最新アルバムのタイトル『async』の意味とは

BY SHIN-ICHI FUKUOKA

 空気中の水蒸気の粒までがすべて氷結して落下してしまうような、そんな透きとおるほどに凍てついたその夜、私たちは、ニューヨークのウェストビレッジにあるビストロ「B」のほの暗い一隅で、坂本龍一さんを囲んで食事をしていた。日本からやってきた坂本さんの古い友人たちも一緒である。

 数年前、病を得た坂本さんだったが、その後すっかり健康を回復され、イニャリトゥ監督の大作『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽を制作するなど再び精力的に活躍されているのは周知のとおり。ただ、食事には気を遣われているようで、選んだメニューは、野菜中心、ポーションも少なめに、というものだった。

 昨年の時間の大半は、ずっと新しいアルバムの制作に集中して費やされたという。それがついに完成した。ただし内容や音源は発売日までいっさい明らかにしない。私たちには、ただ、そのタイトルだけが知らされた。『async』いったいどんなものなのだろう。このタイトルを手がかりに推測するしかない。

 このところ、幾度かニューヨークで坂本さんとお話しする機会があるのだが、決まって収斂(しゅうれん)する話題がある。それはこんな話だ。人間の知性は、細胞を発見し、遺伝子を解読、がんの分子機構を明らかにし、さらに原子、クォーク、レプトン、ボソン......とぐんぐん解像度を上げて世界の成り立ちを解析してきた。最近もヒッグス粒子や重力波の存在が確認されたというニュースが新聞の科学面を飾った。

 しかし実のところ、これらの発見とは、聖なる布をめくったらそこに光り輝く宝石が見つかった、というふうな、単純な意味での発見ではない。巨大な加速器や大規模な観測施設を造って、何日もあるいは何年もかかってデータを集め、膨大なノイズの中からほんのわずかなシグナルとおぼしきものを検出し、そこに意味を付与した結果、“発見”されたものだ。

 意味を付与し、解釈を行なった主体とは誰あろう、私たち人間の願望である。世界はかならずや美しい秩序と階層をもって成り立っているに違いないという私たちの知性の希求である。発見はそれに沿って具現化する。

画像: PORTRAIT BY SHIRO TAKATANI

PORTRAIT BY SHIRO TAKATANI

 今からもう30年以上も前のこと。コーネル大学の若き科学者マーク・スペクターが驚くべき発見を行った。発がんの仕組みを調べていた彼は、がん遺伝子が分子Aを活性化し、AがBを活性化、ついでBがCを活性化する......という連鎖的な因果関係をみごとに立証した。カスケード理論。情報は滝が多段階に流れ落ちるように連鎖し、そのたびに増幅されて広がる。ついにがんの根本原理が解明された。世界中が瞠目(どうもく)した。スペクターはノーベル賞間違いない!

 ところがまもなく事態が暗転する。同僚がデータの捏造に気づいたのだ。STAP細胞など足もとにも及ばないほど、それは実に巧妙に完璧に作り上げられていた。実際に実験を行うよりもずっと手の込んだ、複雑な方法でカスケード理論を裏づけるデータが偽装されていた。しかしスペクターは最後まで捏造を認めず、学界から姿を消した。だから真相も動機も明らかではない。でも、と私たちは語り合った。スペクターの心のうちにあったものもまた、世界を統すべる美しい秩序への希求ではなかったか、と。

 美しい秩序とはなんだろう。それはこの世界に存在するシンメトリーや黄金比やある種のシンクロニシティである。でも、本当はそんなものは世界のどこにも存在してはいない。世界はもともと動的で、たえず流動し、カオティックで、多元的で、ランダムなものだったし、これからもそのようにあり続ける。ノイズだけから成り立っている。

 美しい秩序が存在しているのは私たちの脳の中なのだ。私たちはその願望を世界に投影し、その輪郭線に沿って、世界を切り取っているにすぎない。それはシンメトリーや黄金比やシンクロニシティをもってそこに存在しているように見える。そこにすばらしい美があるように感じる。でもそれは本当の自然の姿ではない。ヒトの知性=ロゴスが作り出した自分自身の幻影だ。

画像: 坂本龍一の最新アルバム『async』 2017年3月29日にcommmonsより発売 COURTESY OF COMMMONS

坂本龍一の最新アルバム『async』
2017年3月29日にcommmonsより発売
COURTESY OF COMMMONS

 asyncの〈a〉は否定の接頭辞の〈a〉ではないだろうか。普通でないこと(anomaly)、それ以上分解できないもの(atom)、規範がないこと(anomie)......だと すれば、asyncは、シンク、つまりシンクロニシティを否定するもの、ということになる。坂本龍一は、自身の音楽的な達成のすべてをもって、近代的な知性が希求してきたものに対して何らかのアンチテーゼを提示してくるつもりなのかもしれない。もしそうなら、新しいアルバムのフィルムをはがした瞬間、そこから立ち上がるものは限りなくスリリングなパラダイム・ シフトとなることは間違いない。

 坂本龍一の最新アルバム『async』の発表にともない、「映像喚起力の強い音響作品」という本作を体験するためのインスタレーション が 4月4日より東京・ワタリウム美術館でスタートする。美術館2階はアルバムを5.1ch音響と高谷史郎による音と映像のインスタレーションで楽しむメインフロア、 3階はアルバム制作現場から切り取られたインティメートな映像作品を展示、そして4階は来場者が坂本とのインタラクションや、古い作品を楽しめるバイオ グラフィカルな開かれた空間が展開される。(有料展示)

Ryuichi Sakamoto | async坂本龍一|設置音楽展
会期:2017年4月4日(火)〜5月28日(日)
会場:ワタリウム美術館
住所:東京都渋谷区神宮前3-7-6
時間:11:00〜19:00(水曜は〜21:00)
休館日:月曜
入館料:大人 ¥1,000、学生(25歳以下)¥500、70歳以上 ¥700
電話:03(3402)3001
公式サイト

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