏胸像(1810年)。

メインベッドルーム。ベッドの奥に飾られているのは、クリストファノ・アローリによる16世紀の作品《The Tale of Cyparissus》など、複数の絵画。手前に見えるのはアレッサンドロ・トゥオンブリーの絵画(2012年)と、ドメニコ・マネーラ・カノーヴァによる石膏胸像(1810年)。

 そこからまた1 階上の、もともと屋根裏部屋だった空間が、夫妻のベッドルーム兼書斎。木の床や、梁はりがむき出したままの天井がまさにロフト風だ。ベッドサイドに並ぶのは、サイ・トゥオンブリーの息子で、イタリア生まれのアーティスト、アレッサンドロ・トゥオンブリーの絵画や、トリノで活動するニコラ・ボッラによるトランプで作ったスカルヘッド、また清掃員だったスペローネの父親と主婦だった母親(ともに中年期に他界した)のざらついた質感のモノクロ写真。スペローネには前妻との間に息子が二人いるが、いずれも芸術には関心がなく、最近、彼は自らのレガシーを後世にどう託すか思案し始めていると言う。また、左派系イタリア紙『イル・マニフェスト』のコラムに寄稿を始め、忘れられたNYの記憶と、そこで出会った名だたる人物─彼のヒーローであるギャラリストのレオ・カステリから、ミニマリストのアーティスト、カール・アンドレまで─にまつわるエピソードを綴っているそうだ。2025年5月、86歳の誕生日にはローマの聖ルカ・アカデミー(芸術家協会)に古典の巨匠による33点の名品を寄贈した。「アカデミーは私のコーナーをつくってくれた。狭いながらも、そこには私の名前が刻まれているんだ」

 半世紀以上にわたりアートコレクターとして活躍してきたスペローネは今、作品が最もふさわしい人の手に託されるよう、その橋渡しに尽力している。時代の精神は、その時代を生きる者だけが理解できる─彼はそう考えている。「年を重ねると、同時代のアートを肌で感じ取れなくなる。この歳になると、まだ形をもたない未知の何かよりも、過去に惹かれるようになるんだ」

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